ギャラリーαMトークショウ

1980-90年代美術再考

2000年7月21日
於:武蔵野公会堂合同会議室


●パネリスト
川俣正

南雄介

高島直之

松本透

●司会
林卓行

[林]…お待たせいたしました。本日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。それではただ今より、「1980-90年代美術再考」というタイトルで、ギャラリーαMのトークショウを始めたいと思います。前回のトークショウでは、70年代くらいのことを中心に話があって(「現代美術の真実」1999年10月20日)、同じこの会場で藤枝晃雄さん(前ギャラリーαMキュレーター)が司会をなさったのですが、それを受けたかたちで80年代から90年代ということで今日はお話をさせていただきます。
では私からパネリストの方々のご紹介をさせていただきます。まず、アーティストの川俣正さん。おそらく説明の必要もないかと思いますが、80年代初頭から非常に多岐にわたる活動をなさっています。現在は東京芸術大学の先端芸術表現科の教授でもいらっしゃいます。また現在進行中のプロジェクトとして、新潟県の越後妻有でのプロジェクトも今日からオープンということです。また明日からは、愛知県の豊田市美術館でのプロジェクトも予定されております。
続いて東京都現代美術館の南雄介さん。南さんは、95年の開館当時から学芸員として活躍されています。これまでに担当なさった主な展覧会としては、中西夏之展、あるいは河原温展、一番最近では「シュポール/シュルファスの時代」展などです。同時に90年代から、さまざまな美術の評論などもなさっています。
3人目は東京国立近代美術館の松本透さん。松本さんは現在、近代美術館の学芸課長として活動なさっています。これまでにカンディンスキー展、あるいは「現代美術への視点一色彩とモノクローム」展といったグループショウなどの企画をなさいました。
もうひと方、高島直之さん。高島さんは70年代終わり頃から美術評論を始められて、フリーの美術評論家として健筆をふるっておられます。近著として『中井正一とその時代』があり、なかなか刺激的というか、じっくり調べた重要な論文になっております。

最後に私、林卓行と申します。美術評論の仕事をしています。今ご紹介した松本さん、高島さん、それから私の3人で、今年度、来年度のギャラリーαMのゲストキュレーターを務めさせていただいております。今日は、ゲストキュレーター3人プラス外部の方お2人をお招きしてのトークショウということになります。

では最初に、川俣正さんに伺います。川俣さんはちょうど80年代初頭から本格的な活動を開始なさったということですので、これまでのご自分の活動をいろいろと振り返っていただくというかたちで、現在までのプロジェクトであるとか、ご自分のお仕事の転換などを語っていただければ、自ずと90年代までの状況が何らかのかたちで見えてくるのではないかと考えます。よろしくお願いします。

[川俣]…はじめまして、川俣と申します。僕は80年代から活動を始めて、今に至るということを大雑把にお話ししたいと思います。それが結果的に80年代とか90年代の検証になるのかどうかわかりませんが、僕個人がいろいろなことに出会って、考えて、さまざまな状況の中でやってきたということを、最初に少し紹介したいと思います。
78年あるいは79年くらいですか、ちょうど僕が芸大の学生の時に、いろな美術の動きが周りでありました。僕は油絵科だったのですが、絵を描くということよりも、もうちょっと空間を使った仕事をしたいという気持ちを、個人的に持っていました。70年代の後半あたりからニュー・ペインティングというか、ペインティングの動きがかなり出てきたということがありました。80年代の頭くらいに、銀座の画廊でよく見たのは、そういうようなペインティングと、それと以前の「もの派」という、物質を使ったインスタレーションというか、ちょうどそれが折衷している状況であったと思います。僕個人としてはどちらにも非常に違和感があって、もう少し違う動き方を自分で考えてみたいと思ったのです。その意味で、空間を設定して、そこでどういうことができるのかということで仕事を始めたのが、80年の代頭くらいからです。
非常に幸運なことに82年にヴェネツィア・ビエンナーレに招待されまして、まだ僕は大学院の学生だったのですが、それが大きなきっかけでした。僕にとってはヨーロッパでの最初の国際展で、勇んでヴェネツィアに行って、最初にそういう大きなインスタレーションを行ないました。
アートの一つの流れのようなもので言いますと、先ほど言ったように70年代の後半あたりから、たとえばドイツではワイルド・ペインティングとかアメリカではバッド・ペインティング、あるいはイタリアではトランス・アヴァンギャルドとかいろいろな言い方をされますけど、コンセプチュアル、ミニマル以降、非常にフィギュティヴなペインティングが出きてきたわけです。82年のヴェネツィアの時にはそういう状況が圧倒的にあって、彫刻にしても、たとえばバリー・フラナガンのような、ブロンズで犬の彫刻を作ったりウサギを作ったりといった感じのものがあったりして、僕は何もわからないでポッと行って、これは場違いだという感じが明確にわかってきたんですね。それが僕の中で非常に良かった。何が良かったのかというと、「あ、僕はもう違うのだ」と、自分はヴェネツィアを含むアートワールドの中で多分場違いな存在としてあるのだと認識できた。それで状況をあまり考えなくてもいいなと思ったのです。もう自分の好きなことをやろう、自分のプライベートな部分で充足すればいいということで、結構開き直った。ヴェネツィア以降ヨーロッパに1年間くらいいたのですが、それはある意味でケツをまくる時期だった。

日本に帰って来て早々に、自分の中で納得できるものとして、美術館やギャラリー、キュレーター、そういう状況の中で活動するのではなく、自分で場所も設定して、自分で企画して、自分で一つのプロジェクトというかたちでそれを立ち上げて、やっていこうと思った。個人のアパートを使って展覧会をしたのが82年の後半から83年にかけてです。それが僕の中では一つの結節点というか、自分と相容れない周囲の状況を捨て置き、それと関係なく自分でやっていこうと思った時期です。それが今実際にやっている一つの礎になっているところはありますね。

ヴェネツィア以前と以降の、自分なりの状況は随分違います。僕自身はヴェネツィアでのペインティングのムーヴメントにはほとんど興味がなかったのですが、僕がヴェネツィアから帰って来ても、銀座の画廊ではまだ延々とそういうものがあったりして、その辺は状況としてはっきり見えてしまったので、そこから離れて、少しずつ自分のスタイルというものを作ってきたということです。
その後、84年にニューヨークにグラントをもらって行くことになったのですが、当時は、イーストヴィレッジが非常にエキサイティングな場になってきていたんです。たとえばグラフィティというか、ある意味ではストリート・パフォーマンスやストリート・アートのようなものが非常に盛んだった。そういう街の中で作品を作る、ちょうど僕もアパートメント・プロジェクトを83年頃にやっていたので、それがうまい具合に自分の中でリンクしたんですね。街中で何かをやっていく、ゲリラ的にでも自分のフィールドとして、場から何かできるものをそこで見たわけです。84年、85年とニューヨークにいたのですが、今で言えばパブリック・アートということなんだろうけど、そういう圧倒的なイーストヴィレッジの動きのようなものを体感できたわけです。
それから80年代後半、90年代も含めて、いわゆるサイトスペシフィックというか、ある場所に一つの作品を作っていく、その場所でしか成立しない作品、一つのモティベーションと一つの場所のリアリティのようなものをどこかで組み立てる、そういう仕事をしてきて今に至っていると思います。
あまり自分史を言っても仕方がないですが、80年代のヴェネツィア以降、ニューヨークに行ったりヨーロッパに行ったりしていて、その頃の日本の状況はあまりわからないんです。86年あたりから僕はヨーロッパにいるほうが多くなっていたのですが、ヨーロッパでの大きな変化というのは、展覧会の変化だと思います。キュレーションの変化というか、展覧会そのものの企画に対する変化というのがすごくありました。
展覧会によって一つの作品の流れが随分変わる。たとえば、ドクメンタというのは4年に1度行なわれるのですが、その展覧会によってアートの流れが随分変わってきたり、あるいは非常に明確なコンセプトを持っている展覧会によって出てくる作家の仕事が一つの話題性を作ってみたり、ということがあった。
僕個人としては、80年代90年代では三つの重要な展覧会があったと思います。パリで行なわれた「マジシャン・ドゥ・ラ・テール」という、民族的な、宗教的な儀式の作品と現代美術をごった煮したもので、これはユベール・マルタンというフランスのキュレーターがやった展覧会です。それからヤン・フートがベルギーでやった、普通の民家やアパートに作品を設置して、それを人が観に行く「シャンブル・ダミ」という展覧会。もう一つはミュンスターのスカルプチュア・プロジェクトですね。10年に1回しかやらない野外展ですが、それをずっと10年ごとにやっていく。その三つの展覧会に出てくる作家、出てくる作品がその都度話題になっていった。その話題性のようなものがアートの大きな流れになっているというのをヨーロッパで感じましたね。
たまたま僕はバブル期はあまり日本にいなくて、仕事も日本になく、ヨーロッパにいた。そんなわけでバブルが終わってから今ここにいるという感じなので、バブルの時の状況なども、逆に僕はいろいろと聞きたいと思っております。

