アーティスト・トーク

ガゼルx嶋田美子x岡部あおみ

2005年10月8日


■『ME』と契約結婚を求めるポスターができるまで

岡部あおみ: それではトークをはじめさせて頂きたいと思います。ガゼルさんは1966年にテヘランで生まれ、高校までイランで生活して、大学と大学院は南フランスで勉強し、映像とビジュアルアーツに関しての修士号まで取られています。卒業後はインスタレーション作品を手がけていましたが、今回紹介している映像の『ME』シリーズを1997年から作りはじめ、ずっとライフワークのように現在も続けています。ユーモアがあり、批判、風刺も込められた短い寸劇で、そのなかから、今回は41点を3台のモニターで紹介しています。ヴェネチア・ビエンナーレにも展示された作品です。
また壁面には、ポスターのように多数貼ってある紙の作品があります。彼女は外国人ですから、フランスでヴィザが切れて一時不法滞在のようになっていた時期がありました。その時に、考えて、パスポートを持っている人に契約結婚をお願いするというプロジェクトのポスターです。現在は、ご自分で長期の滞在許可証を持っているので、逆に不法滞在の人達に対して、自分の方から契約結婚をオファーする、ということをなさっています。契約結婚を求めるポスターが多いのですが、その中に、結婚をオファーするポスターも3枚混じっていますので、後ほど、ぜひみなさんで探してみて下さい。もうひとつは、比較的珍しい写真作品で、ひげをつけたりして、複数のアイデンティティ、その揺らぎをテーマにして作られています。
今日のトークのお相手をお願いしている嶋田美子さんですが、みなさんもご存じのように、2005年春、東京都現代美術館で、「愛と孤独、そして笑い」という展覧会が開催されたときに、出品されたアーティストです。嶋田さんとガゼルさんはずいぶん昔からの友人です。嶋田さんご自身はインスタレーション作品と、版画作品を作られていて、東京都現代美術館での作品は、家具の中に、家族の記憶であるとか、自分自身が心の奥底にしまってある、誰にも話すことができない秘密などを書いてもらって、その書かれた文章を引き出しの中に入れて、観客が見られるようになったインスタレーションでした。
まずはガゼルさんから今回の作品についてお話を伺い、その後、嶋田さんから彼女の作品へのコメントを伺って、トークを行いたいと思います。

ガゼル: ご紹介ありがとうございます。今岡部先生からご紹介がありましたように、こちらの方のモニターでご覧頂いていますのは、『ME』シリーズ、2000-2003で、41の場面(シーン)を2000年から2003年にかけて制作したものを集めています。また契約結婚に関する「Wanted」、「Urgent」プロジェクトのポスターは、大体が英語、フランス語の両方で作られていますが、今回は展示の関係上、それぞれ1つだけのバージョンで展示しています。写真の作品は、アイデンティティそのものを覆い隠すこともありうるし、又それをそのまま出していくこともできるといったことなどについて考えた作品です。

嶋田美子: 私がガゼルと出会ったのは、1994年ベルリンです。そのとき彼女はタハルス(Tacheles)で、私はクンストラーハウス・ベタニエン(Kunstlerhaus Bethanien)という所でレジデンスをしていました。1999年にもベルリンで2人で展覧会をしたことがあります。94年に最初に会った時には彼女は主にインスタレーションを作っていました。それはスーツケースを配置したもので、ノマド(遊牧民)とか移動についてのものでしたが、非常にリリカルというか、詩的な、メランコリックな感じがするようなものでした。その後、99年に一緒に展示した時にはこの「Wanted」のシリーズが始まっていたんですね。「Wanted」のシリーズを始めたのは、15日以内に国外へ退去しろという命令を受けたのがきっかけだという事です。普通そういう困難な状況に対してアートで何ができるかというと、アーティストは立ち止まってしまったり、又はその困難に対して自己憐憫みたいなものに沈んでしまうようなことがあると思うのですが、それに対してガゼルはドライなユーモアで対抗していったのが、非常に興味深いと私は思います。その中に、自分の非常に難しいシチュエーションに対して一旦こう引いて自分を観察できるような客観性と力があると思って、それをどういう風に獲得したのか、特にユーモアについてガゼルにもうちょっと聞いてみたいと思います。

