市川平「仮設のモニュメント」

撮影:小松信夫



1997年11月18日~12月13日



仮設のモニュメント

倉林靖一

モニュメントの良し悪しが何よりも耐久性によって決定するとすれば、エジプトのピラミッドが現時点でモニュメントのチャンピオンということになろう。何しろ4~5000年前から延々と存在しているのだ。彫刻でいえばミロのヴィーナスが海中に沈んでも再び引き揚げられて、美術品として存続しているというのもすごい。「美術」としてのアイデンティティを破壊されずにものの見事に生き延びているのである。たとえば大都市の瓦礫もろともリチャード・セラの作品が海中に沈んだら、未来の人はそれらを区別できるだろうか。20世紀の芸術作品の性格がそもそも過去のそれとは違うのだと言ってしまえばそれまでだが、だからこそ、この例えには20世紀文化の本質が示されているともいえる。そういえばかつて美術家の藤本由紀夫氏が、情報メディアとしていちばん耐久性が高いのはメソポタミアの粘土板だといっていたのを思い出す。現代の紙は100年もたてばポロポロになるだろうし、フロッピーなど電子メディアの情報はいつ消えてしまうかはなはだ心もとない。
現在の高度消費社会においてはモノが大量にひしめきあっているが、そのモノからしてすでに存在感が希薄であり、情報として消費され廃棄されすぐさま消えていく運命にある。そこで基盤が脆弱にされているのはモノであると同時に人間でもある。モノ=道具=メディアによって環境に働きかけ世界を認識する動物である人間にとって、モノの存在基盤が希薄になれば自らのそれも希薄になることは必然である。しかしそれならばモノもろとも人間を救い出すにはどうすればよいのか。私たちの文明において存在の希薄さが必然であるのならば、逆行的に存在の豊穣さを復権させようとするよりも、むしろこの希薄化を徹底的に意識的に引き受けてこそ、私たちが明日の未来を生き抜く立脚点が獲得できるのではないだろうか。
市川平は立体というジャンルに拠りながらイマジナリーな主題を追及しているという点で、新しくまた特異なタイプの作家ということができる。彼がテーマや素材としてきたものの性格は、端的にいって「消えやすい」モノであったといえる。ひとつにはそれは、彼が圧倒的な影響を受けた映画やTVのスペクタクル性、眩いイメージを再現したいという欲望のなかに現われている。またいっぽうでは、ビルの上の排気塔や室外機、バキュームカーといった主題・素材は、都会にあって廃棄されるべきもの=消え去るべきものの象徴であり、また都会のハイテク化のなかでそれ自体消え行く装置でもある。だがこの廃棄されるべきもの/消え行く装置は、「周縁性」という性格を担うのであり、この負性は現代文化に対する批評という意味において積極的な価値に転換されうる。
脆弱な基盤に立つ現在の都市文化のなかで、「モニュメント」を建てようとすること(これはしばしば「パブリックアート」と呼ばれる)は、本来的に自己矛盾であり、消費社会の本質を隠蔽することにはかならない。もし現代社会に「モニュメント」がありうるとすれば、それは仮設的であるという逆説的なありようのなかでのみ存在できるのではないか。市川が今回の展示で提出する「仮設のモニュメント」は眩い、イメージを持ち、ノスタルジックでロマンティックでありながら、同時に私たちが夢見たところの狂騒的な消費文化の本質のすべてを担っている(そして今回の作品は、ノストラダムスの世界滅亡の予言の日付後のクリスマスに焦点を定めている)。消え去りやすいモノとイメージを扱うことによって、現代文明の鏡であろうとすること。最近目にした本のなかで私の尊敬する或る思想家は、「私たちは物に対する哀悼からはじめなければならないのではないか。・・・・・・そして一言でいってしまえば、現在において批評が可能であるとすれば、それは追悼行為としてではないか」といっている(市村弘正『「名づけ」の精神史』より)。市川平の作品は消え去るイメージ、周縁的なモノへの眼差しによって、現代文化への哄笑であると同時にひとつの批評である。その点が、彼の作品を、単にイメージ性の強い作品や表層的なオタク的アプローチの作品などから隔て、優れたものにしている理由なのである。