ギャラリートーク

金田実生x加藤義夫

加藤義夫: 金田さんのイメージは、リーフレットのような作品だと思います。けれども、今回はドローイングの展覧会をしたいとおっしゃっていた。ただ、あまりにもイメージがわからなかったので、少しは前の作品と織り交ぜて作っていただきたいとお願いしました。ドローイングを今回は見せたいというところはどうゆうことでしょうか?

金田実生: 特別な意味は持っていなかったのですけれど…。大きなドローイングを描きたい時期だったんです。もともと、私は紙の作品を作っていまして、紙にドローイングを描いていたところから徐々に油彩の絵の具や素材を取り入れて描くようになりました。「紙の素材に描く」ということがここ数年の基盤になっていたのですが、最近では制作と素材の関係が少し進んで、「油彩とキャンバス」に戻るなど、双方の往復をしています。同じ油彩でも、紙に描く場合は吸収率の問題、取り消しがきかないこともあって、描いた痕跡が残っていきます。そんな物理的なこともあってドローイングのように集中して置いていきます。キャンバスに油彩だと、作品の向き合い方は本質的には一緒ですけれども、重ねていくとかまるっきり変化させるとか、変更可能なところがあります。自由にふるまえる反面、紙の作品の時よりも生々しさ、といったものからは離れていきます。今回は紙にドローイングという、もともと始めたきっかけになったことを、単純にまとめてやりたくなったということです。ドローイングのほうが、自分のナマの「生」みたいなものは直接に出ますので、そういったことを確かめたいという考えもありました。

加藤: 以前にアトリエに伺った時、スケッチブックだとか、小さな紙にはドローイングを日常的になさっていましたよね?

金田: そうですね。

加藤: それはひとつのアイディアソースになり、日頃の想いを、昇華されて描かれたものだとか、メモみたいなところもあると思うのですが、今回ドローイングというとかなり大きなサイズのものがここにありますね。このドローイングだと、作品として成立しないと難しくなるようなサイズになってきていると思います。小さなものを描くのと、意識はだいぶ違っているのでしょうか?

金田: そうですね、やはり、大きさ、スケール感というのは、自分の身体的な対応として、単純に視野の領域やストロークの変化も、小さい作品と大きなものとでは全然違います。内容では、改めて考えると、小さい作品は思いつくままに手の動きを写しとるようなところがあります。大きな作品は、一気に描き上げることもあるし、テーマを持って積み重ねていく場合もある。そのあたりはやはり、サイズの違いで変わってくるところです。ただ、これくらいの大きさは以前から作っていて、私としてはそんなに特別なサイズではないですね。

加藤: 今回、文章を書くときに参考にしたChiba Art Nowのインタビューの中で、動作について「心理的動作を書き留める」と書いてあります。

金田: 心理的動作とそこに記したのは、ワトソンとかも出てきて…。作品を作るということは「好き」という気持ちだけじゃできなくて、継続していくためには、他人からみれば些細なつまらないことだとしても、何か核になるものがみつけられて、それを追いかける、思考を繋げる衝動のようなものが必要だと思います。形式的に言えば主題ということになるかと思います。
作品を描き始めた頃は情熱で描いていて、そこから自分の主題を探し出すところに向かったのですが、私はいったい何を表現、描いていくのが自分の役割なのかな、と意識を持った時期がありました。そんな時、たとえば、電車に乗っていて、とても立派な身なりなのにとても疲労している人がいて…。表面とその内側を考えてしまうような人を見かけたりして気になったんですね。つまり、日常の流れの中で、人の行動や会話を耳にすることから、思考の動きや行方を考えたりしていることに気づきました。当時版画をやっていたのですが、それを表現として、描いていってみようかなと思いました。それで、人を、最近の作品は抽象的な形が多いですが、人っていうのがキイワードになっているんです。

加藤: Chiba Art Nowでインタビューを受けたときに、どうゆう人から影響を受けましたか?興味ありますか?という問いに「美術はカラヴァッジョで、美術以外では自然科学者のライアル・ワトソンである」とおっしゃっていましたね。

