須賀昭初「塗ることから描くことへ」

2000年1月8日~1月29日


須賀昭初――塗ることから描くことへ
藤枝晃雄

美術の流れを官僚主義的に語る言説には決して登場しないが、わが国の現代美術にとって重要な役割を果たしたものに旧田村画廊やときわ画廊のような展示場があり、また通称Bゼミと称される教育の機関がある。それらは未知なるものの生成の場の役割を果たし、1970年代以降の芸術家の多くがそこから出現したのである。
須賀昭初は、私が1970年にBゼミで講話を始めたときに、これに参加した者の一人である。参加者には他に鷲見和紀郎、中上清たちがおり、後にBゼミに属したことのない中村功たちが彼らに加わってある漠然としたグループが生まれた。私が彼らに、当時日本ではほとんど知られていなかったバーネット・ニューマン芸術を紹介し、彼らがそれに関心を抱いたことは、私の功であるか罪であるかは分からない。ニューマンの優れた作品は1966年、東京と京都の近代美術館で開かれた現代アメリカ展に出品されたが、以後われわれはそのサイズや色彩に触れることのできないままニューマンへのアプローチを試みたのである。
ニューマンの絵画における分割とか色彩は、本来的には直観的に生み出されたものである。だが、それを結果として眺めるとき、それがわれわれの内部で概念化され、先驗的、演繹的な方法と化す惧れがある。さらにニューマンの絵画は、モダニズムの理論として典型化されるときに問題を孕む。すなわち、彼の絵画が表象し得ないものを表象しているからといって、そして彼が熱を込めて美ではなく崇高について述べ、かつ作品のタイトルに崇高という言葉を用いたからといってその作品がそのまま崇高かどうかということである。
いまニューマンの絵画が与えるかもしれない危惧や疑惑はさておき、須賀たちのニューマンへの関心は、彼らを日本の美術界を覆っていたオブジェによる制作法、シュルレアリスムの心理主義、それと結びつくていのポップ主義から離反させたのである。
須賀は1971年、Bゼミ展に出品した。そこでは木材による作品が発表されたが、もの派に影響されたことは否定できない。だが、彼が取り上げ、加工し、設置したインスタレーションには楚々としたアウラが現れていた。そのとき私が注目したのは、物体を日本的な余情として表したのでは無論ないが、ある枠組みのなかにありながらもそれを物体としての物体として誇示しない曖昧さに対してである。
Bゼミを中心とする須賀たちのグループは、細々と、しかし粘り強い制作をなした。細々といえば語弊があるかもしれない。しかし、それは重要なことである。須賀たちは、Bゼミのなかに存在していた作品を作ることができないがゆえに、それを大迎な言葉によって補うようなことはしなかったということである。そしてBゼミのみならずわが国の美術家たちの多くはそうすることによって美術界を生き永らえてきたのであり、このことはいまも起こっている。須賀は、ニューマンの先驗的、演繹的な方法に感化されたかもしれないが、それ以上にニューマンを介して、長い期間、直観的な線の決定や色彩の塗りというよりも色彩を描くということへの試みをなしてきたのである。
描くこととはある形をつけることをいうだろうが、それはさらに絵を作り上げていくことを意味する。しかし、われわれの絵画は、描くことができないために、それを描くことの一部である塗ることにすりかえている(彫刻にもそれと類似の現象がある)。塗ること自体が悪いのではないし、かつそれはまたわれわれの伝統的な絵画の特性の一つとして輪郭線で形を作り、その内部を埋めていくことと関係があるといわれるかもしれない。しかしいま、私が俎上に載せているのはそれと同一ではない。塗ることが描くことにはならず、塗ることに終始して絵画が文字通り平面的な、単なる色と形をもつ事物のごときものとなっていることを指す。
思うに、須賀昭初の絵画は、近年になって描くことへ向かうようになったといえるのであり、本展はその成果を示すものである。