ギャラリートーク

渡辺紅月x加藤義夫

加藤義夫: 今回はαMプロジェクト「生命の部屋」ということで、第3回目は渡辺紅月さんです。彼女は京都在住で大阪芸術大学を出られて、ペインティングの仕事をされています。誰でも幼い頃にまず鉛筆やクレヨンなどを持って絵を描き出すと思うんですけれども、そういう思いがずっと続く人は非常に少ないと思います。そこで、渡辺さんがずっと絵を描いていく原動力というかモチベーションとは何かとお伺いしたい。

渡辺紅月: とにかく絵を描かなきゃ死んでしまうみたいなレベルのお話で、絵を描かなければどこかネジが飛んでいってしまうような、壊れていくような、精神の中庸をはかっているような意味もあります。

加藤: それはアーティストにとって非常に重要で、そういう人でなければなかなか続けていくことができないというか、食事をするように空気を吸うように、必然性の中で絵を描く人はたくさんいますが、あるクオリティやレベルをもって制作活動をして発表していくということになると限られた人たちで、あるレベルでコンスタントに発表ができ評価を受けるというのは少ないと思うんです。そのような評価が何もなくても描いていけます?発表せずに。

渡辺: 発表はするかも。自分が見たい絵を描くというか、よくコラージュもしますが、こういうのも自分が見つけてきた宝物とか、過ごしてきた時間経過というのを自分で再確認をする意味もあります。あるいはどこかで見つけた宝物をみんなに見せたいなというのはあります。でも結局のところ、自分が見たい絵を描いているという部分がすごく大きいかもしれないですね。発表はしたいです。

加藤: 自分が見たいものを作って、それを不特定多数の人に見てもらって共感して欲しい。そこでですね、渡辺紅月さんと私との見解には結構隔たりがあります。僕は出来上がって送られてきた時に、わ、怖いと思ったんですよ。しかし、渡辺さん自身は、非常に可愛いものを描いているんだと。特に、男性は僕に近いような反応を絵に対して示すけれども、女性は意外に可愛い、よくわかる、懐かしいということを言うそうです。僕は、男性に生まれて男性という形で育ってきたので、その感覚が掴めないのは残念でありますが、男性と女性が見て感じるものが、渡辺さんの作品には隔たりがあるというのは、本人的にはそれは面白いことなのか、もう少し男の人にもこの感覚をわかって欲しいということなのか。

渡辺: 今回の展覧会は特に、男性と女性の感じ方の違いが興味深いです。私はやはり基本にあるのは自分が見たい絵、楽しいことなんですね。昔からリカちゃんが好きで、洋服はパフスリーブで、フリルがたくさんついているワンピースをお出かけの時着てたなとか、子供の時から持っている日常の世界というものを形にしようと試みています。ある意味私は小さい時から傍観者で、自分だけれども自分じゃない自分というのがあって、わかりやすく言うと心の病気だったのでしょうか。家の中では普通に家族とお話できるんだけれども、外に出ると声が出なくなっちゃう病気で、外に全然出られなくって、母親に描くものを与えられて、学校に行かないままずっと幼少の頃はお絵描きをしていました。それが大人になった今でも残っていて、どこかに行ってもいつの間にか傍観者になっているのですよね。私が今ここで接しなくてはいけないんだけれども、すごく遠くから見ている感じで、そこでパタッと耳に栓をしてしまう感じになったりします。そういう意味では例えば、男性と自分の距離というのはわかりませんけれども、女性の中での自分の距離とかは。

加藤: 子供の頃の事で原風景や原体験といって、表現する人にとって非常に重要な基盤になってきたりするんですけれども、自分で何か人と違うというような感覚だったのか?できない自分を子供なりにどう受け止めていたの?

渡辺: 子供の時は、自分がとても大人だと思っていたんですね。子供だった時にすごく大人だったので、今、大人になってもう一度楽しいことをやり直しているという部分が非常に大きいんです。

加藤: 子供の頃の、そういうことがひとつの出来事としてあるんですね。それから絵を描くことで精神的なバランスが取れるという人は多いんですけれども、子供の頃は無自覚に今楽しいからで、精神を安定させようと思って描くわけではないから、大人になると自我が目覚めて自覚的に描こうと思うようになりますが、渡辺さんはいつ頃から画家になろう、アーティストを目指そうとなって、美術の世界で仕事をしていこうと思ったんですか?

