清水伸「視野をみたす色面」


1991年9月17日~10月12日


視野をみたす色面 視覚と色の間の力学を測定する清水伸
赤津侃

清水伸の色面表現は、ある理念の典型的な媒体であることを意図している。色面そのものを芸術的な媒体として構造化する諸形態の視覚化である。視覚的なフォルムで、視覚作用に対する刺激的なリアル空間性の色面に昇華されている。色彩と色面で平面を普遍的に視覚化する。平面のイリュージョン作用を必要とする画面空間とは無縁であることは言うまでもない。
清水の現在の関心事は、視覚の作用を直接に刺激する色彩のコントラストやニューアンスである。清水は言う。「色の自然性に対立する視覚の作用が生む力の度合いを感じ取ってゆきたい」。
<色の自然性>とは新しい概念だが、感覚を限りなく刺激するコスミックな存在としての色彩だろう。この概念については、視覚生理の分野や物理学の援用が必要である。つまり、清水は、色の自然性と結合してゆく無数の視覚作用を平面の上で計画的に秩序づけてゆくのである。
その方向性は三つある。今回のαМでの展覧でもそれは明解である。三つの異なる通路の感覚が開かれる。
一つは黒っぽい青紫のバックに、強い赤の長短の矩形が天地からから描かれる平面であり、もう一つは、楕円形の白っぽい地に深い透明な青緑の点が描かれる平面である。さらに、不定型の平面に深いブルーが塗り込まれる作品である。

これらの三方向の色面は、視覚作用に対する差異のために、相互間の違いがより際立ち、それぞれの個別の方向がより明確になってゆく。一つひとつの方向自体は簡素な構成から成り立つが、方向が複雑であるため、視覚への作用は必然的な構造化を促すのである。そして、視覚をそれぞれ異なる通路へ通すための視線のエネルギーの配分が問題になるであろう。
三つの方向性の色面に共通してることが一つある。色と色面は、鋭敏なニューアンスが充満し、色彩は、その輝きの最高の活力を現出している。さらに色彩は、そのエネルギーに体比性によって、観る者そして視覚的な形象体験の中へ組み入れてゆく。空間的な平面を普遍的に視覚化し、<視野をみたす色面>に高められている。
清水の色面は、確かに<視覚と空間の間の力学を静かに測定している(宇野邦一)>。これを、視覚と色(光)の間の力学を測定している、と置き換えると、清水の視野をみたす色面はわかりやすい。
清水はパリ在住が永い。日本の現代美術の状況から離れて、ひたすら色面に打ち込んできた。パリ体験が彼の色面にどう影響したかは平面からは読みにくいが、イヴ・クラインやピエロ・マンゾーニのコンセプトをひもとくことは、清水の視野をみたす色面を理解するのに役立つ。
たとえば、イヴ・クラインは<色彩は物質化された感度>だと言い、自己のモノクローム・ペインティングを<精神的な絶対に対することをゆるす唯一の物質的な絵の描き方だ>と言っている。生命は簡素なものである、という命題にむ結びつくように、色をモノクローム(単独に)として、絵の歴史のコンテクストから引きはがすようにして、生々とした存在にしたかったことは明らかであろう。
さらに、ピエロ・マンゾーニは<私にとって問題なのは、全面的に白い、いわば絵画現象を超えた中性で無色の表面をつくることで、白い画面以外の何ものでもない(存在そのものが純粋な生成物)>と、初期の頃の無色の絵を描いていた時に言っている。
イヴ・クライン、ピエロ・マンゾーニの二人ともそれぞれ<絵画が視覚の対象としてあらわれるぎりぎりの条件>を色彩のモノクロームと中性化によって、絵画史からその逸脱を恐れず実現してしまった、と考えることもできよう。これらの観方は、清水のそれとも一致するであろうが、二人とも<ぎりぎりの条件>を提示したことにより、視覚をさらに自由な解放に向けて、切開する手術をほどこしたとも考えられるのである。
清水の<視野をみたす色面>は、彼らが行きついた<ぎりぎりの条件>から出発しているとも言えよう。清水が視覚に正面から立ち向かおうとする時、まだ何度も、さまざまなモチーフ、方角から、ほぐすように粘り強くあたる。こうして清水の色面は、リアルな空間性の視覚的な規定をめざし、それらは観る者の欲望をも満たす色面になっているのである。
(清水伸は9月17日から9月28日、京橋・京ニ画廊で個展を開催したことも付記しておきたい)。