アーティスト・トーク

渡辺豪 × 橋爪彩 × 岡部あおみ

2005年6月11日


■皮膚感覚

岡部あおみ: お二人に共通する部分のひとつは、ある意味で「皮膚感覚」をとても大事にしてらっしゃる、こだわってらっしゃるところかと思います。それからもちろん「身体」ですね。でもその「身体」が分断されている。そのトータリティではないものへのこだわり。そして、女性性の問題やジェンダーなども含めてお二人にお話を聞いてみたいということもあり、今回の展覧会では、橋爪さんと渡辺さんという1度も会ったことのなかったお二人の組み合わせを選ばせていただきました。まずは、ご自分の作品についてそれぞれ簡単にお話をしていただければと思います。

橋爪彩: 私は大学の一年二年ぐらいのときからずっとコンスタントに絵画というか油絵をやってきているんですけれども、岡部先生が今おっしゃったように、非常に「皮膚」というものの存在に対しては過敏につねに反応してます。作品に対しても、自分の身体の皮膚でも、「最表面のもの」に対して興味があります。私の作品はすごく表面がフラットで、油絵っていうと、ナイフや筆の跡がついているイメージを持たれている方が多いと思うんですけども、私の作品は最終的にツルツルに、なるべく凹凸のない画面にして、最後に一層、必ずニスをかけます。最終的に一枚の皮膚にするという、目的があってやっています。そうすることで、本当に描き跡がなくなり、いろんなモチーフが描かれているけれども、ひとつのまとまった物質になるのではないかという思い入れでやっています。単純に、技術的な面でも皮膚を目指していますけれども、モチーフの中でも当然人間、若い女の子の脚がモチーフに入ってきて、「敏感肌」が自分のキレのあるキーワードになっています。パンプスを履き、その下にベージュのストッキングを履いていて伝線が走っている絵がありますが、それがまさに『敏感肌』というタイトルの絵です。ストッキングの薄くて、肌色で透けていて、その質感がすごく敏感な肌そのものだな、と思ってます。ちょっとしたことでツーっと破れたりとか、デリケートな存在で、本当に爪のささくれひとつで破れてしまうぐらいのものだけれども、確実に自分のからだを守ってくれる最表面としての性質が似通っているなと思って制作しました。そういった意味で、「皮膚」や「表面」、本当に単純な意味での「サーフェイス」という意味での表面を、とても気にしながら生活してます。絵の制作のうえでもそうですし、私の生活のうえでも「表面」を大事に思っています。

渡辺豪: 僕の作品は、素材はCG(3DCG)なんですけれど、ヒトの表面の写真を撮って、それを画像で加工したものをCGの立体に貼り付けてイメージ化する方法で制作をしています。それは、「ヒト」でもなく「モノ」でもないものを作りたいというものがあるからです。CGはマッスというか、立体的なものですけれど、ポリゴンという厚みのない面で構成されていて、そこにはりつけた皮膚も実際、物理的な厚みをもたないんですよ。それで、物質としての厚みとか、塊のようなものをもつものでもなくて、かといって、写真だとか、対象として完全に人間として認知できるようなものでもないようなものに興味があってやっているんです。

 

■アノニマス―個性を剥奪する―

岡部: 今回の展覧会準備のために、お二人は初めて出会ったので、未知の作家同士だったのですが、一緒に展示することになって、まず橋爪さんに渡辺さんの作品についてどう思うか、そして、渡辺さんに橋爪さんの作品をどう思うのかを聞いてみたいと思います。

橋爪: 渡辺さんの作品は、単純にまず、すごく完成度の高いCGの映像で、しかもそこに描かれた少女は全くプロフィールを感じさせない真っ白な髪の毛、まあ目と唇はかろうじて少し色彩を持っているものの、ほとんどが本当に漂白されたような女の子です。その異質な女の子の口から、「いるいる!」、「こういう女の子いるよね」っていう、生生しい声と言葉が発されている。渡辺さんの作品を見て、私はかなり驚かされました。きちんと映像の中の少女の唇と音声がリップシンクロしているのに、服のボタンを掛け違えたような、どこか調子が合わないような気がしたせいです。そのズレは何なんだろうと考えたときに、パソコンの中で作られた人工的なCGに、生身の女の子の声をあてて、それが果たして、いのちを与えているのか、それとも生身の声を発している女の子のいのちを奪っているのか。そこの部分が違和感で、気になった。「animate」という言葉は、「命をあたえる」とか「生命を与える」という意味ですが、「animation」なのか。生命を与えているのか奪おうとしているのかについて、伺いたいと思います。

岡部: 創られた顔と与えられた生身の声の持ち主との間で、「命を与える/奪う」という関係が生じると考えられたのは、面白い発想ですし表現ですね。

渡辺: 与えていることが奪っていることになるようなものを作ろうとしているんでしょうね。単純に言うと。ベースは「与える」だと思います。与えるというのがあって、それが同時に奪っているような、二律背反するようなニュアンスが常にあります。