[林]…ありがとうございました。非常に巧みに日本以外の状況をスケッチしてくださったという印象があります。ヴェネツィア・ビエンナーレに初めて参加されたのが82年。84年にニューヨークのイーストヴィレッジのストリートでのさまざまな動きを目の当たりにして、しかも86年にヨーロッパにいらした時の、一つのアートワールドというか、アートフィールドの変化のことをお話ししてくださいました。
とくにキュレーションの時代というふうに言われることもあるくらいに、おそらく80年代の後半というのは、確かにヨーロッパを中心にキュレーター主導の展覧会というのが大きな力を持った時期だったろうと思います。ユベール・マルタンであるとか、あるいはヤン・フート、あるいはそういうキュレーターたちが大掛かりというか、国際的に組織して、それがその都度大きな話題になっていく状況を川俣さんは肌で感じていらしたのだろうと思います。
さて、東京都現代美術館の南さんは、どちらかと言えば80年代後半くらいから国内の状況をつぶさにご覧になっていると思います。南さんはかなり早い段階から現代美術館のスタートに関わっていらっしゃるので、できましたらその辺りの話を中心に、80年代後半の日本国内の状況というものまでをお話しくださいませんでしょうか。そのうえで、いくつかそこから脱線した興味深いお話が伺えればと思います。よろしくお願いします。

[南]…南です。ご紹介にありましたように、今、木場にある東京都現代美術館の学芸員をしています。この美術館が開館したのは95年の3月ですから5年半になります。私が美術館に勤め始めたのは89年4月ですが、この時は上野にある東京都美術館の学芸員としてでした。すでにその頃から東京都が新しい現代美術館を作るという計画があって、準備室ができたのは私が入る1年くらい前の88年だったと記憶しております。そして88年あたりから作品購入が始まりました。私が東京都美術館に入った89年には、東京都美術館のコレクションも全部移して、そこで新しい美術館を作るというのが前提としてあったのです。私自身は、92年に新しい美術館の準備室に移って、3年後の95年に開館を迎えるわけです。
東京都現代美術館もそうですが、さっき川俣さんもおっしゃったように日本にはバブル経済の時代というのがあって、その状況の中で各自治体では税収がどんどん増えていって、その使い途の一つとして、市のレヴェルが多いのですが、いろいろな自治体で新しい美術館が計画されました。それが80年代後半から90年代前半くらいに重なっています。
私が美術館に勤め始めた少しあとの90年代前半頃は、実際に学芸員の求職が大変多く、どこでも新しい美術館準備室ができ、美術館ができて、いろいろと求人があって新しい学芸員が採用されました。そうして今日のこういう状況に至っているわけです。結局、東京都現代美術館開館は予定から少し遅れた95年になったのですが、開館した頃からバブル経済というか日本の経済が傾き始めていて、この5年間ではどんどん予算が減っているという状況にあります。今や2000年ですが、来年はどうなっているかわからないという、そのくらいにまで落ち込んでしまっています。90年代前半というのは、美術品の価格が非常に高騰して、すごく高値で取り引きされるものも多かったですし、海外の現代美術作品などもどんどん日本に入って来て紹介されるということが続いていたと思います。海外の作家の新作などの展覧会をする時に、その作家が来日するというのは、今では当然になってしまいましたが、そういう現象も80年代後半から90年代あたりにかけて始まったものだったんですね。
現代美術館ですが、95年開館の展覧会が「日本の現代美術 1985年-95年」というタイトルで、95年に先立つ10年間の美術を総括するかたちで、18人の作家を集めたものです。その時には川俣さんにも参加していただいております。

その後、現代美術館では日本の現代美術を扱う展覧会をあまりやってなくて、海外作家の個展とか、日本の作家でもある程度評価が確立した作家の個展が多かったのですが、99年から若い作家のグループショウをしようということで、「MOTアニュアル」というのを始めました。そして去年の1月から3月に行った第1回目を私が担当しました。

[林]…むしろ、「日本の現代美術 1985年-95年」展を開催するにあたっていろいろ伺いたいこともあると思うので、もしよろしければその辺の話を先にしていただけたらと思うのですが、いかがでしょうか。

[南]…「日本の現代美術 1985年-95年」というのは、新しい美術館のこけら落としの展覧会で、こういうものはいろいろと難しい問題をはらんでいるというか、簡単にパッとはできない。いろいろな状況とか力関係とか、そういうものを考慮しながらバランスをとって、なんとなくまとめてしまうという、そうならざるを得なかったところがあります。

ですから、あれは誰が作家を選定したということでもないのですが、当時のスタッフが作家の名前をいろいろと出して、ああでもないこうでもないと意見を出し合い、コアになる何人かのチーフキュレーターあたりでディスカッションをして18人に絞ったという感じです。

その時は、とくに何か強い方向性を出すというよりも、むしろ10年間の状況を総括するということに重きを置きました。とくに80年代後半あたりから、先ほどのお話にもありました川俣さんの活躍ということもあるのですが、日本の現代美術が海外で紹介される機会が結構増えてきた。そういう紹介のされ方とか、海外における評価というものも大きな判断基準にはなっていたと思います。

[林]…ありがとうございました。では引き続き80年代の状況ないし美術関係の一つの傾向というものですが、さきほど川俣さんからは海外の動向が非常にコンパクトに紹介されました。また南さんからは、作品についての話はまだちょっと伺えませんでしたが、日本の現代美術を取り巻く状況、バブルのことであるとか、あるいは日本の現代美術が海外に積極的に紹介されるようになったというお話を伺いました。
おそらく東京都現代美術館の開館目的の一つは、僕が記憶している限りでは、海外の成果を広く日本に紹介すると同時に日本の成果を海外にも打ち出すということがあったと思います。それで最初に、川俣さんを含む18名の作家の展覧会になり、85年から95年ということで、ちょうどその10年間くらいの間をまさにフォローしたものであったと思います。その辺りのお話を、またのちほど伺いたいと思います。
松本さんはおそらくそれ以前のいろいろな状況を把握なさっていると思います。国内の状況や美術を取り巻く制度的な問題に関してでも結構ですし、その中でどのようにアーティストの活動が行なわれていったのかということに関しても、お謡をしていたたければと思います。

[松本]…私が美術館に入ったのが1980年です。たまたま川俣さんが活動を始められたのとほぼ同じ頃です。80年代、つまり自分が属していた時代については、過度に辛辣になりがちで、なおかつ全否定はしたくないという非常に複雑な気分になるものですが、私の80年代像は、その後の10年を経る中で多少とも好転したようです。80年代当時は、はっきり言って決定的に新しいことが何一つ起こらないブランクの時代だという印象がすごく強くて、ムーヴメントとか様式という点でも、リサイクルの時代だと感じていました。これは、そう外れていないと思います。

川俣さんがニュー・ペインティングのことをおっしゃいましたが、私にとっても少なからずショックだったのが80年代初めのニュー・ペインティング、とりわけイタリアやドイツなどヨーロッパのそれでした。記号化への渇望というか欲望。プリミティヴであったり神話的な原イメージ、あるいは多分に政治性や社会性を帯びたアレゴリーとか象徴、そういう抑圧されてきた記号表現――何がそれらを抑圧してきたのかというと、広い意味でのモダンアートの<よい趣味>が押さえつけてきたのでしょうが――いずれにしても、溜まりに溜まっていたものが地面から噴き出てきたという印象をもったのです。

日本の場合、そういった意味でのニュー・ペインターはいなかったのではないか。せいぜいペインタリーな筆触がまた現われてきたとか、具象的なモティーフの断片が絵の中に現われてきたとか、フォームの水準でニュー・ペインティング的な画家や、そういうものを取り入れた画家はおりましたが、あの凄まじい記号化、しかも社会的記号化への欲望のようなものは日本にはほとんどなかった。

それはニュー・ペインティングの場合だけではありません。その後、ニューとかネオの名のついた一連の動きが現われましたが、ネオ・ジオ、つまり「新しい幾何学的抽象」にしても、ニュー・コンセプチュアリズムにしても、やはりニュー・ペインティングと根が通じていなくもない。それらのいずれにも社会性、政治性の強い記号化への意志のようなものを感じるのです。それに比べると、日本にも一見並行する動きがあったけれど、いかにも美的であって、悪く言えば綺麗すぎる。しかも80年代の半ばくらいから、インスタレーションがはびこり始め、何でもかんでもそういう方向に流れていくのを見て、これは日本だけに限ったことではないでしょうが、かつて20世紀初頭に起こったような、あるいは戦後も60年代末から70年代の初頭くらいに起こったいくつかの運動のような、本当に新しいものは何一つない、寂しい時代にいるという印象を持っていたのです。
ところが90年代を通過する中で、少しずつ見方が変わってきました。80年代という時代の中に、90年代と比較して肯定的に捉えられる面を発見できるようになった。たとえば、80年代のキーワードの一つに<ポストモダン>という言葉がありましたね。例によって、ポストモダンとは何か、あるいはモダンとは何かという問題そのものは、日本ではさして堀り下げられることがなかったし、美術との関係でこの議論が深まった覚えもありませんけれども、しかしこの言葉は、80年代には自分の時代に対する緊張関係が、90年代には考えられないようなかたちで存在したことを示してはいるでしょう。ポストモダンというからには、モダンは半ば過ぎ去りつつあるという、とりあえずそういう意味だとして、その場合のモダンが、大雑把に20世紀のことなのか、それとも19世紀半ばくらいからかは、いまはひとまずおきましょう。時代区分はさておいて、もっと原理的な世界観とか自然観という意味でのモダンに対して、自分たちの時代がその圏外に足を踏み出しつつあるという意識。モダンというのは一個の世界観であり、価値観であるとして、この時代にはポストモダンを標榜しながら、モダンのいろいろな否定的な面を各論的に切り崩していった。その際に、その大きな近代という時代に対して、自分たちの時代は何かという、自分の時代に対する自意識が非常に強かった。こういった自意識は、90年代以降、急速に薄れていったのではないか。となると、それは美術の具体的な現象にも何らかのかたちで関わってきてるに違いない、そういうふうに思い始めることによって、はるかに過ぎ去った80年代の10年間も、それなりに特色があったのではないかと思い直しています。

