山本糾「視線の権利」

撮影:山本糾


1994年11月22日~1月17日


視線の権利
高島直之

タイトル<視線の権利>は、現代フランスの哲学者が、あるテクストの中で写真メディアの、その多義性に対して与えた言葉である。それをそっくり盗用した。
ここではそれを写真家・山本糾その人の<視線>、あるいは<権利>に限定せず、より写真の一般的なあり方を指すことにした。そこでは、提出された一枚の写真のイメージとは、いったい誰に所有権があるのか。いかにも覗き込まれたような、フレーミングされたイメージはどこに帰着するのか。
たとえば、絵画。キャンヴァスに基底材や絵具、メディウムが塗り重ねられ、また削られ拭きとられながらイリュージョンが立ち現われてくる。そのあたかも純粋無垢にもみえる個の<起源>の発露は、イメージの所有関係の回路を浮き彫りにする。それこそが、絵画の近代を形づくってきた。しかし写真とは、そういった作者の固有性を限りなく排除し、そこに注ぎ込まれる視線はつねに第三者のものでしかあり得ない。ひるがえって、視線の権利は、一枚の写真に映った[その](※[]内、原文強調点あり。以下同様)場に帰属することになるだろう。山本糾の’89年以降の「落下する水」、そして’93年からの「暗い水」の、各シリーズに写っているのは、いうまでもなく、滝と沼(水溜まり)である。いずれも、森林や山頂に近い山岳地帯をロケーションにしている。山本糾はいう。「山に登るという肉体的な苦痛をともなう行為と、写真に対する欲望を対峙させることで、写真を撮るという意味が明確になるのだろうか」と自問しつつ、そのモティーフを明らかにしている。
「落下する水」シリーズにおいては、この不定形でありつつ、無限に伸びる液体の、膨らみや硬さ―襞が絡み合うような生々しさに鉱物の凍ったような表情をもそなえた、非生物の<生命性>を読み取ろうとしている。「暗い水」シリーズでは、たたえられた水が岩石に吸い込まれそうにみえながら、海面のように頑なに光を呼び込まんとする、その瞬間の<神秘>をひきずりだしている。これは、山本のいう<肉体的苦痛>を代償として、滝や水の変幻に対し、もうひとつの時間を与えようとするものだ。つまり、水が水でしかないその限度を超えない範囲で、ギリギリにとどまって欲しいという、要請であるに違いない。

この奥深い山々の、とりたてて名もない場=土地。そのイメージの固有性や起源は、その土地にしかない。[その]場の視線の権利に対し、カメラの絞りや露光時間を侵入させ、かつ撮影時間のズレを挿入することで、[そこ]の固有の悠久の時間を切断する。それは[そこ]で取り結ばれている諸関係の破棄を要求するとともに、写真家に、またその写真を見る者に、見ることの権利を専有させることである。
山本のいう<写真に対する欲望>とは、瞬時ではあるけれど、その刹那でしか写真が写真として成立し得ないことの公理を差していると思う。写真はそいうった、発生してはとたんに消え去るメディアであり、写真家はそこでとどまることを呼びかけ督促する義務、いや権利を唯一もっている。そのような、つかの間の権利を行使せんと、山本は滝を選び、水溜まりに眼を向けた。しかも、撮影のチャンスを、時々刻々気候が変わる山岳地にもち込み、かつ時季の変化の中でも<呼びかけ>に反応するであろう時間をねらってシャッターをおろした。

山本糾は、モノクロによる発表を続けている。それは<時間>という制約を知り抜いての行為である。白と黒の極のあいだで、反転し露光し、かつ焼きつけられる、その直接の時間感覚がこの手法できわだたせられている。その白(光)と黒(闇)との中ぐらいの次元において、水や空気が、そして物質たちが震え、ぬきだしになっている。
空間の匂いやざわめきを共生させ、大地はそこで皮膚のように呼吸をし、水は大気と混り合い、そして純粋な鏡に変貌していく。光と闇がリズミカルに溶け合って、断片として切られた風景は、その破片がひとつの器に集合するように組み合わされていくだろう。そのようにして見ることの欲望が生長していくこと、を山本の仕事は暗示している。