vol.2 藤城嘘 Uso FUJISHIRO

(C)Uso Fujishiro, 2018


2018年6月16日(土)~8月10日(金)
11:00~19:00 日月祝休 入場無料

アーティストトーク 6月16日(土)18時~19時
オープニングパーティー 6月16日(土)19時〜


嘘のウソはほんとかな?:藤城嘘の作品について
蔵屋美香


 

「主題のせいで、まだポップの芸術(わざ)が目に入ってこないのです」(1)

 藤城嘘はキャラクターを制作の主なテーマとしている。では藤城が言うキャラクターの中身とは一体どんなものなのか。
 2000年代以降、キャラクター論はオタク発の文化をベースにさまざまに展開されてきた。マンガ批評家の伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(2005年)の中で、「キャラクター」と「キャラ」の区別を立てた。「キャラクター」は物語の中で一定の人格を持つ登場人物のことを指す。対する「キャラ」は、ギリシャ語でキャラクターの語源にあたる「刻まれた印、記号」に近いもの、つまり物語とは関係なく、ぱっと見てすぐ認識できる身体的特徴こそが重要な図像のことを指す(2)。
 伊藤の論から10年以上がたった今日でも、アニメやゲーム、ネットの世界では、猫耳、巨乳といった身体的特徴からメイド服、巫女服といった服装、ツンデレ、ドジっ娘などの性格に至るまで、「萌え要素のデータベース」(3)から抽出した特徴を組み合わせた「キャラ」が日々生み出されている。同時に「キャラ」は、ネットゲームで共に時間を過ごす相手、という、受け手ごとにカスタマイズされた物語を生きる新しい意味での「キャラクター」としての性質を獲得し、2005年時点の「キャラクター」と「キャラ」の境界は今日大きく変化したようにも見える。

 藤城は2008年3月、17歳で「ポストポッパーズ」を立ち上げた。ネットで活動する絵師たちの作品を現実空間に展示するこのプロジェクトは、翌年3月の「カオス*ラウンジ」の展示活動に引き継がれた。2010年には美術家、美術批評家の黒瀬陽平がカオス*ラウンジに加わって活動が多様化し、現在に至っている。
 この間藤城の作品には、一貫してオタク文化由来の美少女をはじめとする[キャラクター]が用いられてきた(伊藤の言う「キャラクター」と区別するため、以後藤城が用いるキャラクターを[ ]で表記することにしよう)。しかし藤城の[キャラクター]の使用は、17歳の当初から、好きなものを絵画の世界に持ち込んで描いてみた、といった単純な動機によるものではなかった。それは「21世紀の東京に生まれ育った『オタク』のアーティスト」として、ネット社会の感性を絵画に生かすべく背負った「使命のようなもの」だった、と藤城は言う(4)。したがって藤城の[キャラクター]に対する態度は、いちオタクとしての耽溺と、使命として[キャラクター]を扱う距離感との両義性を持っている。