ガゼル: 『ME』の映像作品は1997年から始めたのですが、お話にありましたように、私は当時は遊牧民(ノマド)のように、どこにも根付かず、2ヶ月ごとに住む場所を変えているような生活をしていました。スイスに2ヶ月、その次はドイツ、イラン、またフランスという感じで移り住んでいたんです。その頃イランでレジデンス・プログラムをやって、少年で非行に走り、服役中の子供達と出会いました。その子供達がどんなひどい目にあっているのかも知りました。例えば、卵1個盗んだだけで受刑している少年がいたり。そうした出会いの中で、私達にとって最大の武器はユーモアではないか、ということに気づいたのです。その頃まではインスタレーションをやっていたんですが、インスタレーション作品を見ていると私らしさが全く感じられなくて、どうも気が滅入ってしまうらしく、友達から、そうした作品はあなたらしくない、といつも言われていました。あなたのユーモアが全く出ていないじゃないのという風に。それまで私はなぜか分からないんですけども、美術はともかく真面目にやらなきゃいけない、深刻な物なんだと思っていました。今でも美術は、もちろん非常に重要でそして深刻に受けとめていく、そう取り組まなくてはいけないと思っています。ただ、あの頃の私の美術に対して持っていた姿勢は、真剣な上にドラマチックでなければならないという感じで、それが非常に強く出ていました。ドイツの作家ヨーゼフ・ボイスのファンだったので、ボイスっぽくやろうとひたすら考えていたのです。
フランスから不法滞在で退去命令が出たとき、ユーモアを織り込んだ形で、アーティストとして何かこれで作品を作りたいと思ったのですが、退去命令の手紙をコピーしてあっちこっちにばらまくだけでは芸がないから、何かもう1つ付け加えてみたい、ひねってみたいという風に思ってできたのが、壁面に展示してあるポスターの作品です。ちょっと文章を読んでいただければわかるのですが、結婚の相手としての男性に何を求めるのか、条項などをリストアップしています。最後の結論は、ともかく人種差別主義者ではなくて結婚できるような状態にある人、そしてEUの市民権を持っていることなどです。これさえクリアすればあとは、とやかく言わない、というのがポイントです。
『ME』シリーズは、やはり自分はビジュアルアーティストだという自覚があったので、自分なりに描いてきたものをどうやってビジュアルアートとして表現ができるのかと考え、ビデオという手段があるのではないかということに思い至りました。ビデオをやるからには、撮る対象を自分にしておくのが一番楽ではないかとも思いました。撮影方法は、三脚を立ててその上にカメラを乗せて、その前で自分で演じます。私の使っていたカメラにはリモコンがついていなかったし、リモコンというものがよく分かっていなかったのでそれも使っていませんでした。そんなに意図していなかったんですけど、映像にはユーモアの要素が入ってきてたようでした。これを見たらみんなが笑いだしたし、友人はこの作品を見て、あなたらしいと言いました。確かに、私がそれまで手がけてきた作品に比べて、効率的で効果的に自分のメッセージを伝えられ、しかもそうした評価も出てきました。

岡部: ポスター作品に関する質問ですが、これは「Wanted」(求む)というポスターを実際に街に貼ったわけですよね。メール番号とかも書いてあるわけですが、どのくらいの人からどういう契約結婚のオファーがあったのかを伺えればと思います。 ガゼル: 確かに最初の作品は街中に貼りました。今回と同じA3サイズです。メルアドなども書いてあり、その後、インターネットにも載せたり、パフォーマンスをしたりするときや展覧会でもこの作品を出品しました。そういう風に何年間も経っていますので、今までに本当に沢山のメールが来て、何通来ているか数え切れないくらいあります。もちろん中には、アイロニーや芸術的な目的になぜか全く気がつかず、真面目にこの人は結婚相手を探していると信じ込んで、真剣に結婚してもいいですよ、というメールをくれる方もいらっしゃいます。例えば、カナダのベトナム人の場合には自分の人生が今までどうであったのかを全部説明して結婚しましょう、というお誘いを受けたこともあります。ただなかには、何をやろうとしているのかを全部読み解いて、よくやったとか、してやったりだという風に言ってくれる人もいます。ありとあらゆる返事や連絡がきています。

