伊庭靖子「イマージュの測定術」


1997年9月9日~10月4日



イマージュの測定術 


倉林靖

19世紀前半の写真の出現が、人間の「視る」ことに根本的な変容をもたらしたとは多くのひとの指摘するところであるが、この変容自体に大部分の人間は意識的ではない、ということもまた繰り返し説かれる事実である。人間はいまや写真の視方を通じて、ものを視ている。わたしたちが日頃ものを肉眼で見るときでも、フレーミングやトリミング、ピント、光線の具合や構図にいたるまで、あらゆる要素において写真の視方を踏襲しているのである。そしてこのことは即物的・物理的な視覚の原理から始まって、「視る」ことの思想そのものにまで及んでいる。だがそれは意識的ではなく、無意識的な出来事である。
チャック・クロスやリチャード・エステスなど、70年代初頭のアメリカの「フォト・リアリズム」の画家たちが試みたのは、写真のメカニカルな視点を忠実に画面に再現することによって、人間のものの視方と写真の視方との意識されない「ずれ」を際立たせることであった、といえよう。しかし、たとえばこのことを逆の発想から問い詰めていったらどうなるか。つまり、人間のものの視方と写真のそれとが分かちがたく結びついてしまっているのだったら、写真のものの視方を再現することを通じて、人間の感性の独自な働きについて考えることはできないか。もっといえば、写真の視方を通じて、まさに人間の感性の復権が行なえないか。これは人間の感覚を機械論的にとらえる、ということとは違う。むしろ写真の働きを有機的にとらえなおす方向性であるともいえる。
伊庭靖子の絵画、植物や衣服やガラス瓶などをフォト・リアリズム的に描いた作品を見ていると、視界における焦点の当て方、光線の暈し方などが、確かに、まるで写真そのもののように見えてくる。けれどもエステスやクロスの作品と彼女の作品を分けているものは何よりもまず、画面を覆うその光の質感、空気のようなものの魅力だといっていい。それはまるで、写真を越えて、わたしたちがものを「視る」という現場において直接捕捉したい、感覚したいと願っている感性がそこに再現されているのだとも思えてくる。なぜそうなるのか。
わたしたちが優れた写真を見て感動するのは、あまりにも既成概念に捕らわれすぎて、「視る」ことの清新な感覚を忘れてしまっているところに、機械の目が、そうした現実の直線的・感覚的な把握を思い出させてくれるからだ。だが、一方、機械の目はどこまでも機械の目であるから、これはあくまでも一回的な出会い、感覚のみによる把握にとどまる。いっぽう人間の目が写真の目と異なるのは、それが網膜だけの働きなのではなく、脳全体を通じてさまざまな記憶、知識、他の感覚と結びつきながら一個の視覚像を形成していくからであり、人間の視覚はそこですでに一個の主体的な関わりとして認識と思想を獲得しているといえよう。人間の目が写真機と違うことを証明しようとしたのがセザンヌであったとすれば、これは近代以降の絵画全体の問題であるともいえるのだが、伊庭の作品の場合、多分に「写真」という要素に問題をきりつめていって、写真が与える視覚の清新さを「絵画」のなかではっきりと定着させ、意味を与え、思想として肉体化させようとしているらしいところが興味深い。
伊庭の描くイメージは、彼女の身近な生活世界からとられてきていることが多いようだ。それだけ、彼女は周囲の世界に親和的まなざしを送り、そこから自己の世界を改めて構築させようとしているのだと思われる。私的な世界の情景を描きながら、しかもそこに世界把握の根源的な哲学性を秘めているあたりに、「絵画」としての新しさを予感させてくれるものになっている。最近の伊庭の作品は、一見抽象絵画とみまがうような、布の生地を描きこんでいくものになっているが、これは彼女の視方が一歩踏みこんで、さらに世界把握の哲学の側と「絵画」作品の構築の側に向かってきたことを示すのであろうか。こうして伊庭の作品は、今日のわたしたちの「イマージュの測定術」の場所をよく示すものとして、非常に意味深いものになっている。