是枝開「光という実在」



1996年1月9日~2月3日


光という実在

高島直之

現代の抽象画家たちが、その作家にとって喫緊の「主題」をたぐりよせ、それと合致しうるマティエールに到達することは容易なことではないだろう。抽象主義絵画の困難は、この20世紀に、どの時代においても、そのアポリアが繰り返し指摘されてきた。それは、対象それ自体が形象を持たずに、曖昧で、限界のない「空間」と相対しているからである。限界がないということは、無限にも広がるが、限りなく小さなものも含まれるはずである。それは、しばしば物理的自然観を超えて、空想と抑圧の入り交じった精神状態へと、その画家を導くかもしれない。
誤解を恐れずに言えば、このような心理は「不安」と「彷徨」を招いて、宗教的な価値に近接しがちである。つまり、不確かなものと対峙するとき、人は、その人自身と向き合って、孤立する。また、空間が、必ずしも理性によって制御し得ないものであることに気づいたとき、人は、人生を不条理と思うかもしれない。あるいは空間の、多様性に富むありように対して、一挙に「永遠」を願望化するかもしれない。いずれにせよ、宗教的体験も、画家の空間への想像力もまた、物理的空間と心理的空間との境界線上で、特異な体験を強いられることで、ひとつの「信仰」というものが生まれ出る。
それらの「不安」は、存在の意味そのものへの問い、という点で同じくするのであり、空間の存在が所与の、固定されたもの、と捉える限りは「抑圧」として機能する。しかし、決して与えられるものではなく、それらの空間を生み出し、作る主体が当の人間であり、それを存在の証しとするならば、画家は宗教的な手続きを踏む必要はない。なぜなら画家は、絵筆とキャンヴァスとが触れ合って可能となる、比するものなき固有の活動を遂行する特権的存在であるからである。「筆触」によって「形」そして「空間」を生み出すという、この活動とは、始まりも終わりもない「生」の現象である。
是枝開もまた、光という、判明な現象と向き合いつつ、絵画表現の何ものかを問い続ける作家である。この数年のあいだ、キャンヴァスに絵の具を使用して「画家」としての立場を堅持しているが、初期は、木材や金属板などによって、立体作品を発表していた。とくにブリキ材を使用した構造性の強い仕事は、ブリキ板の表面が、光を反射・吸収するのだが、それぞれ中くらいの効率をもっているため、複雑な構造にもかかわらず、丸く浮遊するような独特の空間を醸し出していた。これらの作品に注目した、小説家の島田雅彦が、90年と92年の2度、島田作・演出の舞台の装置を、是枝に依頼している。前者『ユラリウム』では、ドーナツ状に循環する階段を、後者『ルナ』では、螺旋の大きな構造体を芝居全体のシンボルとした。これらは、ギャラリーから演劇の舞台へ、といった単純な発展形態としてあるのではなく、「光」をとらまえるための実践的モデルとしてあり続けている。その立体を規定する諸条件の違いと作用の変化。あるいは、立体から平面に落とし込む際の、分節化と往還性のありか、そして、その逆の場合はどうなるのか、といった大きな課題の下に置かれている。

今回発表のタブローは、かつての立体作品を参照し、ほぼ同じものをスケールを違えて再制作してから、それを写真撮影し、これをモデルに描き出したものである。二次元と三次元との往還、そこで接続するものと、切断されるものとのスリリングな亀裂。これは是枝が敬愛する、彫刻家D.スミスの反復運動から生まれる創造性と近しいものがある。また、描き出す対象と、その空間を限定していることについては、「目に見えるものほど、抽象的なものはない」と言い放った、G.モランディの「静物画」を思い出すに違いない。それは、見ることとは、光を媒介とした「映す」「移す」行為だということである。
是枝は、二次元と三次元との往還運動を繰り返して「光という実在」を確認し、それを描くことの喜びに転ずる。これは、光に向かって存在を問う、「生」の営みだと言っていい。