平井正義「写真そのものとして」

1999年7月3日~7月24日


平井正義――写真そのものとして

藤枝晃雄

写真はものではあってもその度合がより稀薄である点、われわれがオブジェと称している物体とはかけはなれている。しかし、たとえば絵が描けない者でも何らかの作品を作り上げることが出来るという容易さにおいてはオブジェと共通する。かくして、絵画や彫刻という伝統的なものとしての芸術が終息したと考えられたとき、写真は物体性の少ない芸術としてオブジェの代替物となる。ここに写真を用いれば新しいという誤謬が生れたのである。

伝統的な、ものとしての芸術の終息を唱導したのは、コンセプチュアル・アートである。だが、真正のコンセプチュアル・アートは、上記の絵の描けないことの代用としてではなく、まったくの道具主義として写真を用いた。ところが、いまやその道具主義は、いささか煽情的な図像学の美的効果へと変換させられている。そして、それがしばしば大象的なイメージを採択しているという事実から、単純にもハイ・アートとポップ・カルチュアの二分化を消滅させるものとして評価されるのである。しかし、シンデイ・シャーマンであれ、森村泰昌であれ、それらはもっとも分かり易い例をあげて比較すればマドンナやマイケル・ジャクソンよりも劣る。



ともあれ、かかる写真を用いた芸術は、ポップ・カルチュアに盲目の人々のスノビズムから称賛されてきたのであって、その意味では芸術至上の領域においてのみ存在理由を有している。

図像に限定され、意味が了解されればすべてが閉ざされてしまうという美的効果による写真は、芸術としてのイラストレーションに終始する。写真にはかかるイラストレーションとはまったく異なる、絵画や彫刻では表すことのできなくなった人間を始めとする現実表現という機能がある。だが、いまこの自明の、しかしなおも重要な機能はさて措き、われわれに求められているのは、写真を写真として見せること、すなわちその媒質と表現を開示する作品である。平井正義に期されるのは、そうしたものにほかならない。