棚田康司「ゆっくりと、肯定へ」

撮影:小松信夫


1997年5月20日~6月14日


ゆっくりと、肯定へ


倉林靖

 昨年(1996年)の愛宕山画廊での棚田康司の個展パンフレットに私は文章を寄せたが、そのとき出品されていた「Yes」という作品がことのほか印象に残っている。空を飛ぶような形で水平にされた人体像はぴんと真っすぐに伸ばされ、頭部は擡げられて前を向いている。顔は笑みを浮かべており、前方に差しのべられた手の平は上を向いている。シンプルでストレートなタイトルとあいまって、この作品の肯定的な力には強く印象づけられた。
 現在の表現動向、とくにアートのそれを見わたしてみると、否定形によって語るものがことさら多いように思えてくる。現代の文化を批判的に糾弾するもの、あるいはアートという概念の枠組みを戦略的にずらそうとするもの。なるほど、安易で楽天的な世界観はなにものにも寄与しない。けれども今日の表現はあまりにも否定のための否定に走っていないか。ひたすら現状を否定するだけで、そのつぎに来るべきヴィジョンを何も持っていないのではあるまいか。もともと真に肯定的であるということは、その底に否定を含み、ないしは否定を通過しそれを止揚して肯定に達しているはずだ。また「アート」の形式に則った表現は、一度は形式の否定を通過し、その無根拠性、無底性のうちから出現するべきものではあるまいか。ポーズとしての<否定のための否定>はなにものをも生み出しはしないし、今日においてはむしろ何かを否定するほうが安易であり、何かを肯定するほうがはるかに困難である。だがいうまでもなく私たちはその困難のほうを選ばなければならないのだ。
 棚田の作品「Yes」を見たときに強い印象を受けたのは、そこにこの肯定性が決然と表現されていたからであった。彼の作品にはさまざまな肯定性が含まれている。具象的な主題を選んでいること。それが「人間」という主題であること。さらにそのモティーフが、彼の家族であること。
 むろん、真の肯定はその底に否定性を含みそれを通過してきているというさきほどの言は、棚田の作品においてもまた真実なのであって、ある種の彼の作品はむしろ、現在の人間存在の危機性の表現であるとさえいえるほどである。たとえば、よく見られる、ペニスを誇張した作品、あるいはその延長としての「三本足」の形態をもった作品。それらは「性」の軛にしばられ,あるいはもっと広義の意味でいえば身体性や社会性の限界にしばられて身動きのとれなくなった人間存在の表現である(「三本足」は歩行を困難にする)。また、紐で錘に結びつけられた人体、手足がなく吊り下げられた人体の作品もこうした実存を表現したものといえそうである。
 今回のギャラリーαMにおける展示は、母と子、父の三者の像によって構成されるものである。一見するとキリスト教などの宗教画的に見えなくもないし、あるいは家族という組血縁というアジア的な全体性に回帰し安住しようとする心性を表わしていると思えるかもしれない。だが棚田はやはり、旧来の家族観が崩壊した後の現代に育った世代の一人であり、たとえ家族というものをもう一度見直し、建設し直そうという動機がそこにあるとしても、そこで捉え直された家族は、従来のただ楽天的な家族観ではありえない。
 この作品においては母、父、子の三者ともひとつの方向を向いており、とくに父は「Yes」と同じ形態を与えられて、外界のはるかな希望に向かって飛翔しているようにみえる。棚田はこの作品で、家族という場が同時に、個々の人間の<個>を確立させる場所であることを表現したかったといっている。日本においてはいまだに社会が家族の延長のような慣れ合いの雰囲気でできあがっているが、真の家族は逆に、むしろそのなかに<個>の結合としての社会を内包していなければなるまい。それでこそ人間存在は、身体その他の重い軛を逃れて<自由>に達し得るのではないだろうか。棚田の作品は、ゴーギャンが発した「私たちはどこから来たのか、私たちは何者なのか、私たちはどこへ行くのか」という問いの現代における再演であるが、しかし19世紀末の苦悩に彩られてはおらず、肯定性と希望を内包しつつ、21世紀へのゆっくりとした橋渡しとなっているのである。