袴田京太朗「表面と不可視の内部」


2002年3月1日~3月22日


表面と不可視の内部

高島直之

≪彫刻の余白とは何か。彫刻はその表面と不可視の内部との対立関係によって成立している≫とは、袴田京太朗が、ある研究誌に寄せた「制作ノート」の中の一部である。彼の考える<彫刻>のあり方について、率直に表現していると思われる一節だ。これは、20世紀の彫刻家の基本的な制作態度といっていい「構成」と、それに依存したところの判明な「出現性」のあり方とは、いささかの距離があるように思える。ともあれそこでは、彫刻における可視的な表面と不可視の内部(余白)が比較されている。この彫刻の「余白」とは何なのか。そこに、袴田の仕事の鍵がある。

表面については、まず「視覚性」以外に「触覚性」がそれを担うだろう。物理的な存在としての彫塑的立体にはもともとそれが備わっているが、触覚については、本来触れ得ぬ作品には「眼で触れる」ことしかできない。そういった大いなる矛盾としての<視触覚>が、彫刻概念を成り立たせる。

「彫刻」は、そういった複数化された感覚によって、つねに自立性を要求され続けていくものとしてある。こういった「余白」こそが袴田の制作を推進させる動機となり、そしてモノを立ち上がらせる契機にもなっているだろう。

ところで、この不可視の内部(余白)について、私たちの複数の感覚の中から「視触覚」以外に、その世界内存在を召喚するものは一切ないのだろうか。

2001年に開催された「第19回現代日本彫刻展」(宇都市)に出品された『闇の柱』は、近来の袴田の思考を集約している作品である。これは、FRPによるクルマ止めの形態をした7つの立体物だが、上から覗くと4本はユリの花、2本は正六角形、1本は十字型の、それぞれ空洞になっている。空洞は地上高の2倍あって、同じ長さが地中に続き、FRPの内部には土が詰まっている。

このシリーズ作を見ていつも感じるのは、その筒状の空洞のせいなのか、それは眼のすぐ横についている「耳」の構造を思い起こさせる。聴覚をつかさどる耳は、眼の視覚と手の触覚とは違って、ふだんその機能を自意識として覚醒させない。しかし袴田のそれは、私たちの諸感官を総合させる「感覚的なるもの」のありかをより広く、低く底ごもるような声で訴えかけているように思える。耳の存在もまた、身体知覚の統一性においてその機能を負っており、不可視の内部を感知し押し開く器官であるだろう。その制作の手つきは、袴田京太朗の彫刻を行為づけるものとして、きわめて特徴的なものといっていい。