松井紫朗+藤城凡子「aquaria」

写真上:The Outside’s Inside/ 松井紫朗/ 2004/ photo 成田弘 (C)Shiro Mastui

写真下:Cosmofarm/ 藤城凡子/ 2003/ photo 怡土鉄夫 (C)Namiko Fujishiro


2005年3月7日(月)~3月26日(土)


 

水と宇宙を巡る対話

児島やよい


 「世界を想像し夜を分解するのには、一滴の強力な水で充分なのである。この強力さを夢想するのには深さにおいて想像された一滴こそ必要なのだ。このように力動化された水は胚芽となり、人生に汲みつくし得ぬ飛躍を与える。……」(ガストン・バシュラール『水と夢 物質の想像力についての試論』小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社)

宇宙の果てはどうなっているのだろう。果てがあるのなら、その向こう側は?宇宙の内側と外側の境目はどうなっているの?……子どもの頃、図鑑で太陽系惑星の大きさを示す絵を見たり、宇宙が膨張している話などを見聞きしてその大きさを想像したとき、自分は気が遠くなるほどちっぽけなんだと身体で解り、お尻のあたりがムズムズして胃のあたりが気持ち悪くなったことを思い出す。それは、底知れぬ深い海にほうり出される恐怖と、どこか似ていたように思う。

「aquaria」。松井紫朗と藤城凡子が初めてコラボレーションを行う展覧会のタイトルは、水槽や水族館、あるいは「水の中」の意である。

松井は銅やアルミ、シリコンラバーなどを素材として、見慣れた記号、あるいは身体器官の一部のような形態の立体作品を制作してきた。建物の構造を取り込んだ大掛かりなインスタレーション、特に黄色のシリコンラバーをダイナミックに用いて美術館の「内」と「外」、「展示物」と「展示ケース」といった既存の視点を逆転させる空間体験をもたらす作品が記憶に新しい。建物サイズのとても大きいスケールの作品なのだが、素材や色の特性もあり、まさに観る者の体を包み覆う「皮膜」として身体感覚に問いかけるのである。また最近はリップストップという薄く耐久性にすぐれた素材を用いて、より大スケールながら軽やかな作品を展開している。

いっぽう藤城は、どこか自虐的で可愛い明るさのあるセルフポートレイトや絵画に始まり、人形などレディメイドのオブジェを用いたピリリと小粒な作品が、どちらかといえば印象的であった。自虐的な要素とは、たとえばスカートをまくり上げられて頭の上で結ばれて、顔と手を隠され下着が丸見えの、身動きの取れない女の子の姿、といった性的な辛い経験を思い起こさせる表現であり、トイレに座りとぼけた表情で水道管に映り込む、歪んだいくつもの自分自身の像を撮るユーモアである。
しかし彼女が最近手がけている、コップや水槽の中に小さな地球や惑星(に見立てたもの)をシリコンで固めたシリーズ、また月に縄をかけ、犬のように連れて散歩する場面の写真作品などからは、星を飼うというスケールの大きい想像が、まるでペットブームの一端であるかのようにさりげなく表現されており、自虐的で可愛い要素をもはや突き抜けてしまっている。

そして松井が、数年前から京都市立芸術大学において宇宙航空研究開発機構と共同で取り組んでいるプロジェクトは、「宇宙(微小重力空間)の庭」の研究である。重力の影響がない宇宙で、人間の視点は、行動は、空間経験はどうなるのか。それはもしかして、水の中で自由に泳ぎ回る魚のような視点なのかもしれない。今回、空間認識についての考察への進む中で、「水」が作品に登場するのは必然だったように思える。(実際は、風呂で浮かんだアイディアだったらしいが。いずれにしても水の中に入ることは、宇宙の無重力に近い状態を疑似体験する手っ取り早い方法だ。)いったい金魚は、水槽の「内」「外」を認識するのだろうか。それを見ているつもりの私たちは逆に、金魚に見られていることに気づく。何重にも逆転する空間認識。
そして藤城の作品を見ていると、宇宙の「内」「外」は自分自身の「内」「外」に置き換えられて、案外単純なものなのかもしれない、とも思えてくる。水槽に閉じ込められた地球の住人は、ギャラリーの空間を自由に歩き回っているつもりの、私たちのセルフポートレイトでもあるだろう。

松井と藤城の二人がつくり出す「aquaria」には、水と宇宙を巡るスリリングな対話が仕掛けられている。

ギャラリー・トーク 松井紫朗 × 藤城凡子 × 児島やよい