中村功「絵画の組織と感情」

1996年3月5日~3月30日


絵画の組織と感情

高島直之


 絵画における組織と感情。「組織」という言葉は、絵画生成の次元に馴染みにくいものだろう。ふつう「組織」は、オーガナイゼーションと訳すが、ここには「くみたて」との謂があるので、コンストラクションとするほうがより絵画形成の本質に触れる。しかしまた、生物学的に「組織」は、ほぼ同形態の働きを同じくする細胞が集まって、器官を組み立てることである。そして「器官」は、生物体の一部であり、特定の生理機能をもち、形態的に独立したものを指すのだという。

この生物学的な興味から「組織」という単語を思い浮かべた。なぜなのか。中村功の仕事は、総じて上記のような、「ほぼ同形態」の有機的な働きを有する構成要素によって全面に埋めつくされているような印象がある。また、今回発表された作品はそうではないが、この十数年のあいだ、キャンヴァスに和紙を貼り、そこに偶然でき上がる痕跡のようなフォルムに示唆を受け、絵画制作の動機としてきた。なるべく主観性を排して、手の動きに沿いオートマティスムとして、それは貼付されるという。
そういった方法にありがちな、おざなりの紙の貼り方でないことは、中村のアトリエを訪問して初めてわかった。それはキャンヴァスと溶け合うように、薄い膜のように密着したもので、面積が同程度の、任意に切り取られた紙片を画面に置き、それらが寄り合って中心を生み出さないような配慮と、均質化した白い透明感のある表情を持っていた。またそれらは、縁の部分が微妙に重なり、リズム感のある有機的な形態が浮かび上がっている。これはこれだけで充分に美しいのだが、中村は、重なりの偶発的な形象に従い、絵筆を乗せていく。それらは、のちに原形を崩しつつ全体の画面に吸収されるのである。とりわけ、溶剤をたっぷり含んだ絵具とその筆致、層化した厚み、そのしたたりが体液(リンパ液)のように見え、皮膚組織を思い起こさせる。筆そのものの、形態を成そうとする意欲。さらに、色の明度と彩度とが拮抗し、混じり合い、それが画面の組織の隙間を満たしていくかのようである。この感覚は、まず、接近して眼で舐めまわすと得ることができるし、そのときの感情の高ぶりを誰もが体験できるはずである。
ところで先に記したように、この展覧会では前述のような和紙を使用してはいない。これは、中村自身の心境の変化というべきだが、このところ、紙が物質であり、ひとつの異質なメディアにすぎないとすれば、つまりそれが写真映像であっても一向に構わないことに気づき、実際、写真をネコ・プリントで転写し、そのうえに絵筆を乗せたこともある。しかしさらに今回は、幾何的な、線の交差による単純な構造をとった。基底の有機的形象を必要とせずに、その対象を選ばない地点に行き着いた。
しかも、かつてのような有機的な形全体を統制するために塗られた、くすんだような色調がなくなり、明度のみならず、彩度がはるかに高くなっている。このことは<組織と感情>の発揚の契機をはっきり打ち出すこととなった。そして、照明の光をさらに透過吸収し、深奥と広がりの度合いを深め、表面そのものが「生理機能」を担い、ひとつの器官として組み立てられているようにみえる。その点では、感情の高ぶりを増長させるのみならず、培養装置化しているといってもよい。中村は、作品タイトルに「意勢」という言葉を使っているが、この質料から形相(フォルム)へと変容させんばかりの力は、この展覧でさらにはっきりしたと思う。
いうまでもなく、中村の仕事はアクション・ペインティングではない。その抑制された外在的な要因の導入は、抑制的であるがゆえに、視覚と身体の照応関係を見る物に問いかける。たとえば、かつてフランスの哲学者が、セザンヌの「絵における思考」を「視覚が身振りになる」過程としたとき、身体の動きと知覚との前後関係は識別できず、互いに浸透し合っていると断じた。中村は、この、視覚が身振りになる底深いプロセスにおいて、物質としての絵画ではなく、また幻影としての絵画でもなく、その曖昧な中間地帯に<絵画>を措定したいと言っている。このことは、身体や身振りを超越論的に選択しないことにおいて、非―場所の絵画を追求する、現代性を担っているとえよう。