 

■ガゼルのユーモア:シリン・ネッシャットとの相違

嶋田: もう1つ、これ私のコメントというか観客の人に対するコメントに近いんですけれども、数日前、彼女に慶應大学のクラスでもトークしてもらいました。その時の学生の質問が、いろんな所で発表されてますが、国よって反応はどうでしたかというものでした。それに対して彼女は、移民問題がかなり長い間社会問題として顕在化して、それに対する議論が活発になされているフランスとかドイツでは結構どっと笑うような反応があるのですが、スペインでは移民問題がわりと最近の事象で、それに対応するときにタブーのような感覚があるらしく、特にその当事者である彼女を目の前にして、笑っていいものだろうか、という困惑があり、スペインではみんな全然笑わなかったんですよ、といいました。それを聞いて、そしたら日本ではどうなんだろう、と思ったんですね。日本では今はイスラム系の移民に関してのことはそれほど社会問題として顕在化していないですけれども、別の異民族の問題は当然日本にもあるわけです。例えば、もし在日韓国/朝鮮人の女性のアーティストがチマチョゴリを着て、こういう風なビデオアートを作ったとしたら、日本人の観客はそれを笑えるのだろうか、それに対してどういう風なリアクションを持てるのだろうか、というのをすごく思ったんです。それというのも、ガゼルのステートメントの中に、彼女のこの作品はチャドルというローカルの象徴を使っているし、ここに出ているのは彼女自身だが、それは決して、この作品が単にそのガゼルという女性の個人的な問題を表象したものではない、とあったんです。最初の初期の作品は自伝的なものもあったのですが、次第に自分の問題だけれどもやっぱり人間の問題で、もっと普遍的な問題であると言う風に自分で考えるようになった。だからこれはある地域特有のある民族特有の問題としては捉えてほしくない、と。ですから観客はこれを、ああイランはこうなのね、とかイラン女性は大変ねという理解で留まっては欲しくないと思います。『ME』というのはガゼルであると共に私ではないのか、わたしにとって『ME』というのは誰なんだろう、そして、この『ME』が提示しているものは、この私達の今住んでいる社会でどう作用するものだろう、ということを考えながら見てほしいなと、観客の方へのコメントですが。

ガゼル: ご指摘の通りで、スペインではやはりイスラム圏からの移民が比較的新しいもので、チャドルを見てしまったらそこで止まってしまう訳です。スウェーデン、デンマークもしかりでした。チャドルを見ると、あ、イスラム。あ、テロ。という感じになってしまい、それから先の所にどうも思いがおよばないのか、おじけづいてしまうのか、決まりきった、紋切り型の考え方でしか対処できないのかもしれません。ところがフランスやドイツでは、チャドルの向こうに何があるのかを見透かすことができ、それに対して反応しているように思います。同様の反応、すなわちチャドルを超えた次元で見ることができた観客と出会ったのは、クロアチア、ボスニア、チリなどでした。チリの場合にはチャドルは単なるローカルなシンボルにすぎないということをすぐさまつかんで頂けたので、やはり観客次第というところがあったと思います。スウェーデン、スペインでは、政治的にちょっといけないことかもしれないと思って、笑うのもやや控えてしまう、そういうことさえ思いとどまってしまうという反応になっていました。

