松原健「透過・凝結・反射」

1997年1月14日~2月8日


透過・凝結・反射
倉林靖

私が松原健の作品に初めて出会ったのは、福井のアート・サイト・ギャラリーから送られてきたパンフレットを開いたときであったか、それとも東京の細見画廊で作品を実見したときであったか。前者の会期は1993年の9月29日から11月8日までとなっており、後者の会期は同年の9月8日から10月5日までとなっている。たぶん後者のほうが先なのであろうが、前者のパンフレットに出ていた『Vertical and Horizontal』と題されたシリーズの強烈な印象も忘れがたい。それはさまざまな幾何学的オブジェが浮遊ないし直立している様子を写した、しかもヨーロッパ古典絵画の静物画の雰囲気を合わせ持った、写真によるアート作品であった。バーバラ・キャスティンのコンストラクテッド・フォトの流れにあるもの、と言ってしまえば話は手っ取り早くなりすぎてしまうが、私はむしろ作品がとっているかたちにではなく、作品の全体が醸し出してくる、一種の硬く張り詰めた、松原独自の静謐な空気に打たれていたのだと言ったほうがいいかもしれない。むろんそれ以前からの松原のパンフレットに寄稿している評者たちも皆、一様にかたちよりも空気に引かれているようなので、これは私の個人的な感想だけではなく、松原の作品が人に与える印象の共通項だと考えて間違いないだろう。
最近(1996年)、東京都現代美術館の常設展を歩いていたら、偶然にもこの『Vertical and Horizontal』の作品のひとつが展示されているのにぶつかった。以前の印象が、実物を前にいっそう増幅されて、あざやかに蘇ってきた。この出会いから、93年以降さまざまな事情から作品発表を行なっていなかった松原に個展を依頼することになった。その後、松原から展示内容について、写真作品ではなくオブジェを展示したいという申し出があったが、これは私は一瞬、意外に思ったものである。こちらの頭に、松原健は写真作家であるというような先入観が固くでき上がってしまっていたからだろう。だが考えてみれば、松原の作品は上述したように、その形態よりはむしろ空気のほうに強い印象があったのだ。とすれば、その空気は、どんな形式をとったとしてもつねに本質が変わらないものとして提示されうるだろう。写真の展示がオブジェそのものの展示に移行しても、いっこうに構わないわけである。
松原は家の仕事の関係で、子どものときにはガラス瓶などの医療器具を身近にみる環境に育ったという。壊れた体温計からこぼれた、丸い粒となった水銀を手の平でころがしてみるという遊びを時々やっていたらしい。その頃から、液体が凝結して固体になったり蒸発して気体になったりして変化することのおもしろさ、あるいはガラスの瓶が透明であったり光を反射したりすることのおもしろさを感じていたのだろう。写真による作品においても、彼は錯視的な表現―あるはずのないものがあるように見えたり、ものが切断され、ずれて立って見えたり、何の支えもないのに直立して見えるというようなこと―を実践していた。それでいて写真表現としては合成などの仕掛けは一切なく、存在しているものをそのままに撮影した、という態度を貫いていたわけだ。そうすると、単に気になるオブジェを並べて撮影しただけの作品でも、オブジェたちは確固として存在するものではなく、あたかも消えたり現われたりして、可視の世界と不可視の世界を自在に出入りしているもののように見えてくるのである。結局、松原もまた、見えるものと見えないもの、存在するものと非在のものをめぐる根源的な思考を行なう、芸術家たちの一人であったのだ。
今回の展示では、ガラスと液体、光の透過と反射をめぐるオブジェを提示することによって、写真による表現のときよりもいっそう、彼の根源的な思考の在りかが露になってくるに違いない。おもしろいことに、アート・サイトのパンフレットの作者への質問に対する答えのなかで彼は、子どものとき、医者への通り道にある一本の木に開いた穴に、一日に一個ずつ石を入れていくという秘密の儀式を行なっていたという話を披露しており、また美術家であることの喜びを質問されて「作品を作ることによって自分が救済されていくのを感じること」と答えている。これは松原が、物質をめぐる思考によって精神を救済するという、錬金術師の由緒正しい系譜にあることを示すもので、また現在にアーティストたるもっとも根本的な条件を持っていることも示すものだ。このような作家と作品に巡り会えたことは、私たちにとってこのうえない僥倖である。