[林]…どうもありがとうございました。今お話を伺って、私が個人的に非常に関心を持ったのは、時代に関する自意識が非常に強い時代が80年代であったということです。次の自分たちの時代はどういう時代なのかということに対する強い意識、それが90年代になって非常に変質している。時代の精神状況の変化として興味深いことだと思います。
もう一点、川俣さんのお話でもそうですし、ある意味では松本さんのお話でもそうですが、80年代の初頭にネオ・エクスプレッショニズム、つまり新表現主義であるとか、あるいは日本でニュー・ペインティングと呼ばれたもの、そういうフィギュラティブな具象的な絵画の復権があり、そういうことが非常に強く言われたわけですね。これは僕の意見ですが、それが川俣さんの場合にしても、あるいは松本さんの場合にしても、それに対しての反作用であれ、今のご自身の活動に何らかの影を落としているという印象を持ちました。時代的な精神状況の問題と、そしてなぜ絵画が80年代の初頭にそういうかたちで影響力を持ち得たのかということについては、すぐここで考えられるような問題ではないと思うので、引き続き何かお話があった時に、少しずつでも進めていければと思います。

問題を限定してしまって大変に恐縮ですが、80年代初頭にニュー・ペインティングというものが出てきた時代については、高島さんはどう思われますか。

[高島]…アメリカですと、79年に「ニューヨーク/ニューウェーブ」という展覧会があって、それがまさにきっかけとなったということです。それから、81年にジュリアン・シュナ―ベルが二つの画廊で個展をやって、それが一挙に受け入れられた。歴史的に追いかけると、どうもそのあたりが端緒になっているようです。

[林]…ミニマリズムから新表現主義へという、ホイットニーの展覧会は確か83年ですか。それまでミニマリズムと言っていたのがかえって不思議なくらいです。他にはネオ・バロックとか81年のあたりでしょうね、おそらくその絵画というのが出てきたのは……。

歴史的にでも結構ですか、絵画というものが大きな力をもった状況について、何かお考えになっていることはありませんか。

[高島]…まず美術表現の内部から見ると、「ニュー・ペインティング現象」というタイトルで『美術手帖』が特集をしたくらいで、日本の場合にはそれは<現象>と言っていいと思います。一つはアメリカですとアート・マーケットの要請というのが強くて、あえて言うとミニマムな作品というものが市場で動きがあまり出なくなったと言えます。ちょっと飽き飽きしたというかたちで、そういうフィギュラティブなものを、マーケットの需要というより、供給を先駆けて、それを経済の引っ張り作用として使っていこうという意識は、画商さんの間では非常に強くあったという気はします。

あとは、モダニズムというか、アヴァンギャルドの終焉というのが大体60年代の末期にあるとすると、アヴァンギャルドというのは、こういうふうにあるべしというか、こういうように推進していくのだという、そういう信念がコアにあって進んでいくものですが、60年代までのアヴァンギャルドの各スタイルや、やり口や手法というものが、大体70年代の末から、歴史的に線上で推進することができなくなっていった。過去のスタイルを横一線でインデックスとして並べていく。そこからどれでも取っていいという、それは折衷とも言うし、引用主義とも、あるいは盗用主義でもいいですが……。

要するに60年代のアヴァンギャルドの実質的な終蔦と、ニュー・ペインティングの出現というか、それが重なっていたのではないでしょうか。

もちろん時代的には70年代後半の数年間は、隠れた空自の期間としてあります。そういうものがはっきりしたのが70年代末だとすると、ニュー・ペインティングというものが、単に様式の次の交代として出てきたのはなくて、インデックスの一つ、引用の一つとして出てきたということです。

[林]…今のお話というのは、おそらく時代に対する自意識が非常に強かったという問題とリンクしていると思うのです。つまりモダンなり何なりという時代の渦中には、もはやいられないという自分たちを意識した時に、それに対してどうやっていくのか。その時に、「ネオ・○○○」や「ニュー・○○○」というのが非常に増えてきたというのは、美術に対するメタ意識です。「美術についての美術」ですよね。あるいは「絵画についての絵画」。それは今に至るまで続いているような気がします。

それはさておいても、たとえばネオ・ジオは、ジオメトリカルな絵画についての絵画であったわけです。あるいはネオ・エクスプレッショニズムというものも、ただの表現主義ではなくて、「表現主義についての表現主義」というようなところがあった。そういう中でメタ的な視点というのが急に拡大していく状況があったように思うのです。
ここまで自分で勝手に進めていくのもなんですが、日本でのニュー・ペインティング状況というのは、コマーシャルとしての『美術手帖』の特集によるところが大きいということを、今ざっと高島さんにお話をいただいたわけです。しかし、その中で非常にフォーマルな絵画というものの復権も何となく図られたような、むしろそういう時代だからこそフォーマルな絵画が強く求められていたという状況があったのではないかと予想はするのです。あるいはニュー・ペインティングなりネオ・エクスプレッショニズムなりの一辺倒であったのかどうか。その80年代前半くらいの絵画を中心に、状況をご覧になった限りでどういうふうにお考えになるのかを伺いたいのですが。

[高島]…誰か作家の名前をあげると、多分、その作家個人に沿っては何か話ができると思うのですが、一般論としてはニュー・ペインティングは一つの引用主義であり、つねに相対化してしまうという意味ではフォーマルな態度も相対化現象の中の一つとして選び出されたわけで、その大きな流れに飲み込まれていったと言えます。

あとは、フィギュラティヴということも、ないしはネオ・フィギュラティヴと言ってもよいと思うのですが、それが吹き返した。あとはナラティヴなアプローチですね。たとえば、現われとしてはバイオモーフィックな形とか、いろいろな「個人」に限定した<神話性>に基づくもの、そういうナラティヴの蒸し返しのようなものもニュー・ペインティングの背景にはあると思います。

[林]…たとえばミニマリズムであるとかコンセプチュアル・アートとか、そういうものを抑圧してきて、それの蒸し返しであると。

[高島]…そうでしょうね。たとえば表現主義的な流れに対して、それを抑圧するというかたちでフォーマルな仕事が出てきたとすれば、そういうことは言えるのではないでしょうか。

[林]…私がいま無理やりつけた流れに沿うかたちでなくても、絵画ということに限らなくても結構ですが、もう少しさらに80年代の半ばくらいのお話を高島さんいかがでしょうか。

[高島]…そうですね。80年代の半ばと言いますと、さきほど出たバブルの話があって、ゴッホの「ひまわり」の53億円を象徴として、輸入額が一番高かったのが大体87年です。経済的にはそれ以降ずっと下がっていきます。そういう絵画の、要するにヨーロッパの名画の投機ブームの頂点が87年だとすると、ちょうどこの年、僕が『朝日ジャーナル』というところで、表紙の解説をやったことがありました。具体的に言うと、たとえば、ここにいらっしゃる川俣さんも紹介させてもらっています。中村一美さん、岡崎乾二郎さん、宮島達男さん、遠藤利克さん、戸谷成雄さん、青木野枝さんといった、ここには70年代の末から仕事をしている人と、80年代から仕事をしている人がごっちゃになっています。

僕がどうやって取り上げたのかというのは、1年間の連載で毎週その時に展覧会を催した人から選んだので、頭の中から選び出した網羅主義ではないのです。むしろニュー・ペインティングというかたちで感じさせたのは、大竹伸朗さん、吉澤美香さんとか、関口敦仁さん。ペインティングだけではないのですが、菅野由美子さん、中原浩大さん、青木野枝さんとか、そういう方々です。70年代から出てきているポスト・ミニマル系の流れと、ニュー・ペインティングの流れに吸い込まれていく人たちの、二つの潮流が80年代の半ばくらいに重なるというようなことですね。
実質的には日本のニュー・ペインティングの作家というかたちで、はっきりと名指せる人はあまりいないのです。まさに現象としては、パルコが主催していた「日本グラフィック」展から「アーバナート」展の、あの系統のほうにはっきり出ていた。アメリカ的な、あるいはイタリアでもドイツでもいいのですが、典型的なニュー・ペインティングの傾向は、イラスト、デザインのほうにむしろ引っ張られていったというのが僕の印象です。

[林]…そう考えてみると、露骨にフィギュラティヴであったり、ナラティヴであったりという絵はあまりなかったという印象はありますね。たとえばJ・シュナーベルであるとか、F・クレメンテですか、露骨に個人的な神話を表現するというようなことはなくて……。