岡部: チャドル=テロといったイメージに対して私の方から少しコメントをさせて頂きます。今、広島市現代美術館で2005年の広島賞を受賞したシリン・ネシャットというイラン出身の女性のアーティストの個展が開催されています。写真とあとはほとんどが映像インスタレーションで、最初の展示室に入ると、彼女が自分の顔にペルシャ文字で文章を書き、機関銃を構えた写真が展示されているんですね。シリン・ネシャットはガゼルさんより一世代ほど年上になります。シリン・ネシャットと私はインタビューをしたことがあり、『アートと女性と映像』という本の中で紹介してますが、この本には嶋田さんへのインタビューも掲載させていただいています。その本が出版されたのは2003年で、私がガゼルさんの作品を知ったのが、ちょうどその年でしたから、残念ながらその本には彼女についてのコメントはありません。
ネシャットの作品に関しては、嶋田さんの方からもコメントをいただきたいと思います。ネシャットの場合は、まず現代アートのシーンに初めて登場したイランの女性作家という位置があります。彼女もチャドルを使っているわけですが、観客がチャドルに対して感じている固定観念やイメージを非常に分かりやすく構造的に使用していて、チャドルに象徴される女性と男性の差であるとかを物語として映像の中に取り込んで表現しています。そういう意味で大変表現力もあり、大きなインパクトを与えて、世界的に有名になったアーティストです。10歳ほど若いガゼルさんの場合は、イスラムを他者的に分析してみせるシリン・ネシャットに対しての、ある意味では、内部からの反発もあるのではないか、という気が私にはします。つまり『ME』を見ていると、チャドルに象徴されているのは、たんなるイスラムという視覚的な文明といった世界的な問題だけではない、むしろ彼女の場合はだれでもがもちやすいチャドルやイスラムという固定観念を破りたいという意志から出発しているのではないか。彼女の作品を知れば知るほど、自分の中にもなんらかの固定観念があったのではないかと、反省も感じられてきて、どんどん理解が深まっていった作家といえます。

ガゼル: 私のほうからも1つ補足しておきたいのですが、私とシリン・ネシャットの違いは、世代が違うということだけではなく、シリン・ネシャットは17歳の時にイランを離れて、帰国せず、ずっと外国(米国)で暮らしてきました。言い換えますと、彼女はイランでイスラム革命が起きる前に国を離れ、イスラム革命そのもの、その後の政治状況の変化、イラン・イラク戦争その他もろもろをイランにおいては経験していないということです。これが非常に大きく働いているんではないか。イラン在住の人間であるなら、私はそうなんですけど、全く違う捉え方、経験の仕方、考え方を持っていると思います。例えば、私の場合ですと、武器を持って戦争に関わった女性達のことを思い出しますし、それを自分の作品の支えにして、例えばそれをユーモアの要素とかの対象にするなどは到底ありえません。自分としては絶対できないことです。もう1つは見解の違いですが、例えば中国は様々な変化をここ数十年間で経験してきていますが、あれを中国において経験している中国人の持っている物の捉え方や経験と、ずっと外国、例えばニューヨークに住んでいる中国人だと違って見えてくるのではないかと思います。シリン・ネシャットの持っている視点と私達の持っている視点の間でもそうした相違があるのではないか。ネシャットは、私と同じくらい生粋のイランの人間だけれども、物事の見方、捉え方、受けとめ方は微妙によそから見ている、外から見ているようなものになっているのではないか。例えば、私達の場合でしたら、ヴェールを被るということについても違った捉え方、内からの視点を持っていますが、彼女の場合は外からの視点が入ってくるのではないか。やはり現地で革命の時期と戦争を経験してきた人間の違いではないか。ただし、それから1つ強調させて頂きたいのは、彼女も私と同じくらい生粋のイランの人間で、見解が全く異なるかもしれないけれども、彼女が表現し発言していく自由については、私はもちろん大いに納得し賛成しているということです。

