鈴木隆「記憶の深度/場所の精度」

2000年5月26日~6月16日



記憶の深度/場所の精度

松本透

確たる世界観を喪った時代であればこそ、私たちの意識に俄然くっきりと再帰してくるものがある。ものの断片とことばの断片である。かしくてコラージュや、レディ・メイドや、概念の芸術は、勇ましいアヴァンギャルドの手法たる一面の深層に、いわば廃材の巨大な漂着地にも等しい私たちの時代に特有の気怠く、重苦しい<気分>を隠している。

鉄製の円柱や長方体などのパーツを積み上げる仕事をしていた鈴木降が、とある鍛造工場のかたすみに打ち棄てられ、野ざらしになった鉄材との運命的な出会いを機に、熔接、成形、研磨といったふつうの意味での作ることを控えるにいたったのは、1990年代の初めである。以後のかれの作品は、既成品、いや、正確には既成品にすらなれなかった廃材に、切る、焼く、叩くといった最小限の手を加えて、それら死児たちに生を授ける態のものとなった。

“Less is more”の極限形といえなくもないが、それではかれの転回の意味を見誤るおそれがある。前進的であれ、回顧的であれ、制作の時制は現在であるほかなく、しばしば“白い立方体”に喩えられる展示空間とは、この現在時制の保証装置にはかならない。鈴木は、廃材の漂着する波打ちぎわに立ったときから、当然ながら、そういった単なる物体を入れる容器としての無色透明な空間からゆるやかに離脱して、制作というよりは<救済>の時空に足を踏み入れていったのである。

どこかしら魔術的なこの救済作業は、既成品中の既成品たることばの介添えをえておこなわれる。いわく、迂回の記憶。奇跡的。ここではないどこか。メランコリア。あるいは、見守られた時間。ものとことばがふたたび一つになるその場所がどのような場所であるか、いま詳らかにはしない。しかしそれが、記憶の〔そして夢の〕逆光のもとに不意に開ける、あのくまなく澄みわたった午后の空き地にも似たどこかであることだけは確かであろう。現実は、記憶のなかでこそ自明性の光をおびて再帰してくるものだからである。