松浦寿夫「筆触と視像」

撮影:小松信夫


1995年11月21日~12月16日


筆触と視像

高島直之

松浦寿夫の絵画は、その表われにおいて、すべてが率直な表現になっている。まずそれは、キャンヴァスに光を呼び込もうとする態度において。そして、絵画とは、絵の具が付着した、筆触の連なりにすぎないことを想起させることにおいて。また、それらは、平面上で起きる、ひとつの事象にすぎないことを、覚醒せしめることにおいて、である。
松浦によって、そこに定着される対象は、かならずしも具体的な形象ではない。が、まず空気、そして光を物質として把捉し、物質としての絵の具によって、同じくそのキャンヴァスに、なにものかが描き出される。表われ方の特徴として、すぐ感知できるのは、中間的な色彩の、浮遊するような非定着の、ありようである。色の、色相分化は波長の長さの違いでしかなく、これもまた物理的現象である。純色の「赤」のような波長の長い、眼に飛び込んでくるような色の扱いは、最大限に抑えられている。その全体の色調は、P・ボナールを思わす。ボナールは、身辺の生活情景を描いたことで、アンティミストと呼ばれたが、松浦の場合、語源のアンティミテ、「親密」であることの意を汲んだ、<親和性>を色彩によって、絵画空間に実現しているように感じられる。色の、光線の、配分によってである。
だが、松浦の、基本的な問題意識はボナールに尽きるものではない。空間の構造的把握は、P・セザンヌにあるだろう。山も、樹木も、そして人物も、空気も、光も、あらゆるものが、物質で構成されていること。また、それらに示唆を受け、絵画をものする行為自体が物質に裏づけられていること。そこで唯一発動し得るものとは、当の画家の想像力であり、世界を見通す能力であるに違いない。その画家が画面を通じて、どのようなヴィジョンをどこまで遠くに投げかけていけるか、の、自らの視像定立の問題である。それは、限定された空間での全体性と、筆触の、分散化したありようを、いかに折り合わすことができるか、という課題である。
画家の目的とは、まず色と形によるコンポジションの達成にある。松浦は、上記の物質感を背後に置きつつ、画家の具体的な可能性としては<筆触>にあるということを強く意識する。画家が為しうる、全き原点としてあり、それは、ある種のモナド(単子)といえる。このモナドは、自然一般を構成する物質にも、物理的に存在している。ふたつのモナドには、質的な違いがあるが、これらを重ね合わせようとする、飽くなき欲望が、松浦の絵画生成の契機になっている。もちろんのこと、それは実現不能の、想念でしかないかも知れない。がむしろ、そのふたつをつなぐものが、画家の想像力であり、そういった、広い意味でのモナド的物質観があり、松浦の大きなテーマとなっている。平面と絵画空間との、サイズとタッチとの、そして空間の部分と総和との、飽和と不飽和を不断に問い続けるのだ。
さらに、実際の絵画の組み立てにおいては、松浦が、この間の作品タイトルに使用している、<庭園><庭>というキーワードが重要である。それはあくまで、コンポジションを作るための口実にすぎない。庭園とは、絵のような組み立てになっており、かつ、すべてが<自然>に見える場所であるからだ。たぶん、このキーワードの価値は、それ以上でもそれ以下でもないはずだ。言葉を換えれば絵画の生成のテキストとしてある。

その表われの具体性として、オールオーヴァーの意識と、それに相反する、余白の存在との微妙なバランスがある。任意の小さな矩形のフレームをいずれかの作品の画面上にすべらせ、任意に停止させると、そこで切り取られた空間が、独立したコンポジションとして立ち現われる。そこでは、<筆触>と世界の見方(ヴィジョン)との、親和の瞬間に立ち会うことができる。
これら、暖かい淡い色味の響き合いは、雲のような曖昧な表情に見えるが、離れてみると、パリパリした空気が流れ、引き締まっている。そこには、充溢した<自然>が、確実にある。