嶋田: シリン・ネシャットの作品について、私は観客としての立場から言いますけれども、彼女の作品も初期のものは女性のチャドルから銃が出ていたり、女性の顔にこうペルシャ文字が書いてあるものでした。彼女はその後ビデオですごく有名になったんですけれども、その作品と初期の作品との間には何らかの転機があると思います。私はどちらかというと、初期の作品に非常に魅かれます。自分自身の作品の中でもあるんですけども、女性と戦争の暴力性というのが直結した関係性を描いているところです。それが後期、今のビデオの作品ですと、スクリーンを2分割したり技術的には非常に素晴らしいですしビジュアル的に驚かされるのですけど、どうしても見る側としてはそのように男性/女性、欧米/非欧米の対立も含めて、内容が色々な意味でシンプルになってしまったという風な感じを持ちます。でも、2つのスクリーンで見せるビデオに入ってからの方が欧米での人気は圧倒的に高まったんですね。それを考えると、欧米の観客には非欧米の世界をより分かりやすくしたものが受けるという現実や、欧米の観客のアートに対する消費の仕方にも問題があるのではないかと思います。

岡部: シリン・ネシャットとガゼルさんの1番大きな差は、ガゼルさんの作品の中核にあるのがユーモアだとしたら、ネシャットにはそれがあまり感じられないことです。ネシャットは最新作では狂気の方へと向かい、ますますシリアスになっています。例えば子供を持ちたいと思いながらも持てない女性が、精神を病んで、動けず、子どもに囲まれた楽園を夢見ながら死んでいくといった映像もあります。身動きできずに、どんどん深みにはまり、狂気に蝕まれていくという状況は、シリン・ネシャットがデヴューしてから起きたイラク戦争と、現在、彼女が活動している米国における彼女自身の困難な立場も象徴しているのではないかと思っています。一方、ガゼルさんの作品を見ていると、現実に取り囲まれている私達がそれに対して一定の距離を保ち、自分自身を客観的に見ながら、ある意味で現実を乗り越えていくための幾つかの解答を出してくれているような感じがします。シリン・ネシャットはすごくいい作家だと思いますけれども、最近はますますシリアスになって少々きついんですね。ユーモアの力は素晴らしい。人生にとても重要だなと思います。

ガゼル: 実は、2001年にロンドンのバービカンセンターで大規模なイラン人作家を取り上げた展覧会があった時、オープニングに60人くらいのイラン人が次々とやってきて私を抱きしめてキスをしたんですね。なんで急に私はもてだしたんだろうと思ったら、ユーモアを使ってくれてありがとう、とひたすらみなさんがおっしゃったんです。今まではユーモアを使った作品がまったくなかったけれども、君がやってくれたから本当にありがたい、ということでした。シリン・ネシャットは個人的な知り合いで、彼女自身は素晴らしくユーモラスな人なんです。ユーモアのセンスもありますが、作品ではそれを出していません。その理由をイラン人の特性として2つ挙げられると思います。イラン人のユーモアともう1つ、詩人としてのイラン人があり、イランの詩歌は非常に有名で、みなさんもよくご存知かもしれませんが、イランの映画監督アッバス・キアロスタミを始め、数多くの芸術家は詩人としての面をとにかく使わねばならないと考えています。もちろんキアロスタミのように何をやってもポエティックに仕上げてしまう技は大抵の人は持っていませんので、なかなかそこに行きつかない訳です。それでユーモアを使おうとすると、ポエティックなほうが大事なのではないかと皆さんに雷を落とされるわけです。ただやはり人間としてはポエティックな面よりもユーモラスな面の方が、誰でも重要だと思っているんではないでしょうか。私があえてユーモアを使っていたので、展覧会の時、イランの方々から嬉しかった、ありがたかったと感謝して頂けたんだと思います。

 

■チャドルによる移民の表象/言語によるユーモアの差

岡部: そろそろ会場の方々からも、質問やコメントをお受けしたいと思います。

観客: 先ほど、嶋田さんのコメントでもあったように、『ME』シリーズが各国で受け止め方が違ったとお話しになりましたが、スペインはもともとイスラム文化圏だった歴史があるのに、どうしてガゼルさんの作品への理解ができなかったのでしょうか。それと、日本の観客の反応はいかがでしょうか。

