伊藤誠「情念の機械装置」

撮影:小松信夫


1994年4月12日~5月7日


情念の機械装置

高島直之

ふだん、わたしたちが住んでいる家やアパートの一室の中で眼にするもの。たとえば、電話、灰皿、コーヒーカップ、一冊の本、時計、ラジカセ、ボールペン・・・・・・などなどが、そこら中に置いてあるだろう。いつも身近にあるものに対して、あまり注意を払わない。つまり、それらの機能も形態もよくわかっているために、とりたてて認識の対象とみなしてないからだ。つねに、深い関係をもっており、無意識に愛着を感じているものについて、あまり凝視したりはしない。つまり、見ていない。
だけれども、この小さな物たち以外に、どんな<大きな>物を、日常見ているだろうか。家並み、高層ビル、鉄道の架線など、それらはなるほど大きな物に違いない。しかし、わたしたちは、それを単体として<大きな>物である、といちいち認識しているわけではない。それは、外観や配列を眺めているにすぎず、高層ビルの真上や内部を知らないし、ましてや重量がどれほどあるのかなど、知るよしもない。結局、いずれもボーッと見ているだけで、形も質も、そして量も<見ていない>のである。それは<不在の空間>に立ち会っている、といいかえられる。
彫刻や立体作品が作られ、それを見る機会がある。わたしたちは、それをひとまず凝視するだろう。それが抽象的であればあるほど、はっきりいって、何なのかよくわからない。それはしばしば具象的な作品に対して、何かに似ているがため<わかる>とされるが、それが、視覚そのものによって理解されているというよりも、経験認識によって、外観が確認された程度にすぎない場合が多い。
伊藤誠の、幾何学的で抽象的な、複雑な構造をもつ立体作品。伊藤の仕事は、作品の制作手法に、実際的な原則をシステムとして内在していないので、形態・構造を図版なしで説明することは非常に難しい。その物理的な基本構造は言い当てられるが、全体を形容する言葉は、それを発した途端に座りの悪い、満たされない表現になってしまう。
この事態の招来は、実は伊藤の作品の本質に関わる。たとえば、ボールペンのペン先ではないほうの頭を平面的に見るとき。電話の受話器をタテ割りにしたとき。あるいは、コーヒーカップを、把っ手を付けたまま真横に切断したとき。それぞれの形象を思い浮かべたときに、わたしたちはそれを何と言語で言い表わせるだろうか。部分的に円弧といい、また、ゆるいカーブはR(アール)などと言ってみたりするが、はたしてそれは正当な表現たりうるか。
いうまでもなく、ノーである。その表現の困難さは、わたしたちの眼が、すでに見知った物の形姿に合わせて、理解しようとする性向をもっているからである。つまり、切断面はもはやボールペンでも受話器でも、カップでもないのであって、その断面画像から、それらの原型を推しはかることができるにせよ、何かイメージを全面化できない、不満が残ってしまう。これは、全的に形や構造を捉え、確としたイメージとしたいのだが、どうしても<見えない>、<わからない>、ところの<不在の空間>がある証拠だといえよう。
伊藤誠は、むろんこういった、具体的な物の世界像だけを前提にしているわけではない。既存の彫刻史の、あるいは同時代の、抽象立体の作品群も前提としているかもしれない。つまり、その既成の立体をイメージモデルとし、そこでもまた、そこに生じる<不在の空間>を、具現化させようとしているのではないか。
伊藤誠は、作家として出発するときから、このような意識を保持していたと思う。その<不在>性の具体化は、世界のある欠落した空洞を浮き彫りにすることではなく、むしろ、その欠落した穴を<埋める>そういった意志に支えられている。一方、この原理的意図とは別に、ボールペンやコーヒーカップにみるような、親密な物たちへの情を、伊藤の作品に感じる。物体の細部への<恋着>をあわせもち、形態を無限に生産していくような、装置化したその伊藤の手つきは、この時代において貴重だといわねばならない。