αMプロジェクト1990-1991 vol.15 大坪光泉+竹田康宏

1992年1月14日~2月8日



植物への現代感覚行為 
造形といけ花の相関




赤津侃

大坪光泉は、いけ花龍生派の現代作家であり、竹田康宏は現代美術の作家である。両者の共通性は、竹田が植物(木)を素材に造形することが多かった点に求められる。造形といけ花の相関という今回のテーマで、両者のコラボレーションは、それぞれの作品が自立し、反発し、協調し、共鳴する空間を創り出している。原形質的な構造において、両者がどう相関しえたのか、あるいは両者がどう交合しあえたか。両者に共通する点と差異はなんなのか。
大坪光泉は、現代人にとって、植物とはなにかをつねに考える。いけ花とは、極言すれば、生命ある植物を素材として、植物と対話しながら、その生命力を表現するものであろう。戦後のオブジェいけ花は、単純な植物再現を打破し、いけ花の形式化をも排して、独特のジャンルを築いてきた。その時、現代美術との相関が盛んに論じられてきた。ひと言でいえば、いけ花が現代美術に限りなく接近したのか、はたまたその逆なのか、と。
大坪のコンセプトは明快である。上記のような潮流の中で、大坪は、最大限にいけ花から遠ざかっていけ花する立場を堅持しつつ、インド体験から花を首から切り取って使うこともあえてした。さらに何百年ものあいだ、日本人を魅了し続けてきたいけ花を成立させている要因を考察する。そして、半永久的でない。いい換えれば、創ったらすぐこわすという<インスタレーションいけ花>を創作してきた、といえよう。
今回、いけ花ではあまり使われない欅と、菊を素材に、壁面を中心に、竹田の作品を見ながら植物への行為を続けた。枝一本は、どんな建築にも勝ると思うが、欅の枝の魅力的な空間を現出させた。変哲もないと思われる枝にいけ花の秘術をつくして(古典花の手法と大坪は言う)、それに、菊を粉末にして、まいたりして、取り合わせの妙もあり、「菊の砦」で現代美術のなかの<いけ花らしさ>を表現しえた。
形を追わずして、追い、植物を殺して、逆に生命力を照らす。菊を粉末にくだく行為は、植物の根源への関心が表れているように思え、それはまた、現代の最先端科学の現状と照応している。大坪は、植物のエッセンスを探り出す。それが空間全体への関心と見事に調和している。
一方、竹田康宏は、FRPや発砲ウレタン、ポリエステル樹脂で大きな<葉状の・・・>造形である。竹田は、いままで木を素材に、自己の行為はを重視してきた。それらは、昆虫の足状に見えたりしたが、木の表情を最大限に生かした立体であった。「木を割った時の快感は忘れられない」と竹田は述懐するが、木を割る行為で、それらが木片になる過程で見えてくる木の内部構造とそれらから視覚よ嗅覚など五感に感じられる木の生命力に竹田は注目していたに違いない。
木の内部構造とそれの具体表現である木片に着目してきた竹田が、今回の展示のような<葉状の・・・>フォルムに行き着くのは必然であった。植物への感覚行為が葉に収斂していった。植物の生命力が端的に表現されている部分は葉である。表面そのものである葉は、内部構造がない。表面が葉すべての構造であり、空間である。側面をもたない平面が反り、うねり、悶えるところに空間が存在している。葉は生命の原型を秘める。構造的であり、奥深い空間を宿した彫刻ではないか――と竹田は考える。確かに、葉は小宇宙であり、情景や発生の現場をも含んでいる。
竹田のコンセプトもまた明晰である。
「TWO BIG LEAVES」や「GREAT LEAF」は、こうしたコンセプトを体験する場を生み出している。あえていえば、空間や造形を生み出すことより、<葉状の・・・>中に入り込み、作品と空間を共有することを重視している。形と量塊とそれぞれの関係は充分に計算をしつくされており、立体としての構造性と同時に、表面の色彩によって空間を掲示している。植物の葉への関心は、当然立体の表面への関心に結びつき、竹田は素材感をやわらげるように、表面を磨き込む。形体と色彩が調和しつつ、木で作り上げた立体のとうに異化させている。葉が植物の生命力を集約した表現に昇華している。秋になり、葉が一枚落ち、水分がぬけて、枯れ葉になれば、構造体そのものになる。竹田の葉は、自然と生命の循環機能、あるいは自然体系へのイメージをも内包している。
大坪光泉と竹田康宏は、共通点は以上の如くあるのか、ないのか。相似と差異はなにか。大坪が植物を素材に自在な手わざで(伝統に依拠しつつ)臨場感を出す一方、竹田が植物のイメージを追求した立体で、両者の空間性が一致している。大坪はいけ花の行為を解体しつつ、竹田は行為を凝縮させる。
両者の作品は、それぞれの分野で屹立している。いけ花と現代美術の相関の結論はまだない。