赤崎みま「閉じた眼」


1996年6月25日~7月20日


閉じた眼


倉林靖

最近赤崎さんから送られてきた作品の写真を見て、私はとっさにルドンの作品のことを思い出した。たまたまその前日、調べごとがあってルドンの小さな画集をパラパラと眺めていたからだ。夢見るような色彩によってルドンがパステルで描いた、花や貝殻や、何とは名状しがたい不思議な想像物。彼女の作品はなんとそれらの世界に似ていたことか。
モネと同じ年に生まれたルドンは、モネや他の印象主義者たちが徹底的に<見えること>の意味を追求していったことに対抗して、むしろ徹底的に見えない現実を描くことに固執した。外界に反響する内的世界の旋律を聴くことこそ芸術家の使命であり、それが果たされなければ芸術の意味はない。ルドンの創作衝動はおよそこんな決意の上に成り立っていたであろう。赤崎みまの作品もまた、見える世界ではなく、内界に響くさまざまな韻律を形象化したものであるかのように見える。ときには純粋で清らかな世界を映し出しているようにも見えるし、ときにはドロドロした暗い衝動が吐き出されているようにも見えてくる。しかし何であれ彼女がこれらの作品に<生命>の本質のある種の在り方を見ていることは、どうも確かなようである。
だがここにひとつの逆説がある。赤崎の作品は写真という装置によって成立しているということである。<写真>という装置こそは、透視図法の発見からカメラ・オブスキュラの発明を経て、近代科学の勝利によって誕生するに至った、もっとも<明晰に見る>ための装置だったのではあるまいか。ただし写真はその誕生以来、すぐさま見えることと見えないことの矛盾を露呈しはじめるのである。一方では写真表現のなかに内面的な表現の可能性が探求されることになったし、他方では、写真の明晰な<機械の眼>が、人間が通常見るもの以上のことを見てしまうという逆説的な在り方が認識されることになったのである。
このようにして赤崎の作品は、写真という表現領域が抱える矛盾した二つの面―外界を見ることと内面を表現すること、あるいは、見ることの可能性と見ないことの可能性―を、丸抱えに抱えたまま投げ出すに至るのだ。このことは、光という存在に関連している。光とは何か。ものが、光が存在するからこそ可視的になるということはもちろんだが、しかしあまりに充溢した光の存在は視覚の可能性そのものを奪うことになる。眩い光のなかで見ることの可能性が奪われるとき、そのときこそ実はわれわれは別ななにものかを見る可能性をもつのかもしれない。こうして、彼女の作品は、両義的な領域にあるからこそ、われわれをその前に立ち尽くさせ、思索させ、魅惑するのだというべきであろうか。

赤崎の作品は、複雑な操作が行なわれているわけではなく、基本的には単純なドキュメントのかたちをとっている。これも写真という表現の属性に照らし合わせて考えるとたいへんおもしろい問題である。彼女の作品は、時間を超越したものであるようにも見えるし、<見ること>と<写真>の歴史が交錯し、あるいは原点に回帰する、そういった時間軸のなかで成立しているもののようにも思えてくる。これもその魅力のひとつの理由であろう。
ところでこの展覧会タイトルの「閉じた眼」というのは、直接的には武満徹の曲のタイトルからの引用である。武満はルドンの同題のリトグラフから想を得て、「閉じた眼」という二つのピアノ曲を書き、また「ヴィジョンズ」という管弦楽曲の二つの楽章のうちのひとつにこのタイトルを与えている。赤崎の作品写真を見ていたとき、ルドンからの印象と同時に私にはこのタイトルが瞬時に思い浮かんだのだった。武満徹も<見ないこと>の重要さをつとに強調していた芸術家だった。彼は書いている。≪人間の内触覚的な宇宙は、肉体と精神を通じて世界につらなる。眼を閉じることで感覚の欺きがちな働きかけから身を翻し、自己をただちに<世界>へ投射することが、芸術の本質的な行為だと思う。眼を閉じることは、内部へ向かって眼を瞠くことだ。自己の坑道から掘起し手にするものが、芸術の現実性というものだ・・・・・・≫。
それと同時に、私はこのタイトルでつぎのような光景も思い浮かべた。赤崎は写真に撮られるとき、思わず眼を閉じてしまう癖があるらしい。彼女の姿を撮った写真には目をつぶった姿のものが多いのである。