寺内曜子「対象なき視覚のために」

2001年3月2日~3月23日


対象なき視覚のために

松本透

西洋の世界観の根底には主体と客体〔見る者と見られる対象〕の二元論があり、主体はそこでは、客体の総体たる世界と向き合い、あたかもその外部に君臨して、それを上下、左右、内外、あるいは美醜や善悪といった両極に切り分ける裁定者のような特権的位置に立つ。――70年代末にイギリスに渡った寺内曜子が、その彫刻を通じて執拗こ異議をとなえてきたのは、西洋的なものの見方や考え方の核心にあるそういった主体対世界の構図に対してであった。
≪わたしの作品は、この二元論なり、世界を本質的要素へと分節していく習慣なりが本当のところ何に由来するかを指し示そうとしています。それによって、この合理的な世界理解があるがままに存在しているものをいかに歪曲し、対立概念へと導くかを、鑑賞者にわかってもらいたいのです。≫(exh. car., Fruitmarket Gallery,Edinburgh,1996)と語る寺内の作品は、とりわけ1990年代以降、展示される空間との一体性を一段とつよめ、いわゆるsite specificなインスタレーションの形式をとるようになった。ここで注意したいのは、それらが、インスタレーション形式の作品に往々にして見られる自己充足した小世界の形成とは正反対の方向を指し示していることだ。
たとえば90年代を通じて東京やヨーロッパ各地で制作された「空中楼閣」(1991-)では、展示空間の一隅の壁と天井と床が、あたかもその空間と外部の巨大な未知の物体との交錯を示すかのように黒く塗られることによって、一室の外に拡がる広大無辺な空間の存在がほのめかされた。あるいは「衝撃」(1998-)では、展示空間の内側に張り出した柱や梁の一部が真っ赤に塗られることによって、やはり外部からその一室に介入するスーパー・パワーの存在が暗示された。いずれの場合にも、観る者をもふくむ展示空間全体が作品化されたうえで、その空間〔とはつまり、その主体一客体関係〕を相対化する外部の物体なり空間の片鱗が姿を現わすことによって、見る者と見られる対象の対峙構造そのものを超えたいわば無対象の視覚、内部に居ながらにして外部から見はるかす第三の視覚の可能性が開かれたのである。