岡部: 普通にしゃべっている音声もかなり編集されているんですよね。使いやすいように編集なさるのであれば、どういう観点で編集されているのかしら。話の内容が面白いところだけを切りとっているという感じですか。聞いていても面白いですが。

渡辺: 内容は二次的なものですが、編集自体は、喋っている本人の体験をもとにしているものをその体験から切り離してしまう、というニュアンスです。時間的な順序を入れ替えて作ったりしています。

橋爪: 平たく言ってしまうと、彼女の喋っている話題は「恋愛」というすごく俗っぽい話題で、それって、渡辺さんが「恋愛について語ってくれ」っていう風に言ってるんですか。

渡辺: そうです。最初はまず素材として、個人に属する体験のひとつとして恋愛ってものを考えて、それを語って欲しいと。それで一応それを喋った本人という根拠から切り離して、まったく表面であるものが語るのか、語らしているのか、合わさっているだけなのかというような状況を作り、内容は極めて個人的なものだけれども、そこと表面というものが、内容としてもそうだし、声の質などとも乖離するような瞬間を選んでいます。

岡部: では渡辺さんから橋爪さんのご感想はどうでしょう。

渡辺: 橋爪さんの作品で一番気になるのは、おっしゃっていたように「表面」ですよね。僕はもともと、内容というか、使っている素材の質が結構気になるものですから、白亜にオイルっていうかなりアカデミックな手法で、フラットなのもアカデミックな技法をとっているが故に可能だと思うんですけれども、そういうのを自分の皮膚感覚とか内容とかと照らし合わせて素材を選んでいっているのではないかという感想をもちます。今回は、脚の作品がほとんどですけれども、伺ったところでは顔とかの作品も描かれていらっしゃるということで、例えば、僕は今のところ顔の作品が多いものですから、橋爪さんがあえて脚と顔というものを描き分けるというか、切り分けたときに、意図しているポイントが何か違うのかな、ということを聞いてみたいですね。

橋爪: 最近は一年以上、顔を描いたことがなく、描いても、首までとか後姿だったり。そうなったきっかけは、なるべく鑑賞者にキャラクター情報を与えたくないという考えがすごくあったからです。個性がそんなにでないところってやっぱり脚。性別とか年齢はある程度わかるけれど、もしかしたら私が描いた絵の中の女の子たちは白人かもしれないし、ストッキングを履いていれば黒人かもしれないし、そういう意味でなるべくアノニマスにしたい、匿名にしたいというところが少しあった。彼女たちには、個性とかを特に与えたくない。だから、私が自分の作品をつくるときには、「ただの女の子」がすごく大事で、特別な存在ではない女の子を意識しながら描いていて、美人かもしれないしブスかもしれない、わからないけれども、ここからうえはなるべく描かないでいたいと思って、下半身構図に興味を持っています。

岡部: 渡辺さんの少女は超美人ですが、アノニマス、あるいは個性を剥奪するというところは、渡辺さんと近いところがありますよね。また、非常にこだわる完成度も似ていると思います。匿名性に関して渡辺さんのほうからコメントしていただければ。

渡辺: 僕の場合は、顔を実際に使って、その固有性、「ある個人である」という特定できる要素をいかに排除するかというところから顔のモチーフが始まったんですけれども、CGを使っていく中で実際存在するものを匿名にしていく、無個性化していくプロセスから、無個性化したなにか、指し示すことの出来ない少女なら少女、物語というものを確実に現前化させたい、目の前にいるように現したい。もともとヒトを白く塗って写真に撮って作品にしていたんですけれども、塗る前のオリジナルの物質的な人間をまず消しとった段階で、何者かわからない、いるかいないかわからない、ヒトかモノかわからない何かになる。簡単にいうと、「ヒト」はある意味、自分とコミュニケーション可能なもの、自分の主体とつながってくるもの、「モノ」はそれに対して、対象として認識できる、距離をもつものというニュアンスがある。例えば、イメージとして見た場合、「自分が確実に創造しているんだ」という創造の源としての主体の中で構築しているものなのか、または、極端にいえば妄想的なものとして、自分の外側にあるものとして信じきっているものなのか。どちらのポジションにもとれないような中間に近いものを現していく、そうした匿名のヒトをつくるという感じなので、顔っていうのは逆に表現するのに重要な要素なんです。

