空間のビカミング 6 館勝生「瞬時的絵画の生成」

撮影:小松信夫


1993年11月23日~12月18日


空間のビカミング6「瞬時的絵画の生成」

高木修

舘勝生の絵画には、何かが停止している瞬間と同時に落下するといったイメージがあるように思えてならない。たとえば、フランシス・ベーコンの絵画「<法正イノセント10世の肖像>にもとづく習作」(1953)を想起するだろう。あの垂直に走るストロークは、法王の<叫び声>とともに画面に振動を与えており、しかも「<法王・・・>・・・」の場合、茶系統の色彩が渇いているとともに、筆のタッチがかすれ、上から外へと響きわたっている。またストロークや色彩を見れば、「二人の人物」(1953)の背景に近いように思える。特に館の作品「unspeakablegift」(1992)などは、その暗褐色の筆勢と相似している。だが館の場合、ベーコンの聳動的絵画に見られる存在のねじれや時間の厚みはなく、むしろ<停止した時間>、あるいは、G.バシュラールがいうような<尺度に従わない時間>、・・・・・・<水平的>に逃げ去ってしまう普通一般の時間と区別するために、特に<垂直的>と呼んでみたい時間を絵画の中に見ることができよう。
しかも、館の絵画が新鮮に見えるのは、古いタイプの抽象絵画の<へばりつくような塗り>から解放されているためである。日本特有の厚塗りをもって色彩の豊かさを表わすといったアナクロ的な手段とは異なっている。もちろん館自身も、1989年までは絵の具を厚塗りしていた。このことに対して館は≪絵の具の物質面ばかり強くなり、本来のイメージを形容するものである、形態、色彩、それが違うほうへ≫とずれてしまったことについて述懐している。がゆえに、そのような余分な部分を要素をそぎ落としてきた。
そうした、そぎ落としていく作業は、ストローク、マティエール、形態、色彩といった作用子の、どの部分にも比重が置かれることなく画面全体に合一するように等価なレヴェルで扱われている。それゆえ、マティエール主義になることはないのである。むろん、ストロークやマティエール、形態、色彩を含んだ手の<運動>の中でこそ―速度、持続、停止、瞬間、生成、消滅などといったものが画面に放射されるのだ。
そして、館のこの絵画を特徴づけているのは、瑞々しい<官能性の色彩>ではなかろうか。このことは絵の具が生々しいといったことではないのである。つまり、私がいう<官能性>とは、生成する絵画=瞬間を指している。つまり、バシュラール的に言えば、行為とは、何よりもまず<瞬間>における決心というべきものである、ということだ。
館は、≪生成されるイメージをできる限りストレートに画面に定着させるためには、当然短時間に作品を仕上げなければならない≫、≪制作する時間的な経緯が長くなれば、描く瞬間にあるイメージが衰退してしまうのではないかという恐怖心がつねにある≫という。このことは、瞬時的なイメージを即座に画布に定着させたいという欲動にほかならない。つまり、この瞬時的絵画の生成は、≪イメージの生成と手の活動とがあるいは同時に進行する≫(金田晋)のである。逆説的な言い方をするならば、私たちがつねに、思うがままの絵を描くことができないのは、イメージの生成と手の活動がずれをひきおこすからだといえよう。
館の新作絵画には、蛹が羽化する過程にも似かよっている。それもストップモーションのように、残像を残しながら瞬間的に浮き上がって停止しているという状態なのだ。そして図も地も<より明るく(モア・ブライト)>、<より暗く(モア・ダーク)>が同時に描かれ、ともに垂直に溶解し始める。

館勝生 たち・かつお
1964年三重県生まれ。1987年大阪芸術大学芸術学部美術科卒業。88年「臨界芸術ー88年の位相」展、92年「葦あとの誘惑ーモネ、栖鳳から現代まで」展、94年「VOCA展’94」「絵画の構造ー試行する色彩」展に出品。85・87〜96年ギャラリー白、93年細見画廊で個展ほか。

(※略歴は1993年当時 館勝生さんは2009年にお亡くなりになりました。享年44歳。謹んでご冥福をお祈りします)http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28441.html