[高島]…今ちょっと思い出したのですが、ニュー・ペインティングというかたちでアメリカを考えると、J・シュナーベル、D・サーレ、J・ポロフスキー、R・ロンゴ、C・シャーマンとかに見られる、何かしら人間の肉体の形象にこだわる人が多いんですね。<身体の抜け殻>と言ってもいいと思いますが……。
それは多分ヨーロッパ絵画の伝統的な流れから採っているのだと思いますが、日本ではあまりみられないのですね。さきほど言ったバイオモーフィックなと言うべきか、何とも言いがたいのですが、人間中心的な画像というのはあまり見受けられなかった、というのが決定的な差ではないかと思います。

[林]…僕の印象ですが、人間ぽい形だが、でも描かれているのは人間ではないというのが、わりと日本の場合にはよくあるというか、別に時代と関係なく出てくるというか、吉澤美香さんなどもそうですが、何となく人間ぽいというか人懐っこいというか、あまりベタな人間というのは出てこなくなったけれど、人間らしく、というのはあったのではないでしょうか。

[高島]…そう、でも人間的でナラティヴと言ったら、むしろ、系譜を異にした横尾忠則と日比野克彦とかではないですか。

[林]…そうですね。やはりグラフィックやデザインのほうに影響力があっただろうということですね。

[高島]…あとは、漫画で「ヘタウマ」というのがありましたね。湯村輝彦さんをシンボルとするへタウマ・ブーム、これがちょうど重なっているのです。漫画誌『ガロ』がへタウマ面白主義に変わったのは70年代の末期なんです。昔からのわりと暗いイメージを払拭して、マンガ・イラストのへタウマ・ブームとアメリカ的ニュー・ペインティングが重なったという印象がありますね。

[松本]…ちょっといいですか。ニュー・ペインティングの問題はそれなりに重要だと思いますが、当時を思い出すと美術雑誌の特集などでニュー・ペインティングがとり上げられることはあっても、日本の美術界に深く根ざしたものだったとも思えません。
だから、これは異論があるかもしれませんが、僕は作品を見る時に--またさっきの問題に戻ってしまいますが--その作家がどのくらい厳しくモダニズムの問題点を追求しているか、批判しているか、そこに注意がいってしまうし、シビアに批判すればするほど、逆にモダニズムならではの、維持すべき特質とか、継承すべき部分も明らかになってくるわけで、そういう一種の基準のようなものを、自分では設定して作家を見ている。だから、基本的にはモダニズムの側に立ちつつ、自己批判し、その批判のフィルターを通して残った最良の部分を作品化できた作家を見つけようとしている、それが正直なところです。
そうした状態が80年代を通じて続いて、しかし90年代の半ば頃からでしょうか、もうそうした基準だけでは太刀打ちできないのではないか、と懐疑的になってきた。80年代と90年代で、美術の現象面というよりは、もう少し深い時代感情の面で大きく変わったという実感があります。

[林]…そうですね。いろいろとお話が出てきています。一つは、私は今でも絵画という問題にこだわって話をしていますが、というのも川俣さんが最初にお話になった中で、ヴェネツィア・ビエンナーレに出かけた時に、ちょうどナラティヴないしフィギュラティヴな絵画というのが全盛で、油絵科にいらしたにもかかわらずというか、油絵科にいたから、それに対して自分は非常に違和感があった。それでたとえばフォーマルな絵画に行く道もなくはないてあろうが、おそらくその辺りでいろいろと葛藤とかがおありだったと思います。

絵画を出られたというのは変ですが、絵画というものにそこまで抵抗を示されたのは、川俣さん自身にとって何か強烈な理由というのはおありでしょうか。

[川俣]…いや別になかったです。絵画科というか油絵科に入ったのはあくまで芸大に入るためのものであって、油絵を描かないといけないとか、油絵を続けるとか続けないとか断念するという発想もまずなかったのです。芸大に入って1年生の時から、やはり僕らの前の世代の、もの派以降の人たちの作品がずっとあって、何かを考えないといけないとか、何か物を見続けないといけないというような窮屈さのようなものはすごく感じていて、その窮屈さのようなものを、その時の状況というか時代背景かなと思って、それはなんとか越えたいと思いました。それが別にペインティングであろうが、彫刻であろうがいいんです。ある意味でミニマルな、あるいは何かを見て感じるという設定のようなものがすごくて、もうちょっと楽にしたいというか、そういう心情的なものはすごくありました。これは僕の個人的な時代状況なのかもしれない。狭く言えば銀座の画廊界隈のような、そういう動きだったと思う。

国内の80年代と90年代のことは、僕はあまりよくわからないです。外国での仕事の中で80年代とか90年代を見る時に、ベルリンの壁の崩壊が、まさに80年代の終わりにあって世界が変わってくるというか、さっき言ったポストモダンであったり、全体主義であったり、東ヨーロッパのアートというものが非常に出てきて、それが結果的にたとえばユーロ・ナショナルという発想が出てきたことに繋がって、明確に変化の動きが感じられたわけです。
日本について80年代と90年代で何を言えるのかというと、僕は逆に問題提起をしたいと思っていますが、80年代とか90年代はバブルの時代だったのではないか。その典型的な状況として、さきほど出たように日本人ア-ティストの活動がその時に出てきたのですが、その準備段階として、僕も実際に参加した「アゲンスト・ネイチャー」という展覧会と、同じ時期に「プライマル・スピリット」という展覧会があって、これは一私立美術館、あるいは基金が日本人のアーティスト、とくに現代美術、そういうものを外に持っていこうと意識的にやっていた企画だったんですよね。ああいう起爆剤というのは、どこかで経済的な背覚もありますね。たとえば10年前の飛行機のチケットの値段と今の値段は全然違うわけだし、80年代にニューヨークに行った時の円高の状況と、今の円高の状況とは全然違う。そういう意味で、日本国内と国外では、状況は随分違うという感じがします。僕個人はヨーロッパは非常に明確に見えてくるのですが、国内については80年代とか90年代とか、10年間の中で何かというふうに清算できないと思うのです。そこでもしあえて言うならバブルではないかと思います。

[林]…ただ、川俣さんご自身では、状況から受けたインパクトが何らかのかたちで作品に反映されているというふうにお考えになりますか。

[川俣]…バブルの時に恩恵を受けなかったので、あまりないです。僕は知らないから、逆にそういうことを高島さんがよく知っているのではないかと思うのですが、どうでしょうかね。

[高島]…バブルの時代で、作品が結構売れたという方はいらっしゃると思うのです。それ以外にバブルというと、日本の現代美術の若手作家がまとまって海外に紹介される回数が増えた。これが事実上一番大きいのではないかという気がします。それとさきほども出た、メセナというのでしょうか、企業が現代美術の作家に何かしら援助するという、ハイネケン・ヴィレッジなどがありましたし、また東高現代美術館とか、いくつか数え上げられます。要するにああいうバブルは、これからは、僕が生きている間はもう来ないだろうと思っています。つまり、いかに経済が活況を呈しても、あのくらいの現代美術へのサポートが最高クラスなのだというふうに僕は見ています。その程度にバブルを考えています。

[川俣]…日本のアートということでなくてもいいのですが、バブル経済というのはもちろんあって、繁栄して終わってしまったわけですが、一つのきっかけとして、バブルがあってあれだけアートが盛んになってきたけれど、バブルが終わって全部終わってしまっているのか、あるいはその残りがまだあるのか、もしそれがないのだとしたら、結局、経済とアートというのは同じようなものでしかない。根づかないものでしかない。なぜ根づかないのかというのは僕にはわからないし、根づくとか根づかないという問題なのか、あるいは日本の現代美術というのは、元を言えば経済の中でしか動いてなかったのか、あるいは元々根づかないのが日本のアートなのかという気もあります。
80年代90年代を含めて、たとえば西武美術館というのは非常に大きな動きをしたと思いますが、結果的に今はもうないわけで、こうやってどんどん変化していく。逆に水戸芸術館などのように80年代とか90年代に出てきて、今も活動しているところもあるし、オルタナティヴなスペースなどもまだ残っているところもありますが、単純に10年間の流れを見ていても、あるいは20年間の流れを見ていても明確に見えてくるものがない。一つのパラダイム・シフトというか接点が見えてこない。たとえば非常にロマンティックな言い方でベルリンの壁の崩壊というのは、歴史的にも、視覚的にもわかるわけです、なくなってしまうわけだから。そういうヨーロッパ的動きにならないのが日本的なのだと思うし、そういう動きにならないアートの流れというのが、日本の80年代90年代に発覚したということでしょうか。僕が質問してもしょうがないのですが……。

[高島]…僕も答えられない。

[川俣]…そうおっしゃらないで……。

[高島]…確かにさきほどのニュー・ペインティングの話の時にアメリカのマーケットの要請が強いという話をしましたが、日本はそれほどマーケットに現代美術の作品が限定されていないにもかかわらず、経済が衰えていくと、そのまま一緒に消えていくのですね。その辺りはうまく答えられないのです。それは悲観的にも、楽観的にも傾かないつもりですが。一つは、今ベルリンの壁の崩壊という話が出たのですが、EUというのが推進されて、ヨーロッパ全体がいろいろな問題をはらんでいますね。経済格差のあるいくつもの国を集めるわけで、非常な困難があると思いますが、一応ヨーロッパが本来のヨーロッパとしての意識というものを持ち直す、パラダイムを置き直すという動きがこれから加速化すると思うのです。一方、アメリカはアメリカで今までヨーロッパの遺産を輸入して、それを食い潰すかたちでアメリカのヨーロッパ化を完成させたのですが、今後ヨーロッパはヨーロッパ化して、アメリカはアメリカ化していく。

