坂口寛敏「幻影の器」


1995年6月20日~7月15日


幻影の器

高島直之

坂口寛敏という作家は、この時代においてきわめて特異な位置にある。なぜかといえば、絵画にせよ、立体作品にせよ、それを生み出さんとする表現者たちは、キャンヴァスの平面―表面性や、物体の物質性を自明のものとして扱う。つまり、それがそれでしかないという自明性から、作品行為は始まる。
それはまさにリテラルな、同義反復というべき基本条件であり、そこから作家独自のイリュージョンが生み出される。この同義反復は、言葉を換えれば、鏡に向かって映し出される作家本人の”顔”との対峙ともいえよう。いわば自分と自分との、融通のきかない絶対的な関係性にある。そこに、この時代が突き当たった浅からぬ問題がある。坂口の仕事が”特異”であるのは、そういった絶対的な関係性を中心に置いていないからである。それは、彼の選択する表現の素材が多様だからではない。またときにエコロジカルな発想が、その作品に垣間見えるからでもない。坂口が表現においてこだわる地点とは、さまざまなイリュージョンを生成させる際の想像世界のあり方である。美術表現がひとつの発話行為であるとすれば、発話主体が滑らかに相互交流し得る、その緩やかな大きな関係性にこそ、坂口表現の核がある。
坂口のここ数年間の仕事を見てきての正直な印象は、こちら側からの言葉によって、その仕事の全体を語りたくない、ということである。それは、よくいわれるような、そのひとつの作品について、語りつくすことができないので、その作業を断念する、という紋切り型を指しているのではない。むしろ、いくらでも語りたくなるような衝動は、少なからず、ある。しかしそれでもなお、言葉を飲み込んでただ黙ってその仕事の流れに身をまかせてしまいたい、という衝動のほうがまさってしまう。
坂口は、本展の開催にあたって、短い文章を寄せているが、その結語はこうである。≪私は、何も無い状態からの最初の発生や、何かが生まれ出ることのできる状態に強い興味をもっている。無から有へ、そして再び無へと循環する中に自己をつなげていく行為が、創造に関わることだろうと考えている≫。
あるイメージが生まれ、そこにもうひとつのイメージが重なって発生し、それが繰り返されるうちに、いつの間にか”無”に戻る、というサイクルに、表現の起点を見出している。つまり、アーティストは、ひとつのイメージを”生産”し、それを鑑賞システムという社会的装置にあずけてしまうのが通例だ。しかし、坂口は、再度それを”自己”に返還し、それらを反芻しながら、つぎの作品につなげていくのである。つまり、この反芻作用のサイクルに、坂口の創造の秘密がある。
だが、やはりこういった説明だけでは哲学的にすぎるので、具体例を出そう。坂口がふだん敬愛している画家のひとりM・C・エッシャーの作品に「三つの世界」というのがある。これはタイトル通り三つの要素から成り立つ作品で、森に池が描かれた図。一つは水面に落ちてきた木の葉があり、二つめは、水面に映る遠景の三本の木がある。そして三つめに前景の水面下に見える魚がいる、というもの。水の鏡映像を示しているわけだが、落ち葉は具体的な水面を暗示し、三本の木は写影像を、魚は水面下を指示している。これらは、ひとつの画面に、物質的表面と影像、そして水中の層を表示し、さらに水の底の深みすら付け加えている。坂口の、必ずしも、ある形や物質性を表したいわけではない、という意図は、<絵画的イリュージョンが発生する空間の深さの中の位置>という、彼自身の言葉につきる。つまり、このエッシャーの作品にみるような、質の違った”深さ”のその位置関係を統合して表現しようとしているのである。
エッシャーの場合、それを脳とその視覚機能に限定しているが、坂口は、野外の自然を利用したインスタレーションや、焼土と化した河川の枯草をキャンヴァスに押しつけ”絵画”作品に転化させたりして、物質の存在に依拠し表わす。今回発表の仕事も、バーナーの焦げ目や綿布、そして基底材の、それぞれの層と位置がイリュージョンとして提示されている。それは”絵画”と”ドゥローイング”という、形式的あり方の入れ子ともなり、これもまた、絵画的イリュージョンに吸収されていく。
層的区分け、その総合と循環の”幻影”の往来を保証していくのは、坂口寛敏という作家の起源(オリジン)であり、それは幻影を支えるひとつの”器”と考えられよう。