空間のビカミング 5 林武史「垂直の<存在>」


1993年10月19日~11月13日


空間のビカミング5「垂直の<存在>」

高木修

≪私はかつてギリシャのパルテノンの傍らに立ったことがあった。パルテノンの列柱の一つが修繕のために地の上に一個一個がばらばらにして横たえてあった。その柱頭の所を見入って、二十代の私は思わずうめき声を上げた≫と、建築家堀口捨己は語ったことがある。私はこの文章を読んで、堀口が日本の数寄屋造りに回帰していった契機を知ることができたが、しかしそれよりも、その石塊の冷たく厳しく寄りつくすべもない美しさの中に、うちのめされた経験の驚きと、石そのものの存在に、これほどまでに強いリアリティがあることをあらためて感得した。
私は、これまで多くの石の彫刻を見てきたが、堀口が語るような衝撃のあるものに出会ったことは一度もなかった。だが、林の彫刻には、見る者の存在を大きく揺さぶることがなくとも、どこか気にかかる存在、あるいは<物自体に立ち返る>ような存在感を感取したのは確かである。
林の彫刻には、意味ありげな文学性もなければ、過剰な表面性への拘りもない。むしろそうした抽象的・観念的なものを捨象し、実感的で感覚的なものへと指向している。言うなれば、石そのものを<粗野の状態>のままで企投しているといえよう。しかもそこには粗野の下品さが排除されているのである。だからこそ、そこには荒削りの状態でありながら強度と静けさを顕現させている。

ヴォーリンガーは、石のあり方の差異をギリシア建築とゴシック建築に分け、≪ギリシアの建築家はひとつの感覚をもって、材料すなわち石に接する。彼は物質をそれ自らとして語らせる。これに反してゴシックの建築家はひとつの純精神的な表現意志をもって石に接していく≫という。林の場合、後者のゴシック的な<芸術的に創案された構造意図をもって石に対する>のではなく、前者のギリシア建築の石に対するあり方、<石とともに-物質をそれ自らとして語らせる>表現に近いように思えるのだ。
林の彫刻は、上述したことからいえば、作為的ではなく(何らかの作為はあるのだが)無作為性に近いだろう。つまり石を荒削りする行為が、ミニマルがゆえに作為を感じさせないものにしているのである。だからこそ造形的な意味合いを消し去り-石の素、つまり祖型(アーキタイプ)のほうへと向かわせている。
見る者は、その行為の痕跡が作家によって成されていることに意識はしない。あたかも石切り場から直接切り出された裸形の存在のようにさえ思えるのだ。それゆえに作品はアノニマスなものになっている。このように、林の彫刻が私たちを魅了するのは、石を<形態の伝達>と捉えるのではなく、石のもつ本来のあり方をありのまま表現しようとする強い意志にほかならない。
だがそれは、一般的に言われるような常套句的な方法論<ただそこにあるだけ>ではないのである。黒御影石を床面と拮抗するかのように屹立させている。その荒削りされた表面は、鋭角的で多方向な面を形成しながら垂直に伸び上がる。そして確固とした石と石のとの間にわずかな空間を作り林立させ表現の<場>を獲得している。
私は、林の彫刻を見るたびに<彫刻の零度>を模索しているのではないかと想う。それも石の目を読みながら割るという行為を通してなおかつポジティブに現前させている。決して消極的な方法論ではなく・・・・・・。
このタイトル「垂直の<存在>」とは、メルロ・ポンティ晩年の「研究ノート」から取ったことを附記しておこう。

林武史 はやし・たけし
1956年岐阜県生まれ。1982年東京芸術大学大学院美術研究科修了。85年「現況展ー戦後生まれの作家達」、89年「白州・夏・フェスティバル」、91年「現在美術<日本の心>」展に出品。84・90・93・95年ギャラリーなつか、95年東京画廊で個展ほか。

(※略歴は1993年当時)http://geidaichoukoku.com/pageteachers/takeshihayashi