 活動を開始して3年目、藤城にとって[キャラクター]は、東日本大震災を機に大きく意味を変えることになった。
 20歳の藤城は、2011年3月11日を蒲田のホテルで経験した。ちょうどホテルの室内に絵を描く「カオス*サンライズ」というプロジェクトが進行中だったのだ。その後2011年から2012年にかけ、藤城はカオス*ラウンジのメンバーとともに何度か被災地を訪れた。今回の出品作のうち、卒業制作の《Time/ Kirara/ Charat》(2015年)は、2011年7月、津波に襲われ無音となった街で一晩を過ごした経験を元に描かれた。この作品を藤城は「夜の絵」と呼んでいる。これと対になる通称「昼の絵」、《とある人類の超風景~DAY~》(2012-13年)は、2012年に黒瀬が出した、「これまでのオタク的なキャラクターによる作風は維持しつつも、巨大なゴミ捨て場のようにも、極楽浄土のようにも見えるような」震災以後の新しい風景画を描いてほしい、というオーダーに応えて制作された(5)。ここでは画面の大半を巨大な太陽が占め、藤城作品の常連である美少女は太陽に焼き払われたように姿を消している。
 藤城は[キャラクター]を、有機生命体としては実在しないにもかかわらず強く感情を動かすもの、と定義する(6)。たとえばデータに過ぎない少年少女に愛着をおぼえる「萌え」は、[キャラクター]が作動する典型的な例だろう。しかし2011年を経たことで、「実体はないのに感情を動かす」[キャラクター]は、オタク文化をはるかに越える射程を持つことになった。すなわち、震災の死者としての「幽霊」(東浩紀によれば「幽霊」とは「いまここに存在しないにもかかわらず、しかし同時にいまここに存在するかのような錯覚を与える、そのような両義的存在」である)や、慰霊の役割を担う神仏が、[キャラクター]の範疇に入り込んでくることになったのだ(7)。震災後間もない2011年6月、藤城はインタビューに応えて次のように語っている。
 「地震が起きてから大勢の人が同時に大きな不安を抱え、『もし地震がなかったら』という並行世界(想像上のもうひとつの世界)ができてしまったと思うんです。作り手としても絶対に目をそらしたくはありません。そこから、いままでと違うアニメーションやキャラクターの需要が発生したり、あるいは、祈りを捧げる対象としてのキャラクター信仰が生まれたりするかも知れません」(8)
 震災で亡くなった死者は、想像上の「並行世界」に生き続ける「幽霊」となり、わたしたちの感情を揺り動かす。死者の霊を慰める神仏もまた、実在はしないがわたしたちの感情を吸い寄せる。
 今回の個展のための新作《オルガナイズ / ORGANEYES》(2018年)では、しゃべりを担う「中の人」の存在を透かし見ながらネット上の美少女を愛でるという、まさに「いる」と「いない」の両義性を楽しむ新しい現象、「バーチャルYou Tuber(V Tuber)」がテーマとなっている。
 こうして藤城嘘は、ウソ(つまり[キャラクター])を描きながら、実在しない視覚的イメージが現実に力を及ぼす場所を次々と探索していく。

 ところで、藤城がこうした[キャラクター]や震災についての見解を他でもない絵画という形式に落とし込んで具体化していることの意味を改めて考えねばならない。藤城が意識的に絵画というメディウムを選んでいる以上、一度はその作品を「ベタな」絵画分析の流儀にしたがって仔細に見る必要がある。サブカル由来のモチーフの使用に目を眩まされがちだが、実は藤城の作品はどれもきわめてオーソドックスな画面構成によって成り立っている。
 たとえば画面に頻出する水平、垂直の軸線だ。少女はかわいらしさ、幼さを強調する横方向に広がる形態を持つ。逆に男性は《バベルのメン》(2017年)に見られるように、極端に垂直方向に引き伸ばされたプロポーションを持つ。
 また、震災後の新しい風景画という課題に応えた上記「昼の絵」の前後から、藤城の作品には画面の下4分の1ほどの位置に引かれた横の線がよく現れる。この線は地平線となって画面内に地面と空という空間性を生じさせるが、その空間はしばしば他の空間構成原理によって侵食され、混乱させられている。たとえば「昼の絵」では地平線が向かって右側で垂直に上昇し、まったく別の、一覧表のようなグリッド状の空間につながっていく。
 藤城の好むグリッド構造は「夜の絵」、《キャラクトロニカ》(2013年)などの作品にいっそうはっきりと表れている。
 「夜の絵」では青地に浮かぶ48種類の目が、アイコンが並ぶiPhoneの画面を模倣する。同時にこれらの目は、「昼の絵」で少女を焼き払った巨大な太陽(明らかに眼球を思わせる)が分裂し、夜空に浮かぶ無数の星としての少女の目に姿を変えて回帰したもののようにも見える。
 《キャラクトロニカ》のグリット構造はまた種類の異なるもので、画面内に散らばる断片的な線によってゆるやかに作られている。縦横の線の中に時折引かれる斜めの線が一瞬少女の髪や顔の輪郭を浮かび上がらせ、次の瞬間にはまたグリッド構造の中に飲み込まれていく。このように、開かれた線同士が結び合って具体物を作り、すぐに背景へと溶け出す視覚上のしかけは、20世紀絵画の王道であるキュビスムにおいて特徴的に用いられたものに類似する。
 また藤城は、[キャラクター]という言葉には人やモノの図像に加え、文字(英語でcharacter)も含まれると考えており、そのため常に多くの文字を画面に書き込む。文字もまた、モノとして実在はしないが現実に強い力を及ぼすものとして、まさに[キャラクター]の定義に合致する。文字は多くの場合水平または垂直軸にそって配置され、形象としてグリッド構造を作る役目の一旦を担いながら、同時に画面内の人物の発話内容としても機能する。たとえば《オルガナイズ /ORGANEYES》では、「は?」という文字が中空に浮かぶ二つの大きな目に「何かを懐疑的に問いかける人」という性格を与えている。