日本はどうなるのかというと、多分アジアという場所にシフトしていく。これはいいか悪いかは別として、大きな構図としてアジアのアジア化というか、日本はどのようにアジアでありアジアでないとか、問題が噴出する。地理的にはアジアですがね。オーストラリアを含め、その辺りの問題が今から出てくるのではないか、大きな枠組みではそういう気がします。

[林]…アジアネタというかアジア関係というのは意外に根づかなかったと。たとえば東京都現代美術館でもアジアの展覧会が一度だけありましたよね。もう一つは、さきほどちょっと伺ったように、アメリカやヨーロッパに対して日本の現代美術を広く紹介していくということが、現代美術館の大きな意義だったと思うのです。それはおそらく川俣さんがお話になった「アゲンスト・ネイチャー」や「プライマル・スピリット」の展覧会の成功というか、海外での巡回をある程度は意識して受けてはいると思うのです。ところが実際はいろいろと経済の問題が難しくなってきて、海外の紹介、あるいは日本から海外への発信というのは思うようにいかないというお話でした。
現代美術館の全体の話を、南さん一人に伺うのはなんですが、たとえば現代美術館のようなわりと公的な、なおかつ大きな美術館が、もう一つは川俣さんがおっしゃったことで言えば、結局美術が日本に根づくのか根づかないのかというようなことを含めて、おそらくいろいろなアプローチを試みていらっしゃる、あるいは試みてこられたと思うのです。その辺り、今のお話を聞いていてどうお感じになったでしょう。

[南]…日本の美術を海外に発信していくということに関して言えば、確かに80年代未から、川俣さんがおっしゃったように「アゲンスト・ネイチャー」、「プライマル・スピリット」というのがあったし、セゾン美術館の企画した「ジャパン・アート・トゥデイ」などもありましたね。ああいうかたちのものはあるのですが、現状を考えると、そういう展覧会を仕立てて海外に紹介するということで打って出るというか、持って行くというのには、状況が違ってきているのではないでしょうか。

 それこそ飛行機のチケットは安くなったし、インターネットとかもあるわけで、結構今の日本の若い世代の作家というのは、それぞれに海外とのコネクションというか友だちもたくさんいる。実際に自分たちで出て行っているわけで、現代美術館に限らず、大きな枠組みで絵画を紹介をするというのではなくて、実際に今、ヨーロッパとかアメリカとかで行なわれている展覧会やコレクションにも日本の若い作家は当然のように入っている。この間ヨーロッパに2週間くらい行ってきた同僚が話していたのですが、確かオランダだったと思うのですが、そこであった展覧会に、ヨーロッパに在住している日本の若い作家が何人も入っていたのだそうです。しかしそれはわれわれが全然知らない作家だったりする。実際にそういうこともあって、かつてのような一つの枠組みで日本の美術を固めて持って行くという必要はもうそんなにないのではないかという気はしているのです。
それと、バブルの話ですが、80年代と90年代というふうに、そこに切れ目があるというよりも、85年から95年くらいまで、その期間が日本ではバブル経済の影響下にあったというか、一つの連続体のようなものがあったのではないでしょうか。私が89年くらいから美術館に就職してみて、90年代の前半は元気な状況があった。若い作家がどんどん出てきて、村上隆とかその辺りは、90年代の前半で、その世代がぽっと出てきた。ところが90年代の後半になると事情が変わってきているのではないでしょうか。お金が動かなくなったというのがあって、また変わってきているのではないか。
現代美術館の開館の年だったのですが、3月18日に開館セレモニーを行ない、19日から一般公開したのですが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こった。その辺りとバブルの時代の転換点がリンクして、一つの新しい状況になっているのではないか。そういう気がするのです。

[林]…川俣さんの問題提起にあった、日本に美術が根づくのか根づかないのかということに関しては?

[川俣]…別に根づかないといけないわけではないです。そういう意味で言っているわけではないですが、バブルのような感じで思っていていいのかどうか。僕は84年から94、95年まではまさにいろいろな意味で日本が随分変わったと思うし、その時の状況はかなり異常だったと思うのです。
たとえばアメリカの画廊に行って、画廊で作品を見て買うのではなく、倉庫にある半分の作品を見もしないで買ってしまうとか、そういうことが平気であった。それは多分ほとんど商品としてのアートというか、物としてのアートを扱った。ひょっとしたらアートということではなかったのかもしれない。

ただ、それはそれで初めてアートがポピュラリティというものを獲得した時だったと思う。テレビのスポットでアートの作品を購入する場所が出てきたりして、ああいうことはもうないのかもしれないし、あの動きは何だったのか、その検証のようなものが結局何もないまま、また違うものが流れていくというか。それはそういうものかもしれない。それでいいのかもしれないが、もし、80年代とか90年代を自分の中で検証した時に、これは避けて通れない一つの切り口かなと思っています。
アーティストが外国に出るのは、確かに自分たち自身で出られるから、国あるいはキュレーションが何かするということはもういらないのかもしれないけれど、だとしたら美術館自体は、今は何をして美術館なのかという問題が出てくると思う。やはり美術館が随分変わったのでしょう。活動も含めて、さっきのキュレーションの時代ということもあるとは思うのですが。僕のほうがそういうことを言っても、自分の首を締めるような感じですが……。

[林]…高島さんのお話の中に、目一杯バブルであれだけ願いでも、この程度だったのかという、諦めにも似た発言がありましたが、そういう諦めというのは世間一般で共有されているのでしょうか。

[高島]…諦めと聞こえたかもしれませんが、経済的な頂点として、美術交流というか、国際的な流れの構造下のあるリミットがあれくらいなのでしょう、経済をバックにしてしまうとね。そういう意味であって、別に芸術に対して諦めているわけではないです。

[林]…ただシステムに関しては……。

[松本]…現代美術が日本に根づくか根づかないかという問題は、バブルの問題とは別だと思うのです。たとえば、ある画商から聞いて僕もショックを受けた話ですが、ある企業が苦労して素晴らしいコレクションを作った。ところがある時、その企業は経営的には上向きであるのに、せっかく集めた作品を売ると言い出した。つまり買ってはみた、すごいコレクションを作ったのですが、使い途がわからない。それで気が変わって売ると言い出す。芸術の使い途がわからない、価値がわからないというのは、バブルとは別問題ではありませんか。聞いていて暗くなりました。

南さんが公立美術館の予算の話をなさいましたが、たとえば美術に何十億円かを投下するのなんて、安いもんだという考え方もあるわけです。それくらいの金、別のかたちでいくらでも取り返せるというわけです。美術に投入した数十億とか数百億、それを通じていいコレクションを作り、たとえば海外に送り出して、それによって日本人のメンタリティとかを少しでも理解してもらう、そういうかたちで相互交通的な会話の助けに多少とも役立てる。それにかける数十億など安いものだ、という見方はまだほとんど生まれてない。それは企業でも同じでしょう。これはバブル以前の問題ですね。

[林]…美術館の話をすると暗くなりそうですが。難しい問題だろうと思います。今お話を伺っていて考えたことですが、川俣さんのお仕事というのはその意味では、根づかせようという意思を近年になって非常にはっきりさせだしたというか、明確にしだしたという印象を受けているのです。確かにニューヨークのストリートでの体験などが元になって美術館や画廊にはない美術でのお仕事というのが出発点としてあったわけです。たとえば、公共美術の問題だとかプロジェクトとか、あるいは今度の豊田市美術館でのプロジェクトもそうでしょうが、自分が街の中に入って行って、作って、どうだというのではなくて、そういう根づかせるという話で収まるとは思いませんが、しかしそれも含むような制作を最近なさっていると考えているのです。それは意識的というか、状況に対する反応というのはあるのでしょうか。

[川俣]…別に日本の美術がどうだという意識は全然ないです。

[林]…日本の美術というよりは美術全体の問題として。

[川俣]…美術全体のことを考えて僕は美術をやっているわけでは全然ないし、ほとんどそういうことは考えないのです。ただ僕は長くやりたいと思っているだけです。要するに、単純にバブルがあってバブルが終わって、はい終わりという、昔はそういう作品が多かったのですが、最近は、ずっとやっていくというか、何に繋がるのかわからないけれども、ずっと繋げていくということを考えていきたいんですね。たとえば作品も成立させないというか、成立を遅延するというか、そういう動き方というのは非常に難しいのだろうなと思うのですが。
別に日本で難しい、外国でやりやすいということではなくて、なにか途切れないでずっとやっていくということは結構しんどいことだと思うけれど、それをどこかで意識的にやっていかないといけない。今すごく思うのは、オルタナティヴという言い方、オルタナティヴという活動はすごく必要な感じがします。やはり途切れないというか、切れ目が見えないように自分でプロテクトしていく、そういうことでここをなんとか乗り切りたい。90年代から2000年を繋げていきたいという感じはあります。
自分はとにかくオルタナティヴでやっていくという一つの流れのようなもの、一つの線のようなものは、どこかで持ち続けていたいと思う。それをずっと引きずっていきたいという気持ちは、80年代90年代を適ってきた時に、僕の中で危機感としてどこかであった感じがしますね。それは別に作家を続けるとか続けないということではなく、作品の成立そのものが、多分そういうことでしかなり得ない。美術館も変わっただろうとさっき言ったけれども、そういう意味で展覧会あるいは展示、あるいはキュレーションそのもの、アートの価値そのものも随分変わってきていると思う。

