空間へのディアロゴス 7 井出創太郎「時間、あるいは痕跡としての線」

撮影:小松信夫


1993年1月12日~2月6日



空間へのディアロゴス 7「時間、あるいは痕跡としての線」


高木修

いつだったか、ある雑誌の座談会の記事で<印刷術>についての話を読んだことがある。つまりそこでは、印刷というのは<葡萄絞り機の、上からグッと押しつける板の裏側に版木をつけ、印刷を始めたもの>だと言っている。このことは、印刷というのが<生活体験が基礎になっている>ということにおいて、独創が一種の模倣から始まっていると言う。
そういえば、子供の頃、草花を本の間にはさみ込み栞にした記憶がある。しかも、その栞を、いつとはなく忘れてしまい、月日が経って偶然にそのページを捲った時、そこには草の匂いも無ければ、厚みも無く、ただ乾燥しきった草花が、わずかな形を残しながら今まさに崩れ折れようとしていた。
このような経験は、誰かに教えられたというよりも生活の中でごく自然になされていたように思える。私は版画を見るたびに、この葡萄絞り機や栞を思い出す。実際、井出の銅版画を目の前にした時も、このことが思い起こされたのである。
<版>という概念が葡萄絞り機のように圧縮する行為=瞬間を抜きにしては語れないように、その圧縮の原理にパースペクティブを持とうとしているのが井出の表現ではなかろうか。つまり井出の銅版画は、版の拡大化を模索するというよりは、<版の源泉>へと、いま一度辿ろうとしているのではあるまいか。
かつて滝口修造は《版は、むしろ絵画とともに、おそらく以前に、欲望の手と前後して、その源泉を辿ることができるのではないか。こうした版は原型と増殖のアンビヴァレンスを絶えず内包する》と言ったが、井出の作品は、こうした版の概念を見事に打ち消している。それは、版の増殖性の一歩手前において、凍結あるいは時間の切断によって版の複数性の自明さを断ち切っているからである。が故に、井出の作品は、制作行為の一回性(一度しか刷らないという意味ではない)は、具体的な版の質、あるいは表現の強度と密度に関わってくるのである。モチーフである植物の葉と葉脈を圧縮し――金属板を薬液で腐食させることによって行為の瞬間を定着し、痕跡としての線を顕現させる。
しかもこの線には、怠惰な動きもなければ意識的な作為性も感じられない。たとえば葉や葉脈による蓋然的な線に呼応するかのように新たな線がナイフによって鋭く刻み込まれていく。それは線同士が拮抗して独自の主張を表明するというよりは、無数の線が饗応し合って画面全体を形づくっているといえよう。

もはや、ここには一本一本の線が存在するというよりは、一枚のガラスが割れた瞬間のように貫く線の出来事、そしてそれは蜘蛛の糸のように互いの線が微動しつつ空間を形成している。言い切るならば、井出の作品の強度は、あらゆる細部がそれぞれ<作用>すべきものとして結び付けられ、時間の空間化を表出しているといっても過言ではないだろう。
井出は言う<時間の集積は、いくつものピンボケの映像を重ね合わせたように認識する境域を越えてザワザワしている>と……。それは、井出の抱え込んでいる時間と、<記憶の核としての時刻>が薄い紙片の上で、今なお重層し合い進行しているからだといえよう。

井出創太郎 いで・そうたろう
1966年東京都生まれ。1991年愛知県立芸術大学大学院美術研究科修了。90年「自遊空間展」、92年「韓・日現代版画エキジビジョン展」(ソウル)、94年「現代の飯場1994展」に出品。92年ギャラリー源、93年J2ギャラリーで個展ほか。

(※略歴は1993年当時)http://www.aichi-fam-u.ac.jp/ja/teacher/item/62-2013-01-18-02-28-26.html