 さて、わたしがこうして藤城の作品をいかにも絵画らしい手法で分析するのは、なにもサブカルを芸術の領域に引き寄せ、権威付けるためではない。事態は逆である。藤城は新しいメディア発の視覚イメージと絵画の関係について次のように言う。
 「絵画は最新のメディアからかけ離れているが故に、視覚モードの変化や記録メディアの進化に対し、常に批判し続けることができる」(9)
 つまり、ポップ・アートの概説書などでよく言われるように、絵画の制度を批判的に問うためポピュラー・カルチャーのイメージの取り入れが図られるのではない。藤城は逆に、新しいメディアが生むイメージの批判的検証のために、絵画というオールド・メディアが持つ距離を武器にしているのである。
 アニメ絵、オタク絵と呼ばれるものによい感情を持たない人は、美術の世界にはまだまだ多いだろう。しかし、モチーフのレベルでの好悪に引きずられて藤城の作品から目をそらしてはいけない。「主題のせいでポップの芸術(わざ)が目に入ってこない」という事態を、わたしたちは回避しなければならない。なぜならそこには、絵画にとって本質的な、虚が実に力を及ぼす、という問題を新しい側面から考え、絵画という古いメディアを現実に対して有効に働く手立てとして鍛え直すための、大切な鍵が潜んでいるのだから。

 

(1) レオ・スタインバーグのニューヨーク近代美術館シンポジウム(1962年12月13日)における発言。ハル・フォスター(中野勉訳)『第一ポップ時代』河出書房新社、2014年、p.14より引用。
(2) 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』星海社新書、2014年、p.126
(3) 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(電子書籍版)、講談社、2012年、No.750
(4) 藤城嘘、αMプロジェクト2018「絵と、 」(ギャラリーαM、2018年)のためのステートメント
(5) 黒瀬陽平「『受け入れ』の国」『GENDAI*ART vol.1』カオス*ラウンジ、2012年、p.8
(6) 藤城嘘、αMプロジェクト2018「絵と、 」(ギャラリーαM、2018年)のためのステートメントのための未定稿
(7) 東浩紀「批評とは幽霊を見ることである」『ゲンロン5 幽霊的身体』ゲンロン、2017年、p.9
(8) 藤城嘘(聞き手:古田雄介)「古田雄介の“顔が見えるインターネット”」第95回「ネットの『熱さ』、現代アートに―藤城嘘とカオス*ラウンジ」2011年6月、http://ascii.jp/elem/000/000/611/611133/ 2018年6月15日閲覧
(9) 藤城、前掲ステートメント

 

 

▊藤城嘘 ふじしろ・うそ▊

1990年東京都生まれ。2015年日本大学芸術学部美術学科絵画コース卒業。
2008年より、SNSを通してweb上で作品を発表する作家を集めた「ポストポッパーズ」「カオス*ラウンジ」など、多数の集団展示企画活動を展開。主な個展に2017年「ダストポップ」(ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエ)、2013年「芸術係数プレゼンツ藤城嘘個展『キャラクトロニカ』」(EARTH+GALLERY)、2010年「モストポダン」(青山 ビリケンギャラリー)、「a white lie」(Hidari Zingaro)など。
「カオス*ラウンジ」として主な展示に、2015~2017年「カオス*ラウンジ新芸術祭」(福島県いわき市)、「Reborn Art Festival2017」(宮城県石巻市)、2016年「瀬戸内国際芸術祭2016」(香川県高松市女木島)、2014年「キャラクラッシュ!」(東京都文京区湯島)など多数。

https://twitter.com/xlie_ 2018_fujishiro_1.jpg

(左)「DUST POP」2017年|キャンバスにアクリル
(中)「いわき勇魚取りグラフィティ」2016年|キャンバス布にアクリル
(右)「Time/ Kirara / Charat」2015年|キャンバスにアクリル

 

協力:合同会社カオスラ