これは僕の中ではここ10年とか20年の状況の中で出てきた結果として、どこかで引きずりたいという、そういう気持ちが結果的に僕の過ごした80年代、90年代の一つの遺産かなと思っているのです。

[松本]…オルタナティヴというのをもう少し具体的に……。

[川俣]…結局は主体性とか自己という話、あるいは関係性とかが出てくると思いますが、いろいろな状況がある中で、個人ではなくて、動きというものを、どこかで頑固に見ていくというか、たとえば自主企画でやっていくオルタナティヴ・スペースというのは、日本ではあまり成り立ち得ないところがあると思うのです。佐賀町のエキジビットスペースであったり、アーティストが集まってきて何かやっていく、今でもいろいろなところにあると思うのですが、そういうことで成り立っていく一つの動きのようなものは、どこかで時代と関係なく、あるいは状況と関係なくあり得ていくのではないかと思う。そういうことがすごく必要ではないかという感じはします。

[林]…あるインスティテューションなり、組織なりに頼るというわけではないし、自分で全部やるというわけでもない。

[川俣]…いや、全部に頼る、だから、切るというのではなく全部に繋げていって切らないということですね。

[林]…さきほどのペインティングの話にしても、何か一過性のものというか、一気に出てきたものというのは、ある日ふいに消えてしまうというか、そういう側面も少なからず持っていて、それに対する抵抗という意味合いも込められているのだと思います。
美術館というのはまさに永続的というか箱物として立った時に、社会の情勢なり美術を取り巻く情勢なりが微妙に変化しているとはいえ、おそらく最初の志というか、コンセプトというか、そういうものを変化させながらも生き長らえているというようなことだと思うのです。

多少強引かと思うのですが、さきほどのお話にあったように、現代美術館で最初に85年から95年までの総括的なことをやった。今は、たとえばオランダの展覧会に向こうに留学している日本人学生が含まれているという情勢があって、なおかつ日本発というか、東京発の若い作家たちを展覧会として現代美術館が打ち出そうとしている。それはたとえばオルタナティヴなかたち、方法を、美術館が模索しているとか、今模索したいということはあるのでしょうか。
川俣さんのお話にしても、作家を呼んで、ディレクションに従って作家にやってもらうという感じではなくて、川俣さんのほうから、こういうことで回りのこういう人たちとこういうことをやりたい、と持ちかけられたというふうに伺っています。そういう作家がオルタナティヴのほうに思考を進めていくとした時に、美術館として、もしできることがあるとすれば、それはどういうことかと考えるのです。大きな美術館で、立派な美術館で、バックアップなりフォローなり、ちょっと夢想的というか現実味のない話で恐縮ですが、何かお考えがあれば聞かせてもらいたいのです。

[南]…確かに、私の勤めている東京都現代美術館というのは、大きな美術館で箱としても大きいですね。私が考えるのは、美術館にはそれぞれ位置づけというか機能のようなものはあるだろうと。結局一つの美術館で東京とか日本の美術の状況を背負うことはできないわけで、役割を分担するべきだと思うのです。

大きな美術館では規模が大きいということがあり、展示室が大きいということがあるので、それがないと成立しない展覧会やプロジェクトなどを引き受けていくべきではないかという気持ちはあるのです。

[林]…せっかくのスペースを上手に生かせるような方向性を分担していきたいというか、そういうことですね。

[南]…そうですね。それが権威主義的になってしまうと一番つまらないので、そうならないように空間を生かして何かできないかという思いがあって、去年のアニュアルの1回目に「ひそやかなラディカリズム」展というのをやったのです。企画意図の中には、大きな空間の中で小さな作品を成立させるという面白さも、一つにはありました。多分あの空間でやったから面白い効果が出たのだと思います。

[川俣]…別に批判するわけではないのですが、東京都現代美術館の成立そのものは、まさに僕はバブルだと思うのです。あの巨大なスペースがある建物というのは、まさにバブルですよね。バブルによってああいう形ができてきて、それが今でも残っているという残り方の問題だと思うのです。それはスペースの問題も含めてですが、あの残り方はまだどこかでバブルを引きずっている感じがして、いろいろなアイデアで、美術館が変わらざるを得ないところがあると思います。多分それは作品も変わるのだろうと思うし、あるいは作品が変わることによって美術館の機能も変わってくるのだろうと思うのです。
「プライマル・スピリット」展でロサンゼルスの美術館に行った時、結婚式を美術館の中でやっていた。美術館自体の機能として、そういうこともパブリック・リレーションとして行なっている。今はいろいろな意味で美術館は、わりと柔らかいアイデアというか、もうちょっと違う部分が出てきていいわけだし、それがどこかで80年代、90年代の結果としてあるのではないかと思う。

[林]…美術館の乱立状況というのはお話にも出たように、確かにあったわけです。僕はむしろ川俣さんがおっしゃるようなバブルを引きずっている、その引きずり部分をうまく生かして、美術館というのが成立する方法があるような、希望的な観測があるのです。美術館がたくさんできた原因というか動機はともかく、曲がりなりにもたくさんできて箱が余っているという状況は、つまらない展覧会で企画を埋めているということがあるにしろ、なんとなく僕はいい状況ではないかと思うのです。足りないよりも箱が余り気味になっていて、何をやるのか皆が困っているという状況のほうが面白いような気がします。
それは南さんがさっきおっしゃった「ひそやかなラディカリズム」展のように、でかい箱でああいうことをやってしまうということも含めて、美術館の空間の成熟の面がなんとなく理解できた印象があります。ハードの面では整備されて、成熟の芽は蒔かれたが、美術館に来てくださる人たちがなかなか追いついてこないという状況がおそらくあるのだろうと思うのです。作家なり美術を取り巻く状況はわりと成熟してしまった、にもかかわらずそれ以外の状況のほうがあまり成熟してこない。それは美術のフィールドの中の問題でもあると思います。
自分の言いたいことを少しだけ言ったところで、松本さんにお伺いしたいのは、今は国立近代美術館がリニューアルに向けて休館中ですが、現代美術館とはまた違った役割が国立近代美術館にもあると思うのです。もう一つは、高島さんは非常に美術館のある場所とか美術館建築とか、とくに80年代から90年代にかけての美術館ブームという状況も、かなり地理的に考察なさっていると思うのです。どんな美術館がどういうふうに増えて、できていったという状況、それが作品へのアプローチに対して与える影響というか、ちょっと抽象的な言い方ですが、美術館が増えたことによって変化が起こり得るのか、あるいは起こっているのか、その辺りを80年代、90年代辺りの特徴的な事柄としてお話いただければと思います。
まず松本さんに近代美術館の学芸員としてのお話を伺いたいと思います。

[松本]…東京都現代美術館にはアニュアルの現代美術展があって、しかもこれはテーマ展ですよね。その1回目、さっきから話題になっている「ひそやかなラディカリズム」展というのは、それをキュレートした人の日頃の関心が良いかたちで出た展覧会だと記憶しています。私の勤める東京国立近代美術館は「現代美術への視点」という展覧会を持っています。1984年に第1回の「メタファーとシンボル」展を開いて、これまでに不定期で4回開催しましたが、毎年できるかどうかは別として、定期的にやったほうがいいと思う。その点では東京都現代美術館に見習ったほうがいいと思っています。
同じ東京で、場所もそう遠くないところに二つ、現代美術館と近代美術館という名のもとに現代美術とも関わる美術館がある。それぞれの位置づけのようなことが緩やかであれできるとよいのですか、実際には難しいでしょうね。

[林]…松本さんがお考えになっている未来像というか、どういうかたちで美術館を演出なりしていくことが今後できるでしょうか。もちろん現実には難しいかもしれませんが、川俣さんのような作品のアプローチが出てくる時に、美術館の役割も変わらざるを得ない。個人的なお考えで結構ですが、その場合のその美術館というのがどういうふうな有り様があるのかということです。
さっき僕がお話したことの繰り返しになるのですが、閉館してしまったものもありますが、作った美術館はまだたくさん残っているわけですね。そういう状況をうまく利用できないのかということを今思いました。バブルのあとを引きずっている分だけ美術館にとってのアドヴァンテージは何か、現代美術館のようなところは、でかい箱を持ってしまったということをデメリットとして懲りて捉えるのか、そういうアプローチのような仕方を美術館の役割として、どういうことがあるのかということを、個人的なお考えで結構ですのでいかがですか。

[松本]…幸いに現代美術への関心が高い学芸員が当館にも他の美術館にもかなりいるのです。これまで以上に展覧会や作品購入の比重を-お金の問題は学芸員が頑張っても無理な面もあるのですが-増やしたい。それともう一つは、川俣さんが代表選手であるように、今までのような展覧会場の壁に絵を掛けるだけで、あるいは床に彫刻を置くだけでは済まない作家が増える方向でしょうから、これはその都度、作家との話し合いで進めていくはかない。それ以上に言っても空論になるので、本当に作家から投げかけられるものを生かして、より柔軟性のある制度というか、骨組みにしたい、これが抱負ですね。
それから都の現代美術館や東京国立近代美術館のほかにも現代美術に関心のあるキュレーターや美術館は存在するわけですから、こちらの考え方も柔軟にして、各館の独立性を前提にした連携もあり得るのではないかと思っています。