金田: 何でワトソンと言ったかというのは、ワトソンの様々な考えの元になっているのが、「人は水から生まれた」と「すべてのものは水から生まれた」という考えなのですけども。これは科学的な根拠に基づくもので、生命は水から発生し、進化した、というものですね。そこからワトソンは、動植物とか、人を含めて、あるいは人の作ったものに至るまで、存在のすべてを平等な目で見て捉えています。人類の知だけが突出していない、生命は同等だという考え方が、当時自分の考えていたこととよく似ていて、似ていてというには僭越ですけども、それで、ちょうど20年ぐらい前に、ワトソンの考え方を読みふけっていました。
人の生活が質的にどんどん発展してきたことで、ワトソンは、何か忘れてきてしまったものがあるのではないか、と問いています。人の叡智というか、本来備わる力がまだあるのではないかと。それが、その頃の自分の考えと似ていました。心理的動作の話にも繋がりますが、目に見える物質的なものではないものがあるな、と私も考えていたのです。ひとつには、言葉とか、存在するものが、確実に伝達されているかとか、そういった記憶や感覚的なことがらは受け取り方が違いますよね?同じ「優しい」という言葉を発しても、聞いた人によって、あるいは読んだ人によって、同じ言葉でも感触はそれぞれです。しかも、たとえばいろいろな場で、言葉として発声されていなくても、ある人が、何か考えるとしますよね。考えていることが表に出されなくても、もう、存在してしまっているじゃないですか。言葉がいろんな形になって動いていくとか、記憶の蓄えとか、わかっているつもりでいて変化してしまうもの、不確かなものを、不思議だけど当然だと思って、それらを描き留めていくことを始めました。ワトソンに触発されてというよりは、こういうこと考えててもいいのかな、と力づけられた感じです。

加藤: だから、見えないものを見えないものとして描こうとしているのですか?

金田: なぜ、人にまつわる、記憶ややりとりが気になるのかなと考えていくと、私は人間という種族です。たとえば、人は自分の都合のいいように事実を変えて記憶することもあります。人間が進めてきた、勉強や学習や学術的なこと、信仰も完全とは言えないかもしれない。たとえば、「宇宙の果て」っていう言葉はあるけども、誰か見たの?というのもあるし、「それは次元が違うらしいよ」と言われても想像がつかない。歴史も、習ってきたことが、簡単に覆されるということもありますし。人は進めていると思っているけれども、進んでいるのか、どうして人という種族だけが物質的な成果を求めて暮らすのか。動物は、病めば小さく静かに丸くなっているとか、植物も、人工的な状況下でもちゃんと自然の法則で生きている。花が人工的なライトに向かって伸びていく。自然だけじゃなくて人の手が加わった現代にちゃんと沿って生きている。つまり、はたして人間がどこまで知れて、何を理解しているのかとか、そういうことを考えてしまっているんですね。私が思うには、人間が確実に言えることっていうのは、「生まれてきたこと」と「死ぬこと」。「その間の時間」というのは過ごすもの。それしかないんじゃないかと。そんなことを考えながら描いています。じゃあ考えているだけでよくて、作品にしなくていいじゃないかということになるかもしれませんが、たぶんそれらの思考は作ってないと生まれていないから、作ることと考えることは表裏一体なところはあると思います。

加藤: ご自分が思いとか疑問とかいう部分の視覚化することで少しはすきっとするんですか?

金田: すきっとはしませんね。考えが終わらないから。普段、何気ない物事の道筋を追っていたりすると、最終的にはいつも、人の役割ってなんだろうな?というところに行きついてしまいます。私の作品を見てくださる方が、「すごくいろいろなモチーフがありますね。」とか、「抽象ですね」「具象ですね」と異なる意見を言ってくださるのですが、それは今言ったような、自分の考えがあちこちに行ったり来たりして彷徨っているからなのかもしれませんね。気がついたり、みつけたりしたもの、自分が本能的なところで気になったものを今は描き留めていく。それを現在進行形で申し上げるしかなくて、結論が出せません。

加藤: お聞きすると、「宇宙はどこからはじまったか」という話に近いですよね。それを毎日考えて、普通の人はやめるんですよ。でも金田さんはそれをまだ考えている。

金田: おっしゃるほどには濃厚に考えてはいないです。結論を、と言われてもそれを出せない曖昧さが今の自分の現状なので、正直にそれ以上はわかりません。

加藤: 人の動作とか心理とか理由とか温度とかにおいとか、そうゆうことを、ひとつの触発されたモチベーションとして芸術表現とされているような感じがしますが、生きるのしんどくないですか?(笑)

金田: 神経症みたいなところも意外とあるんですけども(笑)アートヒストリー的には自分は全然沿った仕事をしていないんじゃないかなと思いますが、描くことで考えるというところも自分自身としてはあるので、このままそういう形でやる人間がいてもいいかな、とは思っています。

加藤: 初めてご覧になる方だと、ちょっと、ぼやっとした光を感じるような全面に絵の具が塗ってあるものと、ドローイングといった、普通は抽象的なイメージとして捉えられるんですけども、一点ワンちゃん(犬)がそこに描かれていますよね?

