ギャラリートーク

多和英子 × 児島やよい


■「風」―日常の中で彫刻を 


児島: この作品は「風量」、風の量というタイトルですけれども。多和さんは鉄という材料で風が抜ける感じや柔らかさなど、鉄とは正反対の性質を鉄で表現したいという事にこだわってらっしゃるというところで、どうしてなのだろうと私なりに考えてもみたのですが。この作品を見たときに、きっちり作られたものではない、所々に隙間が空いていると言うと変ですけど、どこか抜ける感じが確かにあるなと思いまして。そこから風を感じることができるなと思ったんです。 

多和: 個人が風という物をどう感じ、どう捉えるかから始まると思うんです。台風のような風ではなく、自分の中の現実をフッと吹っ切れる何かが生まれる。生活をしていてもマンネリ化していく日常のなかでスーッとなる、そういう物を含めた風量なんです。辞書には「風量」という言葉自体がありませんが。今の自分がちょっと変われる何か。大げさすぎない事でもそういう物も含んでいるし、又囲まれる物と包む風というか大気。一枚の板が折り曲がっていくときに押される空間と開いていく空間があるわけで、それでこの彫刻に関しては大気という物も考えています。この両者のイメージを形にどう表していくか、ただひたすら溶接に追われたので多少、力不足感が残りますが……。私の日常の中で彫刻を考えていく要素としてある物は、洗濯物を干したり、洗濯物を畳んだり、料理をしたりする中で見つけるちょっとした何かなんですよね。その辺が重なりあって今回はこういう形にもって行けたらというのを出しています。

児島: 日常のリアリティということ、作品とその作家にとってのリアリティというのが最近よく言われていますね。 

多和: 生活の中で視点をちょっと変えると、かなりいろんな物に自分の興味がグッと一層魅かれていく。どのように物が置かれているかの位置関係によって、その物の見え方が変わったりしますよね。そういう個人の感性があると思うんですよ。女性がテーブルにレースをひいてお花を飾ったりしている中の、私は箸がここにあっても構わないのにある女の人はきちっとまた違うニュアンスで置き換えたりする。そういう物のちょっとした位置関係とかね、それは視点を変えたりすると見えるし、変な話、きゅうりやキャベツを切ったりする切り口から何かを盗みたいなというのもあるんですよ。私の主人も鉄をやっているし、友人もみんな鉄をやっています……皆さん立派なビシッとした密度の高い鉄の彫刻を作られるんですけど。そうではない、まあ、しいて言えば使い古された鉄釘、ひしゃげたグシャッとなった物に私自身が魅かれる。新品の靴ではなく、履き古した靴のほうや靴らしくない靴に愛着を感じるそういうところだと思うんですけどね。その辺りから私なりのものが生まれてくるんだと、ある時期確実に認識しました。作ってみてちっとも立派ではないが、それを良しとして専念する自分の感性とか、事が壊れていくと感じ、消耗していったりやってられないわと辛くなったり。つまりみすぼらしかろうが華奢だろうが、軽い、彫刻でいうと軽いは軽蔑語でしたからね。表面的だとか。そういうこと全て肯定なんです。直角的なエッジが出なくても、ねじれていても。そういうことを全部自分が許してやることによって、ちょっとだけ自分らしいものができる所へ絞り始めたんです。それが私の居場所でそれらしきものが出てきて、皆さんに何かを感じてもらえればそれでいいと。

 

■「鉄という素材」―骨が錆付くかもしれない 


児島: 鉄という素材の魅力、それ程まで頬ずりしたくなるほど愛せるのはどういう所でしょうか?  

多和: それはわからないですね。私もなぜ鉄が好きなのかわからないです。だけど錆びた鉄、工場から出てきた新鉄、磨いた鉄、いろんな鉄を知っているけどすべて好きで魅かれます。もちろん溶接で溶けていくのも好きですし。鉄がなぜ好きかはわかりません。舐めてもいいくらい好きです(笑)。最後には、これだけやってるわけですから鉄粉をいっぱい吸っているわけでしょ。ついには骨が錆付くかもしれない。でも、昔一度嫌いになったことがあるんですよ。鉄の臭いが嫌で。それを一回投げ捨てることによって踏ん切って、鉄はもうわが子よりかわいい。ちょっとおかしい印象にたぶんなってきている(笑)。

児島: 彫刻といってもいろんな素材で作れる可能性があるわけですが、あえて鉄に行ったのは?  

多和: ただ鉄はですね皆さんが考えてらっしゃるのは鍋か包丁、建築資材、釘でしょう。一見、鉄というのは硬く、重く、やっかいな代物で人間の肉体と同じように理屈では割り切れないものですが、加工していくととてもその人間を表す力を持った素材なんです。柔らかく柔軟性にとんでいて、その人に馴染んでくれる金属なので個性を出していくにはとても良い彫刻素材だなと思いますね。 

児島: それは、ある程度の年数をかけて鉄と向き合っていないと見えてこないものなんでしょうね? 