[林]…もう一つ伺いたいのは、たとえばそういう美術館側が積極的にアプローチして変化を求めたとして、果してそれに対応できる作家はどれくらいいるのかという問題を同時に危惧してしまうのです。美術館を自由に使えばいいと言っているわけではなくて、キュレーターの意識を吸収してくれる作家が果たしているのかどうか。余った箱をどうするのかという時に、この作家でやっていきたいということかあるのかどうかです。

[松本]…それは相互の問題だと思います。つまり川俣さんのような作家の側からやりたいことをどんどん言っていただく。美術館の外へ打って出ていくタイプの作家、あるいは美術館の内と外の境界壁をどんどん押し広げていく仕事を得意とする、そういうタイプの想像力を持っている作家がいれば、彼らから美術館への持ちかけが、こちら側を伸ばすことになるし、逆に美術館員の側にもそういう方向の欲望とか想像力を持った大もいるのです。希望はあるでしょう。

[林]…ありがとうございました。高島さんにさきほどの質問を繰り返しますが、美術館がたくさんできていて、しかも最近では上野にできた法隆寺の宝物館、ああいうかたちでの建築家からの美術館へのアプローチというのがいろいろあると思うのですが、そういうふうに建築家がかなり大々的に美術館に介入していく時代にあって、その中で作家なりアーティストなりがやっていくあり方というものまで含めて、お話をいただきたいです。

[高島]…法隆寺宝物館の場合は「お宝モノ」ですね。ですから現代美術作品展ではなくてパーマネント物です。現代美術の作品を構成する美術館については、たとえば木場の現代美術館は天井が高くていいということがある程度あったり、竹橋の国立近美はまた引きがないとか、いろいろ言えます。学芸員がどういう作家を選んで、どこにやってもらってというキュレーションの問題に深く関わる問題なので、箱だけ一般的にどうのとはなかなか言いにくいです。

[林]…それも含めてお願いします。

[高島]…たまたま千葉市立美術館に行ったのですが、あの内部に、囲われたソファーがある休む場所が何箇所かあるのです。そこは閉じられた空間で作品は見られないのです。不思議なんです。デッドスペースといって、これは建築家としてはやってはいけないことです。ただあそこは、市役所のビルの中にあって、美術館建築ではないけれど。要するに、キュレーションの企画の姿勢に関わるということが第一です。その作品と、その美術館が生きるか死ぬかというのはね。あとは、建物としてどうなのかということをたとえば谷口吉生さんの豊田市美術館でやった川俣さんに聞いたほうがいいでしょう。作家の目のようなものでですね。

[林]…豊田市美術館には、僕はまだ実際に行ったことはないのですが、写真などで見る限りは非常にかちっとした美術館という印象があるのです。これを川俣さんがどうお考えになったのかということをお伺いしましょう。

[川俣]…別に美術館に興味があったということではなく、綺麗な美術館ですし光もすごく綺麗ですが、別に光が綺麗でスペースも綺麗だからといって、何かやる気が起きるのかということとは全然違うんですね。美術館というのは、一つの特定の空間のことではないと思います。インフォメーションセンターであったり、展示される場であったり、人がどこかで集まる場所であったりとか、そういうことがある意味で概念として美術館になっているのかもしれない。僕にとってはそれくらいでしかないのです。
今回の豊田のプロジュクトは、豊田市美術館が企画して美術館を受け皿としてやるのですが、ある意味で市内の点々としたところに作品を設置することなんです。美術館という一つの制度的なものを切り口にして、豊田の街の中で展開していきたいというか、また一つの美術館というポピュラリティを逆に利用することによって、ある意味では公の場所で最大限やることが可能になってくる。だから場所でもないし、キュレーションでもなく、一つの行政的な点としてそれを活用していく。豊田の場合はそういう意識で見ています。
また、新潟の妻有でやっているトリエンナーレにも参加していますが、あれもまさにその意味で言えば、新潟の妻有地区全体が美術館といえば美術館なわけです。100人くらい住んでいる集落なんかでも作品を設置している。
一つのアイデアというか、コンセプトというか、そういうことでしか僕は美術館というのは語れないのではないかと思います。

[林]…一つのコンセプトというのは?

[川俣]…たまたまこの間、見に行ったオランダの美術館で改装工事をしていて美術館に入れない。その美術館の隣に塔がありまして、塔の上に登れと言われて塔の上に登って、塔の上から美術館の屋根を見おろすと、作品が展示してある。それが美術館の企画であったりするのですが、美術館のスペースを使うということであれば、まさにそういうことではないかと思うのです。美術館のまったく違った機能もあるのではないかと思いますね。ポジティヴに言えばね。

[林]…ネガティヴに言うと何もないということですかね。

[川俣]…いや、だから個々の作家にとっては、美術館は美術館でしかないと思う。

[林]…お話は尻切れとんぼで申し訳ないですが、残り時間も少なくなってきたので、ここで打ち切って会場の皆さんから質問をいただきたいと思います。質問のある方はご遠慮なく手を挙げていただきたいと思います。今出なかった話でも結構です。

[会場1]…さきほど松本さんは、80年代はモダニズムをどれだけ批判的に追求しているか、そういう視点で作家を見ていたとおっしゃいましたね。90年代に入って、そういう視点に自信が持てなくなったと。それでは今は、どういう見方をされているのか、またこれからどういう見方になろうとしているのか、松本さんを中心にほかの方々にお聞きしたいです。

[松本]…現代美術の展覧会の企画の場合、一方的な評価基準や方針を立てて進めるというわけにはなかなかいかないのです。作家一人ひとりに言い分がありますし、現代は多様ですから。ただ80年代においては、モダニズムやモダンという時代のいろいろな価値観をいかに批判的に吟味しているかという視点で見ると、その作家の良い面も悪い面も、わりと公平に把握される。モダニズムへのスタンスということが作品のクオリティを左右するようなかたちで、ひょっとしたら働いていたのではないかと思うのです。だから、半ば過ぎ去りつつある近代という時代に対する距離、あるいは身の処し方とか立場に注意していたような気がします。

つまり80年代というのは、自分の時代は何かという意識や問いかけか、引け目なども含めてすごく強い時代であったけれども、自分の時代とのこの緊張関係が、90年代以降のある時期から壊れていったのではないか。いわば時代的な緊張がばらけて、それが空間的に拡散してしまったような感じなのです。だから、その空間性をある時はグローバリゼーションという言い方をするし、男女の性差であったり、人種の違いであったり、階級の差別であったり、さまざまな差異の関係性へと時代の張力が分解した時代だと思っています。
となると、当然ながら90年代以降に活動を始めた比政的若い作家の作品を見る場合でも、近代とその後とか、そういう単一的な基準だけで見るわけにはいかない。
では具体的にどういう評価基準があるのかということになると、冒頭に言たように、貝体的にこれというかたちでは取り出しにくいのです。実際に作家や作品を選んでいく中で、提示することはできるでしょうが、一般的な基準とかルールというかたちでは定立しにくいのです。

[林]…南さんはいかがでしょうか。さきほどは名前がすでに確立した方とおっしゃいましたが、僕が拝見する限りではその中でも非常にアクの強い人をやっているように見受けられるのです。同じような仕事をやっている人で、もっとアクの少なくて、なおかつすぐに巨匠という名前をつけていくことができてしまう作家がいくらでもいる中で、いろいろな事情がおありでしょうが、中西夏之さんとかあるいは河原温さんもおやりになって、しかもその後に、「ひそやかなラディカリズム」展で若い作家をああいうかたちですくい上げていらっしゃる。
その時に、たとえば時代認識というのも変ですが、とくにその場合ははっきり言ってしまえば、モダンなものとの関わり方というのは、南さんの場合にはいかがでしょうか。

[南]…95年から99年まで、展覧会の仕事と並行して常設展示をずっとやっていて、最初は歴史的な展示をするという意識、歴史を再現していくということをするのだという意識が非常に強かったのです。まず40年代50年代があって、次に60年代があって、60年代だとポップとミニマルだ、70年代だとコンセプチュアルだ、80年代だとニュー・ペインティングがありインスタレーションあり、それで90年代がありという展開を時代順に見せようという、自分で課題づけをするというか、そういう意識が非常に強かったのです。

しかしそういうふうにやっていて、作品が揃わないということもあったのですが、これは何か違うのではないかというか、作品が見えてこないということに気がついた。とくにポップとミニマルというのはスタイル的には結構明確ですが、それ以降というのは、スタイルを示そうとしてもうまく見えてこないというか、作品が見えてこなくて、死んでしまうというのがあった。それと、中西夏之と河原温についてですが、この二人の作家は、打ち合わせを密接にしょっちゅうしないといけない。付き合いの時間が長くなってしまう。すると一般的な歴史的な見方のようなもので個々の作家を位置づけるのは難しい部分が多いということに気づいて、歴史的な観点で眺めて位置づけていくというのは、ちょっと美術に対してフェアな態度ではないのではないかという思いを持つようになりました。アニュアル展を企画する時も、その時代の傾向というのを切ったり、総括していくという意識ではなくて、今在るものを見せていくというか、そういう思いが強かったです。