岡部: 顔こそまさに匿名性とは逆の地平にある有名性の極地ですから、それをアノニマスにするという行為は、大変な挑戦なわけですね。橋爪さんがおっしゃるように、脚の匿名性とは反対に、顔は一番、ひとつの個性の場ですからね。だけど、ヒトを指し示す確固たる表象として存在する顔を匿名にしていくことで生まれてくる何か。少女という記号かイメージ? それと、渡辺さんの作品では、表面をどんどん薄くしていくという行為が特長になっています。もともと物質的な表現が自分には合わないというところから、トランスルーセントのものを使い、現在はこうして映像まできています。渡辺さんが希求する薄さは、私達が自覚しているイメージ自体の薄さではないかという気もします。イメージって実際には存在していない脳裏にあるもので、透明ともいえないけれど非物質的な感じです。その原質的なイメージの感覚は、橋爪さんが表すイメージとは明確に違うわけですね。橋爪さんは新たなイメージを創っているけれども、油彩だから非常に物質的で肉体的ともいえる。例えば、映像の映写に照明が邪魔ということもあり、会場をふたつに分けましたが、渡辺さんの展示室にくると、寒帯みたいに寒い感じで、実際にこちらは冷房もより効いていて(笑)、そこから橋爪さんのほうの展示室にいくと、肌の暖かさとかぬくもりとか、物質感や体温を感じ、そういうものに包まれて温暖帯に来たという感じがする。そういう点は非常に違うと思いました。

 

■エロティシズム

岡部: 渡辺さんの映像の『emo』の女性ですが、口がお歯黒というか、口の中が黒いんですね。それがある意味で、抽象性を増すと同時に、エロティックなイメージがするんですけど、どうでしょう。

渡辺: そうですか。いや、歯がないのは、歯を表面として考えていないからです。基本的に表面のみを記述する、例外があるなら、それは眼球のみであるという考え方なんです。歯は、骨格であってヒトのからだを構成するものですから、皮膚の一部として、表層としては見てない。

岡部: なるほど、表面と皮膚というコンセプトが非常に厳格なところから歯が削除されるということが起きているわけですね。また、橋爪さんの作品は脚というモチーフと描く領域だけでも、エロティックな喚起力を思わせますが、エロティシズムとの関係はいかがですか。

橋爪: 大学の院に入ったぐらいから、急に脚の作品しか思い浮かばなくなり、脚ばっかりに興味がいくようになったのですね。自分でもこうなる理由がわからないまま、ずっと制作を続けてきた。単純に、脚元というのは、洋服を着るときでも一番最後、靴を履いて外にでるときとか、私のなかでは「脚」がフィニッシュの瞬間。「今日は可愛い服をきたな」というときも最後は靴で決まるというか。そういう仕上げみたいな部分を見せるというのが知らず知らずのうちにある。で、靴はすごく好きでたくさん持っているんです。エロティシズムは、皆さんがよく疑問を投げかけてくれるところですが、本当に私はこれといってエロティシズムを意識して脚を切り取っているわけではなくて、そういう作品を提示した結果、そう見られているという感じです。でもやっぱり、自分が意識して読んだりする本は、バタイユであったりとか、堂々と性とかを扱っている作家の作品は好きなので、もちろんまったく関係ないわけではない。自分がそういうものを選び取ったり、エロティックなものに惹かれてしまうというところはあるんです。ただあえて「エロく」見せようとかは全くないです。

岡部: 会場に入ってすぐの壁面に橋爪さんのとても小さい『仏製椅子』があるのですが、あの作品はバタイユの『眼球譚』という小説をもとに描いたものです。十代の少年少女が冒涜的でもある性的な冒険を繰り広げるバタイユの処女作で、その小説を読んで、橋爪さんは「ダブルスタンダード」という二重のイメージをもった。二人の脚が重なってフランス製の椅子に腰かけているのか、でていて、ひとつは少女っぽい白いハイソックスを履き、もうひとつはストッキングをつけ黒い靴を履いている作品ですね。

橋爪: あれは、小説を読んで自由に解釈して作品を作っていいという展覧会の主旨にそって、その為に描きおろした作品でした。バタイユを選んだのは私ですが。出すときに、やっぱりなんかすごく恥ずかしくて、皆に嫌われるんじゃないかと、よくわからない不安がありながらだした作品です(笑)。たぶん、自分の中でもはじめて堂々と、セックスという意味での性と向かい合った作品だったので、発表するのに体力がいりました。バタイユの作品を読んでいただければおわかりになると思うんですけれど、「あれを私なりに輪郭をあたえるとああなります」という作品です。なんだかうまく言えないのですが。

岡部: 渡辺さんは、他者性とその他者と自分の主体との関わりをテーマにしていますが、その中間でもある、他者でもなく自分でもないその中間というのは、他者を女性とすると、それと自分が融合しているような、その中間のような感じのイメージや関係性の具体的な何かはあるのですか。

渡辺: うーん、どうですかね。作品作るうえではそんなに性的な問題を考えないので…。女性であるのは、なにか意味を探せばみつかるんでしょうけれども、意図的にというか、無理やり言語化して考えてやろうとしてはいないです。

岡部: 基本的に、昔から男性芸術家が女性モデルを描いたり彫ったりするという美術史的伝統は継続してあることだから、特別、珍しい行為でもないですね。意図しなくても続いてきている表象のひとつです。共通項では、お二人とも素材としては写真を使われていることもあげられますね。渡辺さんも生え際だとか、モデルの皮膚の写真を撮って、微細な皮膚感覚を生かして作られています。橋爪さんは、ご自分の脚や後ろ姿なども写真に撮って素材になさってますから。
(テープ起こし:中田一会)