パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き

Palimpsest – Overwritten Memories / Superimposed Memories

design: 田中義久


αM2014 『パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き Palimpsest – Overwritten Memories / Superimposed Memories』

「重ね書きされた記憶」北澤憲昭

「記憶の重ね書き」和田浩一

重ね書きされた記憶 Overwritten Memories
北澤憲昭

What else than a natural and mighty palimpsest is the human brain? ――Thomas De Quincey

重ね書きされた羊皮紙をpalimpsestと呼ぶ。トマス・ド・クインシーは、『阿片常用者の告白』の続編のなかで、こうした羊皮紙を、記憶の場である脳のたとえにもちいている。「観念や形象や感情の永続する多数の層が、光のように柔らかく頭脳の上に折り重なっている。新しい層が形成される毎に、以前の層は埋もれて仕舞ったかに見える。が、実は如何なる層も消滅したわけではない」(野島秀勝訳)、というのである。
記憶におけるインター・テクスチュアリティーについて述べているわけだが、彼は、このすぐあとで、重ね書きされた複数の記憶がヘテロジニアスな要素の蓄積であることを指摘している。重ね書きには脈絡がなく、しばしば衝突さえ起るというのだ。統合的な歴史に対する信頼が失墜した80年代末以降の状況に照らして、これらの指摘はリアルであり、記憶がはらむ潜在的可能性を思わせずにはおかない。正統を誇る「歴史」において忘却されてきたものたちが、「記憶」の名のもとにざわめきだち、くちぐちに復位を要求しているからである。すなわち、重ね書きされた羊皮紙に脈絡なく残存する文字群の多層性を彷彿させる状況が出来しているのだが、さわだつ多様な記憶に耳を傾け、それらを受け容れてゆくことは、蓄積された記憶のあいだに思いもよらぬ関係性をつくりだしてゆくことにほかならず、それゆえに正統性を誇る歴史を相対化し、歴史にもたれて惰性化した現状を批判するための方法ともなりうるはずなのだ。
ド・クインシーは、さきのことばにつづけて、異種雑多な記憶が蓄積されたとしても、それらは「予め決定づけられた確固たる中心の周り」に組織され、「人間の統一性」が揺さぶられることはないとも述べているが、この「中心」が空虚となり、「統一性」が揺らぎはじめたからこそ、脈絡なき記憶がかがやきを帯び始めたのだ。中心や統一性が、阿片常用者の夢想的願望にすぎないと思われる状況が、すでに到来しているのである。
歴史を取り囲む地模様のように、また、忘れ去られた亡者たちのように、あるいは来るべきものの徴候のように浮かび上がる断片的な記憶に耳を傾け、眼を凝らすこと、それは、歴史/記憶という二項対立に跼蹐することなく、正当性と正統性の根拠なき時代に、別のヴィジョンを見出すための極めて重要な契機となるのにちがいない。 意中の三人のアーティストのために、このテキストを書いた。αMの空間が一枚のpalimpsestと化すことを夢見ながら。

記憶の重ね書き The Superimposition of Memories
和田浩一

思考は不意に訪れる。その唐突さは、思考が何ものにも束縛されるべきでないことの一つの現れでもあるだろう。思考が拠り所とする最大のもの、それは記憶である。時々刻々と生成される記憶は、生まれた直後からそれを下敷きとして、さらに新たな記憶へと否応無く重ね書きされる。このような不断に変容する記憶のあり方に、思考の唐突性とあい対する瞬発力が保持されているのではないか。
ボードレールは、人間の脳髄のことを、刪皮紙(パランプセスト=palimpsest)になぞらえた。そして、実際の刪皮紙には「奇怪な混沌、異質な要素の衝突」があるのに対し、無制限の記憶という神に創造された神聖な刪皮紙には、必然的に「ある調和が生じている」と指摘したが、ここでいう「調和」とはもちろん、変化を繰り返しながら達成される、いわば「動的な調和」だと捉えるべきであろう。
時としてカタストロフは、そのような調和を超える苛烈な記憶の変容を我々に迫ることがある。その圧倒的な記憶のギャップを前に、私たちはしばし立ち尽くしながらも、次の一歩を踏み出すための空隙を埋める何かを求めるだろう。しかしながらそのとき、以前の記憶を再現することで過去の世界につなぎ止めることや、口当たりのよい出来合いの物語へと落とし込むことが、私たちに有効に働くとは思えない。なぜなら、それらは記憶を何らかの形で固定化する方向へと導くだろうからである。ここで、今一度私たちは、記憶の特性としての「パランプセスト」を思い起こすべきではないか。
「パランプセスト」がもたらすものとは、記憶における大幅なアクセス許可とでも呼べるものである。すなわち、記憶の海に漂う膨大な先行テクストと後続テクストとの盛んな相互接続を促すことで、思いもよらない回路を唐突に開きうる奔放さを、記憶の領野に確保することである。記憶は重層的・並列的であって、そこでは常に部分もしくは全体が別の何かと入れ替え可能であるような、非決定性に満ちた「重ね書き」がなされる。それは新しくなるという点で同じであっても、不可逆的で他に選択の余地のない「上書き」とは対極に位置する。思考をあらゆる回路へと柔軟に開いてゆく可能性を、パランプセスト的「重ね書き」の動的な側面から見ることによって、いくつかの作品群が見出されるだろう。そこに、豊かでかつ風通しのよい思考が生まれ、充実した瞬間が重ねられていくことを私は期待する。

キュレーター

●北澤憲昭 きたざわ・のりあき

美術批評家。女子美術大学教授。
1951年東京都生まれ。専門は日本近現代美術史。著作に『眼の神殿—「美術」受容史ノート』(美術出版社)、『岸田劉生と大正アヴァンギャルド』(岩波書店)、『境界の美術史』(美術出版社、「定本」はブリュッケより刊行)、『アヴァンギャルド以後の工芸』(美学出版社)、『美術のポリティクス—「工芸」の成り立ちを焦点として』(ゆまに書房)など。

●和田浩一 わだ・こういち

宮城県美術館総括研究員。
1957年千葉県生まれ。これまで企画した主な展覧会「小林正人展」2000年、「アートみやぎ」2000年、「コモン・スケープ/Commonscapes」2004年、「高山登展」2010年

(※略歴は2014年当時)