ガゼル: デンマーク、スウェーデン、スペインといった国々は最近になって海外からの移民を本格的に受け入れるようになり、それに比べてドイツなどはご存知のように本当に長い間に渡ってイスラム圏などの移民を受け入れてきていているためだと思います。面白かったのは、イギリスの中でもスコットランドやアイルランドの人達は非常にオープンですが、大英帝国(イングランド)は植民地意識が高いのか、非常に優越感を持っているというのか、質問する質問が全部ばかげていて宇宙人扱いされているという感じでした。それでたとえば最後に、質問をぶつけてきた人に対して、私も御飯も食べますし、飲み物も飲みますし、ちゃんと夜眠らないとやっていけない普通の人間で、別にイラン人代表じゃないし、イスラム女性全員の代表じゃないし、イスラム女性としての私を見たからといって、そうしたすべてを代弁するわけではない、たんなる1人の人間として見てください、と言わなければいけないような感じさえしました。日本に着いてまだ間もないので、観客のみなさんからの反応や反響を直接伺うところまでいっていません。お答えできにくい状態という感じです。

岡部: 日本においては、まずチャドルを着ている女性という存在が、街で見られるかといえばそうではないですね。イランの移民の方はかなりいらっしゃるけれども、実際にはすぐには見分けがつかない形で住んでいらっしゃると思います。ところが昨日おもしろいことに、ガゼルさんや嶋田さんや友達の方々と大勢で一緒に中華料理を夜食べたのですが、たまたまその近くにイランのレストランがあり、ガゼルさんは見つけて大喜びしていたんです。そんな風に都会に溶け込んでいるんだけど、ヨーロッパのようには、日本でチャドルを着た女性に会うことは少ない。ですから、チャドルの女イコール移民という反応自体が日本ではないのではないでしょうか。そこがガゼルさんが話されている国々との大きな違いのように思います。

嶋田: 先日の慶應でのクラスでは生徒がけっこうみんな笑ったり、リアクションがあったんですね。それはひとつには帰国子女が多いので、通訳なしで全部英語で理解できたという事があります。そこで言葉の問題も考えないといけないと思います。作品のタイトルは英語で書いてありまして、グリーティングカードに出てくるようなノンシャランとした常套句の妙な面白さがあるんですけど、そのへんのニュアンスとか、それと映像の微妙なコントラストとか、そういうところは言葉のバリアというのもあるのかな、と思いました。

ガゼル: 他の国でも大学によって、講演した時に、全く笑わない観衆もいれば、ものすごく笑いころげる観衆もいます。言葉の違いもあるのか、英語の字幕を読んでいるのか、日本語を読んでいるのかといった違いもあるように思います。バルセロナで展示した時は、カタロニア語に訳したのですが、同じような問題がありました。字幕をつけると全く新しい作品になってしまうのではないか。この間、武蔵野美術大学での講演のとき、今、通訳してくださっている横田さんにやはりお願いしたのですが、私はこれっぽちしか言っていないのに、かなり要約してたのですが、日本語にすると、ギリシャ語と同じくらいに長くて細かくてびっくりしました。そういった言葉による特性の違いもあるのではないでしょうか。

岡部: しかもとてもおかしかったのは、横田さんは通訳してくださりながら、英語の字幕などで、訳さなくではいけないものもあったりして、つねに英語を読んでいますので、一人でものすごくよく笑ってるんですね。ああ、英語読んで笑ってるんだと思っていました。だから日本語にすると、言語としてなぜかユーモアを含みにくいところがあるのかなと感じたりしました。

ガゼル: 実はイランでこの作品を展示しても同じ問題が出てきます。キャプションを読んで分かる人達にはそこのところでうけるんです。でも、中には純然たる映像作品たるもの字幕なぞに頼ってはならないと私もよく叱られて、キャプションには目をつぶってそれは読まず、コメディよりも作品本体を理解しようとする人達もいます。そしてもう一つは、アイデンティティについて探っている作品ですが、アイデンティティの要素のひとつとして英語という言語が出てきている問題です。イラン人の目から見たら、私自身の内面をすべてさらけだしていることから、裸も同然、自分の体をそのまま裸にして出しているも同然だということで、それだけでみなさんから問題視されるわけです。そして、ペルシャ語の字幕をつけてしまうと、先ほど言いましたように言葉の長さの問題もあり、またペルシャの言葉は含みを持たせる表現が多いので、断るにも本当に断ったということが分からないくらいの婉曲な断り方が何千もあると言われているような言語ですので、ペルシャ語だと、なかなかメッセージを伝えにくいのです。作品自体はご覧いただけますように極めて直接的で、直裁的に伝えるものだという問題があるわけです。

岡部: ペルシャ語は日本語以上に婉曲話法のようですね。他に何か、質問はないでしょうか?