渡辺: そうですね。多分これしかできないから絵を描く仕事しかできないんだろうなというのは子供の時から思っていました。私はすごく頑固なんですね。思ったことは絶対曲げないし、やるからには自分の望むところにいつもいたいというのがあって、そのためだったら別に物質的苦労であったり、他の部分は全部削ぎ落としてもありなんです。

加藤: これは渡辺さんの世界なんだなとなってきたと思います。その中には渡辺さんの心の中の部屋や世界みたいなところが出てくるものがあり、日常的に色々な刺激を受けて、それがストレスなのかわからないけれど、ある時にゲボッと吐き出すというような感じを受けました。猫の毛玉かもしれないけれど、えっ大丈夫というようなびっくりの仕方を僕はして。でも、猫ってけろっとしているじゃないですか。毛玉が詰まると死ぬから、飲み込んでおけというと渡辺さんも死んでしまうかもしれないですけど。ゲボッというのはどんな感じですか?

渡辺: 私自身は日常社会の色々なストレスは、エネルギーに変えられる人なんですね。ですので、怒りをパワーに昇華できるんです。それをどうやって表現するかというと、私はこんな風に描きたいとか、この人について絶対描かなければだめだというのは、あるにはあるんですが、見てこれ面白い、イタダキ!みたいに面白いものを頭の引き出しに入れておいて、発酵させるために時間をかけます。たまに忘れたりもしますが、ある時に絵を描こうと白いキャンバスを2、30点並べた時に、その時の気分の絵の具、今使いたい色を載せてみて、画面を汚してみるんですね。そこから、キャンバスからこんな風に描いて欲しいみたいな声、像が浮き上がってくるので、それを線で追っていくとこういう風な作品ができて、やっと頭と手がキャンバスの上で合致するみたいな絵が描けてしまう。

加藤: そうするとあまりエスキースできっちり下絵を描くことはしなくて、すぐ本チャンというか。

渡辺: 一発ですね。自分でその風景を見て写生すると私の絵は死んでしまうので、見て帰ることが多いんですが、あるいは写真に撮って、思い出すんですね。だから、下書きをしたら絵が死んでしまうので、ほぼしません。

加藤: ずっとキャンバスとにらめっこしているのが多いんだね。

渡辺: 多いです。描けない時に無理に描いちゃだめなんですよね。筆が進まなくなったら違うアプローチで画面を汚してみて、もちろん気に入らない、不本意な塗りって感じじゃないですか。それを一回消すんですね。そして消したら何か行為の後の残像、痕跡が残って、それはそれでひとつの空間ができて、汚すことも出来たし何かを孕んだ空間が出来て、またそこから新たな違う像が出てくるんですね。

加藤: 深まるというか、予定調和で作ると結構単純でつまらない構造しかできないけれども、一回壊すことによって違う像が浮かび上がってくるという感じ。

渡辺: 取りあえず、壊す、破壊することから始めることが多い。

加藤: そういう意味でいうと、兵庫県立美術館で「ジャコメッティ展」を見たんですけれども、ジャコメッティという人の彫刻よりタブローの執拗なるイメージの追及というか、出てくるものをまた消し、また捨て何ヶ月もやっているという、あれはあれで怖いというのがあります。ああいうちょっと執拗な部分も、渡辺さんの中に見えるんですよね。イメージがありきではなくて、イメージは何処かから配達されてくる、それを拾う、キャッチできればどんどん拡がるという巫女体質みたいなところがあるかなと書きました。そこで自分とは何かというところを吐き出して見るというのが、欲望として楽しみになったりしていますか?自分ではなくて、自分が描いたものだけれども自分で描いたと思えないという感覚はありますか?

渡辺: そういうのもあるかもしれない。筆の中の一本みたいな。絵を描く時って、同じ音楽をずっと何度も聴きながら仕事をしているんですね。ある意味オートマティカリーで、同じ音楽を同じ時間にスイッチを入れて、同じ場所でずっとです。

加藤: テンションが上がって、違う世界、自分の心の中の世界とはまた違う扉に入って行ったりするのかな?

渡辺: そうですね。今ふと思ったんだけれど、絵のバランスを取り始めたら、取りあえず崩します。何でこんな事をしちゃっているの、ここにあった方が絶対見やすい絵なのにと思われる、わざと不均衡の均衡を求めます。あえて、タイトルも手がかりがあるようでないタイトルであったりします。そのような不均衡、距離感が自分でもすごく面白いですね。

加藤: 微妙なバランスで保たれている画面、空間。それは私とも言えるんだね。壊れかけ、バランスのせめぎ合いをしているという感じかな。

加藤:今回は渡辺さんから副題をつけたいという要望がありました。これは主題なのかもしれないけれども、「Body Sacrosanct」というのはどういう意味でつけられたんですか?


