吉田哲也「空間の総和と余剰」



1995年5月16日~6月10日



空間の総和と余剰

高島直之

まず、展覧会のタイトル「空間の総和と余剰」について考えを述べておきたい。ふつう美術をめぐって<空間>という場合、現実の物理的空間を指すのではなく、自由な想念による抽象的な”虚”の空間を想定する。いうまでもなくわたしたちの身の回りを限定づける実体的な空間は、あらゆる意味で生産物といえるし、言葉を換えれば、商品化された事物であり、その集合である。そのような生産物としての空間に日常生活はおおわれている。アーティスト一般の思考にとって、そういった”実”の空間とは違ったもうひとつの空間概念を示す役割が課せられている。しかし、日常の生産物に規定される身体の身振りによって、想像力は極度にせばめられる。つまりは、個体独自の想像力と信じていたものが、商品化された都市空間の生みだした”想像力”にすぎなかったりするのだ。
それではそこで、アーティストの可能性として何が保証されるのだろうか。それは、アーティストの超越的な暴力的ともいえる眼差しの欲求だけであるだろう。つまり、慣れっこになっていない、異常な視線を日常空間に投げかけ、現実感を疑う混沌とした反応を、作品に対象化することである。それを<もうひとつの空間>と名指すことができるが、言い換えれば実と虚の空間のズレを示し、人びとの心に衝撃を与えることといえる。それを人は「美しい」というのかもしれない。
「空間の総和と余剰」とは、そういった日常の都市空間における、さまざまな矛盾を意味するとともに、アーティスト自身の体全体、生命全体の反応が呼び起こす想像力のことでもある。なぜなら、それらをはっきりと切り離すことはできないからである。
吉田哲也の仕事が広がりをもって、わたしたちの視野に入ってきたのは、トタン板をハンダで溶接し、箱型を思わせる立体構成を試し始めてからである。かつては、鉄板によるプライマリーなストラクチュアを制作していた。吉田にとっての模索期だったと思うが、そこでは鉄板独特の重量感のあるテクスチュアが、密度のある納まりとともに、全体の空気を静止させていた。それはそれで質の高さを保っていたが、吉田のオリジナリティは、トタン板の滑らかな表面と構造の簡素さを融合することで、さらに深められた。これは一言でいうと、空間の<軽さ・軽み>を印象づけるものだった。
それは、事実上の物理的な重量というよりも<重力>、あるいは<引力>に関わるものである。つまり、トタン板の軽やかな物質性とそのイメージにおいて、その物体は上昇したり下降したりの自在な運動性を指し示している。それらは、見る者が見上げたり、見下げたりできることで、高さや低さ双方を含め、物が空間に立ち上がる状態を暗示し続ける。トタン板のゆがんだ表面の複雑な反射によって、見る者の距離感を幻惑しつつ、空間の不安定さと、空間の限定性とが、矛盾したまま提示されていた。その新たな境域をさらに一歩進めていったのが、93年以降の現在に至るシリーズである。それらは、両手でもつことのできる程度の大きさになっていった。93年の針金による同一形態の反復、94年にはトタン板を使用した小さな構造体が複数で発表された。単純に考えるとギャラリー空間を丸ごとひとつのものとみなさず、アーティストにとっての”虚”の空間はそこここに遍在している、という意識に移行していった。
そこでの限定は、眼と手先の長さ、その距離に裏付けられているはずだ。むろん、そのスケールのみ集約されているわけではないが、まず、眼が凝視し得る焦点の深さと関係がある。この点に限れば、絵画一般が保持する距離と近似する。しかし、吉田の仕事は絵画ではない。なぜなら、その立体そのものに実態的な距離が備えられており、絵画の平面イリュージョンとは比較にならない。見る者の視線は実際のその線を、面を追いかけなめ回すことができるからだ。それらは同一平面にはなく。複合化した終わりなき線と面の構成体となり、<距離>感を喪失し、もうひとつの自律した空間を創出する。そこで、物を見て知る能力は、行動する眼にとって替わる。吉田の仕事は、そのような美的経験の始まりを強く感じさせるものになっている。