観客: 今日は、貴重な作品を見せていただき、すごく光栄でした。まだ着いたばかりであまり見ていないので、ゆっくり見させてもらおうと思っています。先程スペインでは移民問題がまだ新しいけれど、フランス・ドイツには移民問題が古くからあるために、リアクションが違うとおっしゃられて、スペインではチャドル=テロリストみたいな単純的な反応で真剣に受け止められて、フランス・ドイツではチャドルの向こう側のものを感じて笑えるというお話だったと思います。チャドルの向こう側にあるものというのは具体的にどういったものと考えていらっしゃいますか。

ガゼル: スペインについてですが、展示していたスペインの街は、バルセロナという1番国際化されている街で、観光地でもありますが、現在北アフリカからの移民が大勢入ってきています。まだイスラムの人達を見慣れていないということもあるのか、ここで笑ったものかどうかちょっと分からないというところがありました。展覧会の時期に宿泊した時、移民協会の人も2人いて、そのメンバーは全く展覧会の内容には興味がないのが丸わかりでしたが、一応こういった催事があるので、自分達はいて関わっているという程度で出席していたようです。それくらい移民問題は日が浅い訳です。
チャドルですが、私にとっては、あくまでもイランのローカルなもののモチーフで使っていることを分かってもらえているかどうかがポイントです。つまりフランス人だったら、たとえば、一番フランス人らしい格好としてはトップレスをやってもらう手もあるでしょうし、アメリカ人だったらカウボーイハット、日本人だったら着物を着て、同じような形で行為をしていくと考えていただければ、私がなぜチャドルを使うのか、何を伝えたいのかがお分かりになるのではないでしょうか。最近は、この作品の中でのチャドルの要素は極めてグラフィックな物になってきています。チャップリンの山高帽とステッキのようなものだね、と最近言われ、とっても嬉しかったです。もちろん私はチャップリンのように素晴らしくはないですけども。そういった感じで、あ、この作品は、この作者ね、と皆さんに分かってもらえたらといいなと思います。

 

■男性によるガゼル作品のとらえ方の違い

岡部: 嶋田さんの方から、コメント、あるいは質問はないでしょうか。嶋田:ガゼルさんは、初期の作品では自分の女性性ということを考えていたが、今は、チャドルの中身は女性でなくても、女性でも男性でもいいんだと言っていらっしゃいました。作家の意識としてはそうでしょうが、観客の受け取り方はどうなのでしょう。また、先ほどいろんな国でさまざまな受けとめ方の違いがあるとおっしゃいましたけれども、男性の観客と女性の観客でその受けとめ方の違いがあったかどうかを伺いたいと思います。