渡辺:まさに今年始まってから今まで思った、今年のキーワードみたいなものです。今年は、本当に肉体って何だろうとすごい考えていました。私は春に修道院で過ごしたり、心理カウンセラーのところに行ってみて、自分の正体って何だろうと突き止めてみたかったし、まったく違うアプローチで、自分がしたことのないことをしてみました。そういった経過をふまえてできあがった新作をたくさん持ってきたので、キーワードとなるもの、聖なる体といいますか、魂の入れ物といいますか。

加藤: 魂の入れ物というのは、肉体というのを物として考えているのか、精神と同等のものと考えているのか?

渡辺: 同等ですね。不自由さゆえの限界を感じながらも、それはやはり聖なるものだし、修道院に行って魂が上に向かうと、肉体もついてくるというか、肉体の中のさらに肉体があります。過酷な労働、朝から畑を耕したり、お祈りをして、お部屋の掃除をして、鼠と戦いなど色々やっているんですけれど、早朝から夜中まで体を持っていることとは何だろうとずっと考えていました。

加藤: 今修道院とおっしゃいましたけど、いわゆる宗教のようなものを、自分の精神性の核にしているところがあったりするんですか?

渡辺: やっぱり芸術と宗教というのは密接な関わりがあると思うし、私の中では線路みたいな意味があります。わからないけどまっすぐ行っているような感じがあります。

加藤: その宗教というのはキリスト教で、正教といわれる原形みたいなものですか?

渡辺: 原形ですね。

加藤: 日本人は宗教心がないっていわれて、本当は色々なところにあるんですけれども、ただ単一の唯一神にのめり込めるわけではなくて、自分の精神の支柱みたいなのを作ってそれにプラス表現として自分のものとしていきます。渡辺さん自身は表現の部分で芸術と宗教という部分では、どう反映しているんですか?

渡辺: 神様の絵を描こうとか啓示を描こうというのは思っていません。私は今この時代に日本に生きてて、絵を描く使命を与えられていると自分で思っているので、特に神様のどうこうを描いてやろうというのではなくて、滲み出てくる何かがあればいいんじゃないかなと。とか言いながら水玉のパンツとか描いたりするし、苺パンツとか。

加藤: 渡辺さんはひとつひとつの肉体と精神ということにかなりこだわりを持ってらっしゃるし、そのこだわりは何なのか?自然といえば自然なのだけれども、風景とかを描く人も多いじゃないですか?自然を描く、自然と対話するポジションの人は自己と自分というものをひとつ身を引いて眺めているのだけれども、肉体や精神というのはまさに私というのがあるし、他者というのもあるんだけれども、それはどんな感じですか?渡辺さんは、身体と言わずに肉体と言うでしょ。肉体と言うと肉という部分で、それがまず絵によく現れていると思うんですよ。渡辺さんの絵は身体と言わず、肉体と精神と言った方がすごく理解しやすいのかなと思ったりするんですが。肉体という言い方というのは、狩猟民族っぽい。聖なる肉体というのがあるのですかね?

渡辺: より血が通っているというか、リアルに生かされているイメージがするのは肉体という言い方だと思うし、ほぼ人生半分ぐらい生きちゃったけど、今折り返し地点ていうか、できなかったことを今やり直したいということが、段々絵を描きながら自分でわかってきたんですね。学校行けなくて、友達ともっと遊びたかったなとか。肉体と言えば自分の体とか、兄弟のことしか知らなくて、人との関わりが何なのか全然知らなくて、何となく描きながら今わかるような。

加藤: それは、幼少期の心の修復をしている?

渡辺: 最近描きながら、何かそういう気がしてきました。よりそういうもので聖なるものを求めるのがあるかもしれない。

加藤: ジプシーに興味あるというのは、パンフレットの文章に「さまよえる者達」と描きましたけれども、精神も肉体もさまよえる者が好きなんですか?

渡辺: 留まれないというか、どこにいても本当に居心地が悪くていたたまれないんですね。引っ越しの連続だった人生というのもあるんですけれども、自分の家が無いというか、自分の居場所がどこにいてもないんです。

加藤: ここにいていい場所を探しながらだと、しんどくなるのね。

渡辺: 絶対的な地点に至るまでは、居心地のいい場所はないと自分では判断したんです。

加藤: 永遠にさまよえる渡辺紅月だね。