金田: リーフレットにも一点犬の顔を入れていただきました。ここ数年また、顔を描いていて。もともと、人の動作とかそういうものから描き始めています。今までお話したように人の周辺に関わるものから作品を作っていますが、美術で言う抽象具象の枠は置いておいて、自分の表したい表現に沿って素直に作っていってもいいんじゃないかと思っています。この顔のシリーズの場合は、顔の表情とか、具体的な見え方が必要な作品でした。具象を描こう、というテーマではなくて、「犬」や「人」の形をもって、その心理や空気感を描こうと思いました。ある雰囲気とか、気配というのは具体的な形がないですよね。抽象的な作品も、作家が捉えた状況を具体的に表現している、と言えるかもしれない。逆に、具体的な形体をあらわしている作品も、必ずしもモチーフそのものを描いているのではないとも。あの犬の絵は、『疑いなく明日を待つ』、というタイトルにしたんですけど、犬というのは何があっても疑わず、まっすぐ無垢で、明日も生きますよ!というように、弱さと強さを持ち合わせていて、でも生命力がみなぎっている。そういったところを描くのに表情が入っていたほうが伝わると思いました。

加藤: 金田さんが描いている世界は、ミジンコとかね。非常にミクロの世界と宇宙というような大きな世界とつながるような星座というか星であったり星雲であったりするようなミクロとマクロというか、行ったり来たりしているような感じの印象があって、そのなかには、時空を飛び越えていくようなものもあります。それは、時間に限定されないで、現在というよりは、過去の、リーフレットに書いたように、何十億年前の記憶みたいな、生命の歴史。ということで、「生命の記憶への旅」というタイトルにしてるんですけども。

金田: 加藤さんがそんなに壮大に書いてくださるほどではなくて私の頭は全然小さくて。本当に自分が確認できる範囲のことをひとつずつ、小さな試行の積み重ねをしているだけです。

加藤: 日常生活のなかの不思議みたいなところ?

金田: どうしてもまとめますね?(笑)

加藤: まとめないけど(笑)第三者的な私と作者の間には見たらもう絶対的に見ている時間の量が違います。金田さんの絵を見ていると、もっと壮大な時間の中に自分の想像がかきたてられる。ミジンコから、宇宙というところまで広げてくれるというような力を持っている絵だなと。それは、空間としての広がりとか時間というものについて考えさせます。生とか死とか唯とか、かなり壮大な物語を秘めた絵だとおもって、気にいっています。

金田: 犬の散歩に毎日行っています。夜が多いですね。犬の散歩がなくても夜はとても静かで濃密ですごく感じやすくて。静かな集中できる空間にいろんなものを見ようとするという傾向はあるかもしれない。

加藤: 金田さんの想いとか考えとかイメージとかがずっと、アンテナのように入ってきた分は、昇華されて出て行くだろうと思いますが。匂いとか温度とか湿度とか様々なものを感知する機能センサーを持っている感じですね。

金田: 自然の強さのように、絶対的に感じる悦びっていうのにはかなわないと思ってるんですけども、でもやっぱり、人が作ったものじゃないと感じられないものとか、人が、人が作ったものだからこそ響くことっていうのがあるかもしれないと思っているので、そういう意味で、美術って、美の術って書きますけども、美の術を見つめる人、人でなければ表せない美、を作り出せたらいいな、とは思います。

加藤: 感じる、っていうのは五感だと思うんですけども、それ以外に第六感みたいなものもきっとある。そうゆうものを描いている?またものを描こうと思ってはいないと思っていますが…

金田: そういうものも含まれるのかもしれないですけど。六感というよりは普段なにげなく見過ごしている存在といいますか。でも実際描く時は、あれこれまどろっこしいことを常に頭に置いているのではなくて、単純に「描く」ということをストレートにやっています。