多和: いろんな鉄の作家さんがいらっしゃいますけど、どなたも皆さん同じ鉄の表情をしていない。どういう加工をしてもそれを粘り強くやっていけば必ずその人らしさが出る。出るから、自分の生き様を正直に鉄に出していきたいと思っていますし、それでないといやらしくなったり見苦しくなったりしていくんだろうと。できるだけ鉄に対して、自分は謙虚さと正直さと大胆さを持ってといつも思っています。 

児島: 溶接というやり方は、これからも続けていこうと考えてらっしゃるのですか?とても辛い作業ですよね……。

多和: ええ、もうずっと続けます。たぶん目がだんだんと夜に仕事をするのは辛くなったりするかもしれません。そうなったら自分の中の考え方も変わればいいと。自分もまた変わっていくかもしれないけれど、鉄も変わればいいと思っています。墓場までお付き合いするわよと思っています。 

児島: すごいですね。そう、なぜこの人はこんな大変なことをするんだろうと考えてみる。そういうことが理解できないとしても、想像してみる力が作品を見ていることで養われていくものなのではないかなと。普段はアートと関係ない人でも、街などの身の回りで作品を目にすることで想像してみる力、物の見方というか、いつもの自分からちょっとずらしてみる経験、それはアートのこれからの展望にとってやっぱり大事なことだと思うんです。 

多和:そこは原点ですよね。よく主人には言うのですけどね、とてもアートをやっているようには思えないと。溶接屋さんよりも下手なのにただひたすら溶接をしている訳ですよ。夏の35度の日だろうが、汗をだらだら流して。それがとても美術、芸術には置き換えられない。労働でしかない。労働は、視点を変えるとアートになる。みんなが何かを変えるチャンスとしてあるのではないですかね。

 

■「制作」―朽ち果てていくところまで視野に

児島: 自分の作品が美術館やギャラリーで展示されるのと、パブリックアートとして町中に置かれるのとどちらが本望と感じられるのでしょうか?  

多和: ……どっちかにしなければいけないですか。 

児島: 気持ちの上で制作にも違いが出てくるのかどうか、ということなのですが。 

多和: どちらにしても責任を取らなければならないとは思っていますし、こういう素材で朽ち果てていくところまで視野に入れて制作をしなければと思っています。ある所で自分の表現にライン引きをもちろんしなければならない場面も出てくるでしょうが……。 


児島: 作ってしまった以上なかなか朽ち果てないし、場所もとると。 

多和: どうしても残したい物は、どうしていくのかも考えなければいけない。おおまかな返答になりますが私はできるだけ皆さんの中で仕事をして、皆さんに見てもらうことを考えています。そうしないと同時代を生きている人間に私はこういう考え方、個性、こういう物の見方ですと見せることによって毛嫌いされようが反発だろうがなんだろうが、それが『風』だったりするとも思っているわけです。お互いに違っていて当たり前。そこに理解するものの媒体として、何かがある。そういう考え方をとれば成り立つのではないでしょうか。それをある人は無視するが、何かにつなぐ一つのものとして存在させる。その辺りがこれからの彫刻を自分がやっていく中で、是非やっていかなければと思っています。

児島: これだけ鉄という素材を愛してらっしゃるので、鉄関係の企業が作品をコレクションされたらいいのにと思いますけどね。


多和: 私は『物を作ることを大切だ』と思っている。でも全く逆の立場の人もいる。私のアトリエの隣は農家でおばあちゃんがいて、私がアトリエに引っ越してきたとき「それは何かね」という言葉からお付き合いが始まりました。『彫刻なんです』と言うと、「役に立つのかね」「それをどうするのかね」と聞き返される、私にすれば全部答えきらないわけですよ。ついに困ってしまいました。毎日毎日の作業を眺めながらついに「アンタ、好きなんだね」と言ってくれたときに、やっと『はい』と言えたんです。彫刻が社会の隅っこに追いやられているなと、実生活とは違ってきているなとも思います。ただ、おばあちゃんの言葉が私にとっては新鮮で世の中はそういうことで動いているし、親がたまたま美術大学に入れてくれて好きな様に育ってきまして、五十歳になってもまだ好きなように生きていて。それでおばあちゃんの質問に全部答えられない。これはすごくショックでした。すべてのものは、そういう関係で成り立っているんだとわかっていますが。毎回いつもおばあちゃんの最後にくる言葉は、「何に使うのかね」「どうするのかね」ですが、だけどきれいだとか昨日よりどうなったとかを八七歳ですけど確実に自分の目を持っておっしゃる。だからじゃないけど、皆さんも実際に花を見るときのきれいだとかの気軽い有り様で彫刻に接してくださるといいなと思うんです。さっきも作品を叩いてみていいですかという人がいましたが、叩いてみても、なでてもらっても、キスなさっても結構ですしね(笑)。どうにかして違和感のある物と触れあう、そういう好奇心が何かを変える原動力になるかもしれないと思っています。