[林]…もしモダンとポストモダンという問題があり、それが何か一つの成熟をもたらすとすれば、こういう態度なのかなというふうに思います。単線的な歴史はもう成り立たないと声高に喋ることよりも、実際に一つの切り口をちゃんと見せるというのが一つの成熟した態度ではないかと思います。常設展でも新しい作品を借りてくるという話を伺って、そういうやり方もあるのだなというふうに感じました。ありがとうございました。

[会場2]…川俣さんにお尋ねします。画廊とか美術館以外の公共の場所で自分の作品を設置して成り立たせる時に、たとえば本当に美術館とか画廊を一歩出れば、道とか普通の建造物とかになりますよね。私は、市町村などの自治体が管理する建物の壁を借りようとしたのです。自治体に一応は交渉したのですが、全然うまくいかなくて、それでも作品を設置して、写真では撮ったのです。そういう作品を成り立たせる時に、どこまで自冶体との折り合いというか、そういうことを努力してやればいいのか。もし折り合いがつかなければ、その場所では作品を成立させることができないのでしょうか。その辺りをお聞かせいただけますか。

[川俣]…まあ、いろいろな作家がいますから一概には言えないですが、僕個人としてはこう思うんです。自分でプランして考えて、その60パーセントできればいいくらいのものです。全部を是が非でもそこでやらなければならない、完成させなければならないという意識は持たないのです。

最初から諦めています。そうしないと、疲労感というか徒労感というか、それしか残らない。僕自身は、是が非でもそこで成立させなければならないということじゃない。時間をかけて、場所を取って、いろいろネゴシエートして、政治家に手を回してやっていくパワーというか、自我を張っていく意識は僕の中にはないです。だから、撤去しろと言われれば、素直に撤去します。よくあるんですよ、こういう話じゃなかったとか。そういう時は撤去する時もあります。いろんな場合があると思います。僕は単純に自分が考えたことをそこでできなくても、どうしてもここでやるということに向かって進む、何年もかけてやる、みたいな意識はないです。
僕は、アートというのは、ある意味で犯罪だと思うんですね、犯罪にならない犯罪というか。でも日本の場合、ごめんなさいと言って謝れば済むところがあるのだけれど、他の国じゃそれでは済まないこともあります。それを見極めるのもやはり作家の一つの視線ですね。話がうまい作家もいれば、交渉下手な人もいる。やっぱりパブリックな場所というのは、自分が考えていることを100パーセントできるところじゃないし、できるものだと考えないほうがいい、というのが僕の個人的な意見です。

[林]…もう1人くらい大丈夫ですか?では、どうぞ。

[会場3]…川俣さんの作品をずっと見てきましたが、川俣さんは自分がやりたいことをやると明言なさっています。ですから別に美術を根づかせようと思ってはいらっしゃらないんですよね。ですけれど結果的に川俣さんの仕事というのは、何か公共的な要素があって、その辺の部分を、ご本人がどのように思っていらっしゃるのか質問したいと思います。今日のシンポジウムで抜け落ちていることじゃないでしょうか。
それは、今月の『美術手帖』(2000年8月号)で、中ザワヒデキさんがレポートしている、中村政人さんや村上隆さんがやった、街に出て行く流れというのが今日のお話になかったことで、中村さんが作った「コマンドN」とか、「NPO」みたいなかたちでやろうとしているのが90年代終わりに出てきましたよね。川俣さんの仕事を拝見していると、必ず公共という意識があるようですが、川俣さんご自身は、ご自分から見て公共ということについて、いかなるお考えをお持ちかお聞かせください。

[川俣]…確かに80年代、90年代の話の中で、あまりにもバブルのほうに話が行きすぎましたが、たとえば80年代の中頃からアーティストが、たとえばブティックとかディスコとか、そういうところのインテリアとかに関わっていって、ある意味で社会性という、美術館から出て行くという方向が一つの動きとしてあったと思う。街に出ていくという方向も確かにあったと思う。そういうことは、80年代の終わりから90年代にかけて、たとえばいわゆるパブリックアートなどと言われているところにも繋がっていくと思う。

ただ僕個人は、意識的にパブリックアートとは何かとか、そういうタイトルをもって何かをしていくということではなくて、基本的に80年代に仕事を始めた時から、たまたまそういうふうな動き方になってしまったので、たとえば交渉したり、あるいは場所を借りたり、共同作業をしてみたりというのは、結局そこから始まったところがあって、一つのリアクションとして、そういうふうになってきたわけでは全然ないです。大きなものを作りたいと思った時に、自分一人ではできないから、人が手伝ってくれたり、あるいは大きなものを作るのに画廊の中だけでは済まないので外に出始めた時に、社会性を考えざるを得なかった。

よくあるように、パブリックアートのためのパブリックアートとか、あるいは公共的なものとか、あるいは町興しとか、いろいろな言い方はありますが、それを逆に意識してはまずいと思う。結果的なものとしてそれがあっていいと思うが、それを言っては駄目というか、どこかでそれを謳い文句にして何かを作るというのは違うのではないか。

ある意味では、今の時代はどこかでそういう意味でのひねりを入れない限り、ストレートでは一つのメッセージは伝えにくい。さあ皆さん集まってくださいと言って集まった人たちに、「お前馬鹿だな」と言ってしまうというか、そういうところがあると思うのです。だから皆のために何かしようと言って皆が皆のためにやるのはそれは違うだろうと感じます。今の町興し、あるいは地域興しのようなものに対して、アートというものが一つの力を持ち得ている、持ち得るはずだという意識の中に、すごく誤解があると思う。そう言いながら、たとえば妻有であったり豊田のプロジェクトであったり、どうしても地域と関係せざるを得ないようなプロジェクトをやっているのですが……。
答えになっているかどうかわかりませんが、人助けではなく、やはり自分は自分の中でやりたいことをやっているだけの話で、その中で人がどこかで何かを見ればいいわけで、それがある意味でアートの醍醐味だと僕は思っている。アートというのは決して社会活動ではない。結果的にそれがどこかで繋がってくればいいと思うのですが、あえてそういうことを考えてしまうと全然違うものになってしまうと思います。アートは宗教ではないのと同じ意味で、アートは社会活動ではないというふうに言わないといけないと思うのです。

[林]…ありがとうございました。では時間も迫ってまいりましたので質問を終わります。今日はご質問の中にもありましたが漏れたものもたくさんございます。中でも私個人としては、モダンとそれに伴っている言葉の意味を含めた周辺の話も伺いたかったです。
パネリストの皆さん長い時間ありがとうございました。ご来場の皆様もありがとうございました。

  


●パネリスト・プロフィール

●川俣正(かわまた・ただし)

1953年北海道生まれ。東京芸術大学大学院博士課程修了。同大学先端芸術表現科教授。
1977年より発表活動を始め、1983年ジュネーウ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、1984年デュッセルドルフ、1987年ドクメンタ8と、海外での出品が注目される。越後妻有アート・トリエンナーレ(1999年~)、ワーク・イン・プログレス豊田2000、エヴリュー(フランス、2000年)、ミドルハイム・オープンエア・ミュージアム(べルギー、2000年)、ロッジング東京2001など、プロジェクト多数。

●南雄介(みなみ・ゆうすけ)

1959年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士過程修了。東京都現代美術館学芸員。
手がけた展覧会に「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」(1997年)、「河原温 全体と部分 1964-1995」(1998年)、「MOTアニュアル1999:ひそやかなラディカリズム」(1999年)、「シュポール/シュルファスの時代」(2000年)など、

●ギャラリーαMキュレーター

●高島直之(たかしま・なおゆき)

1931年仙台市生まれ。武蔵野美術短期大学デザイン科商業デザイン専攻卒業。美術評論家
1970年代半ばより出版編集に携わり、1980年代半ばより美術評論を始める。1994~1996年、ギャラリーαMキュレーター。最近の論文に「戦争のエポック/芸術のメルクマール」(『Inter Communication』32号、2000年)、「よみがえったル・コルビュジュ 国立西洋美術館の改装をめぐって」(月刊『東京人』1999年10月号)。著書に『中井正一とその時代』(青弓社、2000年)。

●松本透(まつもと・とおる)

1955年東京都生まれ。京都大学大学院修士課程修了。東京国立近代美術館美術課長。
主な論文に「カンディンスキーの芸術理論における絵画の形式と内容の問題」(『芸術の理論と歴史』思文閣出版、1990年)。翻訳に、S・リングポム著「カンディンスキー-抽象絵画と神秘思想」平凡社、1995年)など。手がけた展覧会に「カンディンスキー」展(1987年)、「現代美術への視点-色彩とモノクローム」展(1989年)、「村岡三郎」展(1997年)など。

●林卓行(はやし・たかゆき)

1969年東京都生まれ。東京芸術大学大学院後期博士過程満期退学。美術評論家、玉川大学専任講師。
論文に「同一性のかたち-ドナルド・ジャットの芸術について」(『美学』180号、1994年)、「描くことの半透性:ゲルハルト・リヒターをめぐって」(『カリスタ』第4号、東京芸術大字美学研究室編、1997年)など。

(※略歴は2000年当時)