杉本公和+瀬田哲司「形の宇宙 聖なる空間」


1991年3月12日~4月6日


形の宇宙 聖なる空間
赤津侃

立体はフォルムが基本である。かたちこそすべてである、とも言える。杉本公和と瀬田哲司の立体は、素材、質量、大きさはもちろん異なるが、「小さきものいとおかし」なのか、総じて形の宇宙は小さい。二人とも自分がものを創ることの基盤が確固としていて、そこから広がる空間イメージは限りなく広い。
杉本のフォルムの原形・母型は、強靭な鉄線で張られた円弧である。このほぼ円に近い表面にオーロラフィルムやハーフミラーのルミクールを張る。表面は光の作用で微妙な色彩効果を反射する。一種の表と裏から鏡面効果をも果たす。杉本は素材の内なる言葉に忠実に聞き入り、ぎりぎりの限度までフォルムをそぎ落とす。原型フォルムに執着し、イメージを簡潔体の円弧に結実させている。円弧は、杉本の流動し、奔流するコンセプトを素材的に冷やかにさえぎり、均衡と純粋さと透明感のある作品に昇格される。円弧こそ杉本の原体験の集積であり、縮尺図である。二つの魂が寄り添い、二者の孤独を思わせる円弧には、表があり、裏がある。二重構造だけだはない。母型を並置し、交錯させることで、その境界が見える三重構造にもなる。そこに視点を置けば、両者が見え、両者と異なるものが直ちに見えてくる。平面と境界線の要素を抱合した立体である。二つの円弧の深層空間、前後の異なる空間、二次元と三次元のはざま、虚と実の多重空間と杉本の創りだす空間は多義的である。
杉本は今回、壁面に綾角的空間を現出させるが、凝視すると、空間の裏なる空間、あるいは空間の内側の空間をも作りだし、全体に聖なる空間になっていると言えよう。
杉本の空間意識は、観る者を厳しく巻き込むというより、見る者をして静溢な空間になじませ、空間意識を持続させる。杉本の極度に内的なフォルムが、宇宙的な広大さと不断の相互浸透を続ける。杉本の端正で、さりげない意識空間は、進行形の現在の、限りなく増殖し続ける空間である。
杉本は素材を組み伏せ、意図するイメージを強引に封じ込めたりはしない。円弧立体とそれが醸しだす浮遊する空間に、同時代人は杉本の美意識の深淵をのぞくが、それはあたかも宇宙にきらめく星座を見る感覚を呼び起こす。
瀬田のフォルムの原型は、掌に乗りそうな鉄のオブジェである。発砲スチロールを原型に型抜きした鉄、アルミ鋳造のオブジェ群を約300個配列する。無数のイボがついた四角形のものや、球体を継ぎ目とした曲がった輪、あるいは分子構造めいた形やプランクトンに似た形などそれ自体フォルムの究極の構造を示す。それらは二つとない固有のかたちである。同じ形は一つもなく、無限のヴァリエーションを示す。かたちこそまずすべてなのである。
「存在が意識の反映である」とすれば、瀬田のかたちは、現代社会に存在するかたちの反映である。意味不明の形態が、限りなく情報によって大量に生産され続ける現代のカオス的状況のアナロジーにもなっている。瀬田のイメージは、もちろん現代社会の既成概念に支えられているが、<一つとして同じものはない>という視点から見れば、形態に生命の気配を感じさせる。自然の単位を取り込んだ形の宇宙を示している。瀬田の創りだすフォルムの方がむしろ有機的であり、生命の初源を感じさせる。
瀬田がこの形の宇宙を床面に配列すると、空間が一変する。瀬田の不定形のフォルムによって、空間が揺動し、全体として巨大な容量をもつ新しい空間に組み替えられる。というより形の宇宙が、造形の境界を突破し、広大なマクロの宇宙空間を現出する。サイズに限定されない、これまた無限のイメージを喚起する空間を創りだす。
300個近い形の宇宙を知るのは、いわば“虫の眼”である。それらを配列した空間は、鳥瞰的な視点を要求する。いってみれば“鳥の眼”である。一つの大宇宙的光景を観るものは実感する。瀬田の空間も多義的であり、凝縮した形の宇宙が、ある方向に拡散した空間を創りだす。「部分は全体の一部ではなく、部分としての全体である」と瀬田は言うが、虫の眼で部分を見、鳥の眼で全体を見る。大きさや重さを限定した部分の小さな世界のイメージが、全体になると、それらがすべて解放され、広大な宇宙空間のイメージを限りなく拡大する。
さらに、瀬田は立体のコンセプトとほぼ同じだが、切り口を変えた写真を展示する。形の宇宙が映像の平面性に閉じ込められると、これまた「かたちのはなし」が無限に語りかけ始め、かたちの必然性と偶然性の対比が興味深い。