ガゼル: 裸になっているようなもんだ、というのは男性からのコメントです。ロミオ・カセロッジという非常に有名なイタリアの演劇関係プロデューサーが、最近ヴェネチアで行われた演劇フェスティバルに私を招いてくれました。その時、演劇やってないじゃん、ということからけっこうつけあがられたんですけど、ビデオ作家であることを百も承知なくせしてなんで呼んだのだろうと思っていました。ロミオさんが言うには、身体と空間の使い方について興味があり、見るべき物がある上に、幽霊という存在がよろしいと言われ、チャドルを着た私は初めて幽霊扱いされたのが面白かったです。あるフランス人の男性に言われたのは、木の幹に顔がついているみたいでそれがいいということでした。現在、ヨーロッパのお二方からはこうした具体的なコメントを頂いていますが、イランの男の方からは裸のようだ、と言われてしまっているわけです。またイランのべつの男性は、ある記事で、ガゼルの作品は私の母と全てのイラン人の母親に対して暴挙をふるったとも指摘しています。そうした人達に対して泥を塗ったようなものだと書かれたのです。私は非常にショックを受け、なんでそんなことを書いたのと聞いたら、その人が言うには、例えばトイレの上にチャドルを着たまま座っていたり、チャドルを着たまま風呂桶の中に入っていたりしてるではないか、イランの女性はみんなこういうことをすると思われてしまう。私の母とすべてのイラン人の母親に対して、あなたは屈辱的なことをやっていることになると説明されました。こういった見方は、結局「私=ME」という個人が存在するのではなくて、いつも「私達=US」という集合体としてしか見られてない。チャドルを着ているということから、全ての母親だったり全ての女性であったりして同一視されているわけです。またガゼルというファーストネームの名前だけで作家の仕事をしていて、ファミリーネームを使っていないこともあります。日本ではどうなんでしょうか。イランの学校ですと、高校になると、例えばガゼル・○○という、家族の名前だけで呼び捨てにされます。田中花子だったら田中だけで呼ばれていく。言い換えると、どこまでいってもその名前の男の娘であり、誰かの兄弟、姉妹であると組分けされる訳です。そういったことにうんざりしていたので、私は苗字を切り捨て、自分の姓を使わないようにしています。だからそれを失礼だと怒る権利があるのはうちの父なんですが、父は最初から分かってくれていて、私の作品を見て笑っていますし、私がなぜそういう風にしたいのかも尊重してくれています。

岡部: ガゼルさんからご家庭の話を聞きましたら、大変インターナショナルなご家族で、アメリカで勉強している方がいるとか、お父様だったかお祖父様だったかが、丹下健三と一緒に写真を撮ったことがあると話してくれました。ですから、ご自分でもおっしゃっていましたが、自分がとても開放されていて、自由にやれるのは自分の家族の問題でもあり、必ずしもイランの平均的な女性の生き方という風には言えないとおっしゃっていました。

ガゼル: だからこそ私は、イランを代表するとか、イランの典型的な娘だという扱いをされるととても腹がたつんです。今岡部先生が補足してくれたように、私は非常に家族に恵まれていて、典型的なイランの家族では到底ありえないと思っています。例えば、私はアメリカ英語を喋りますが、ずっとインターナショナルスクールで教育を受けてきたからです。私の家庭では男女平等の扱いを受けてきました。女の子だったけれども、喧嘩することは全く平気だったし、兄よりも先に私は海外に留学しました。父はアートをやっても非常に面白がってくれたし、家族の名前を使わなくても、どんどんやりなさいと応援してくれた訳です。ところが、同じ父方の親戚で、父の男兄弟の叔父の娘だったら、そんなことをやった日には絶対勘当されるのは分かっています。到底、許されなかったことも分かっています。父も海外に留学していたためで、父と同じ兄弟でも見方はとても違います。アーティストになると宣言した時にも、いとこは皆エンジニアになっていますが、全然問題はありませんでした。イランといっても人それぞれであり、自分自身でも非常にありがたく思っているのは、5年間ですが、ストリートチルドレンと一緒に仕事をすることができたことです。不良少年や受刑者で、大人になってからイランに戻ってそういう人たちと一緒に実際に働くことができたことから、私はイランとつながりがあるし、イランに対して、よそ者ではない目で見ることができます。そういう体験を持っているということも、大変ありがたく思っています。

岡部: そろそろ時間になりましたので、一応これでトークは終わらせて頂きます。嶋田さんやガゼルさんのトーク、そして素晴らしい通訳をして下さった横田佳世子さんのおかげで、みなさんもイランに対する固定観念が少し揺らいできたのではないでしょうか。さらに作品を見ていただいて、イランに対して、あるいはガゼルさんの作品に対して、どういうような思いを抱いたかをアンケートなどに書いて頂ければ、あとでガゼルさんのほうにお伝えします。では、長い間どうもありがとうございました。
(テープ起こし:長尾衣里子)