樋口朋之「記譜の技法」

2001年4月20日~5月11日


記譜の技法

林卓行

白色がかったたっぷりとした色面は、広い余白のようでもあり、そこからは抑制された作品、との印象をうける。が、そこに現われる個々のストロークが、奔放さを欠いているわけではない。かつてはヴィヴィッドな色彩と無彩色に近い色彩の対による、そしていま、背景に溶け込みそうな淡い色彩によるものへと移行しつつあるそれは、いずれも跳躍するダンサーを思わせる。
そして余白と見えた色面に、数多くのストロークが塗り込められているのを見るとき、わたしたちは気づく。つねに、そしてあらかじめ、ダンスは行なわれている。樋口が両面に最後の、そして最初の一筆をおくのにも先駆けて、そこにはさまざまなストロークが潜在する。
これらのダンス=ストロークが、与えられたカンヴァスの枠を越え出ることもあるだろう。けれど樋口は、その越えたあとの動きを、把握してはいるものの画面に描くことはない。あらかじめ行なわれているこのダンスを、ひとつの視点から切り取って見せることに充足しているからだ(その姿勢はたとえばモンドリアンに似ている――メイヤー・シャピロによる優れたモンドリアン論、「モンドリアン:抽象絵画における秩序と無秩序性(ランダムネス)」[1978年]を参照)。
もちろん、その視点のありかは切実だ。樋口の場合、見るべき中心のない画面と、余白のように見える広い色面は、画家の視点とこのダンスの流動的な関係、そしてそのふたつの距離を、それぞれ示唆している。そして彼の作品の魅力である開放感とは、この流動性と距離の和にほかならない。
さらに、聞けば樋口は、このようなペインティングを描きながら、たえずドローイングにたち帰るのだという。そしてその線が恣意に流れることがないよう、さまざまな既成のかたち(それは両面に先だって潜在する・・・)を参照するのだという。けれどそうしたかたちの使用はけっして自己目的化せず、したがって安易に表面化することもない。たた、ペインティングから遠ざかろうとドローイングに向かい、さらにそのドローイングの気安さからも遠ざかろうとすること。完成作に見られる、端正にすぎるとさえいえる抑制と奔放のバランスは、ここでも距離を指向することから来ている。
そうしてダンサーやその熱狂とは遠いところに、樋口はいる。あるいは、鮮やかなストロークで余白を切り裂ぐ快楽とは、遠いところに。彼にとって大切なのは、むしろカンヴァスというステージを遠く俯瞰しながら、刻々と変化するダンサーたちの動き、その軌跡を克明に記録し、説得力のあるものとして提示すること、つまり記譜=notationの技術なのだ。