ギャラリー・トーク

岡村陽子 × 中島智 × 住友文彦

2008年9月27日(土)


住友: まずは岡村さんに展示をお願いした経緯についてお話させていただきたいと思います。岡村さんはギャラリー山口で展示していた作品を見たことがあって、最初部屋に入ると壁に作品があるのですが、なにか簡単には分からない、少しテロっとした光沢のあるような物体があるようにも見えるし、眺めてるうちに、風景なのか形なのか何か浮かび上がってくるような作品でした。見ているうちに、どこか遠くへ帰りたくなるような、その不思議な感覚から名前を覚えていたというのがあって、実際にこの展覧会に出てもらおうかなと思いました。ではこれまでの作品についてざっと順を追って説明していただきたいと思います。

岡村: これは以前に椿の写真とドローイングを組み合わせて作った作品で、他の作品でも度々、椿を使っているんですが、それらの作品では人間の捉え方の二面性について考えていました。

住友: その二面性というのは、日常の受け止め方と宗教上の解釈とか、その受け止め方が違ったりするということを意味しているのかな。

岡村: はい。本当はもっと多面的なんですが、この『美しい夢を見られますように』は椿の写真をカラーと白黒というように視覚的な部分で分かりやすくしたものです。これは人間の多面的な部分や、個々の作品で考えていた要素を一つの作品に内包するように作った『World’sbreathing』、住友さんに見ていただいた作品でもあります。ここでは「山」に人の求める幸せというイメージ、山の向こうに何かがあるとか、神様やあの世とかの象徴としての意味を込めていて、昔、圧倒的な自然と対峙することで受けたインスピレーションから、宗教の基などを見いだしてきたのだろうという考えから山や木、自然などを使っていました。

住友: でも、入ってすぐは、正直「山」には見えないですね。それで、僕は岡村さんの素材の選び方が非常に面白いなと感じていて。ある意味すごくチープに見える素材をよく使っているので、さっと中に入ってみた時の感想では、岡村さんの話の中ですごく強調されている神聖さとかそういうものは、すっと入ってくるものではないです。ただ展示室に入ると、やっぱり歩き回ったりするじゃないですか。そのうちその風景みたいなものが見えてくるという印象がありましたね。

岡村: 分かり易くさせたくないというのは、常にあります。こうだからこうなるという風にどうしても言い切ることが出来なくて、以前は色々繋がっているものをそぎ落として、自分としては分かりやすい、無理にシンプルにしたものを作っていたような気がします。でも、それだけではとてもいい表せないというか、ものすごくこぼれ落ちているものが沢山ありすぎて。逆に話してみてイメージが違ったというのは、どう違ったかっていうのを是非お伺いしたいです。

住友: 自分の中で神聖なものや宗教だとか、そういったことを言葉ですごく語る人だとは思ってなかった、僕はね。けど、ものを置きながら考えていくというという感じがしていたので、今もそういうところがあるんだとは思いますけどね。

岡村: 置きながら考えるというのは、とても大切にしている部分でもありますが、それだけではただの造形になってしまう心配があって。自分の中で一度潜って、更にある程度潜ったらちゃんとそれを客観視して、そこから再構築するということを大切にしているので、宗教などについての言葉はそういう部分で出てくるんだと思います。意味を持たせた記号を実際に空間に置きながら体感するという感じです。

住友: 最後のところにあった、木のようなものは多分後ろに並んでいるものですよね。じゃあ、今回新しく現われたものは、この塩の山だったりするんですかね。

岡村: そうですね。以前は塩を結晶にして使っていたのですが、今回は自分の関わり方をもっとダイレクトにして、塩で山を作るというのがここでやりたかったことです。

住友: 場所を見て、考えたことなんですか。それともなんとなく今までの自分の経緯の中でやってみようと思っていたことなんですか。

岡村: どちらが先か一概にはいえないんですけど、場所を見て配置しつつ、どうすればその場から自分の探していたものを得られるかなと考えた時に…。なんというか構築しつつも、何かが発生するきっかけを探して、さらにそこからイメージを進められるように。世界を認識するために作品を作り、その経緯の中で新しく把握すべきことが増えていく感じなので、そのやり取りがとても重要なんだろうと思います。今回は何か宗教的なもの、信仰などが生み出される場所からさらに、人間の営みや人間の作り出してきたものが断層的に積み上げられて、時が経っていくということをやりたかったんです。色々なものが作り出された上、層になっているものの、さらにその先を知るきっかけになったらいいなと。

住友: 中島さんはどう思われますか。

中島: 山が宙に浮いているというところがやっぱり不思議です。大地から遊離しているというのは文字通り〈abs-tract〉ですね。

住友: もろ複写というのが分かる感じですよね。本物でないのは当たり前だけど、これまでの時も自然のものをコピーなどで引き延ばしたりしたのかな。それを切り抜いて展示しているのも、結構特徴かなと思ったりして。

中島: しかもモノクロでやっているということもあって、それが一つの抽象性というか記号性というものをつくっている気がします。ただそれは記号を表現したいわけじゃなく、記号の向こう側を表現したいんだという気がしていて、それを色彩的にやると限界があるというか、色がつくとそのものの記号性よりもそれ自体の具体が出てきちゃって抽象じゃなくなってしまうというのがあるのかな。

住友: 今、中島さんが白黒の世界とおっしゃいましたが、僕が岡村さんとお話をさせていただいた時、彼女はある種の彼女の世界を作っていくとしたら、ここには人がいないんじゃないかっていってたんです。人が住んでいない世界を作っていると。これまでも、人のいない世界を想像してきたことはありますか。

岡村: そうですね。やはり人の入り込めない世界のほうが厳かというか。自分自身がそういう世界のほうが、幸福や安らぎを感じるというか。でもだからといって、無機質な世界というわけではなくて。

住友: あと、最初は崩壊していくもの、朽ちていくものとかそういったものをテーマに作品をつくっていたものが、ある場所ではじまりというものが登場してきましたよね。これはどういう意味だったんですか。

岡村: 目の前で朽ちていくのは変えようのない事実で、でもこれらが全て繋がって蓄積されていくからこそ進んでいくもので、破壊され構築されての繰り返しだと思ったら、今度はどこがはじまりかなという気がしてきて。複雑に絡み合ってはいるんですけど、朽ちたり失うことへの悲しみを癒すために、宗教や色々な仕組みが作られているけれども、今それは正常に機能していなくて、生み出された最初の頃はどんな感じだったのかを知りたくて、はじまりの場所や自分の想像する清らかな場所を作ろうと思いました。

住友: 中島さんは作品を作られる方でもありますが、こういう世界のはじまりとかを作品を作る行為と重ねることというのは?

中島: 感覚的にはやはり日々死んで生まれるっていうそういうサイクルがありますよね。それは3ヶ月とか1年とか入れ子になってあるんですけど、制作がそれと同じサイクルになっているかというのは意識したことがないです。もちろん制作ははじまりの連続で、はじまりの場所で、ある認識や結論によって出来てはいないですね。意識はつねに遅延ですから、それとは違う仕方で…。だから逆に、そのときの自分の枠組みというのが、制作を通してその枠組みから出た後になってやっと見えてきたりします。

住友: 結構作品を展示し終わったらあとは虚脱感というか…。

中島: 虚脱感というか遺跡ですよね。あ、もうここにいないなっていう感じです。

住友: 岡村さんは、展示が始まって作り終わって、出したときに感じることはちょっと違うの?

岡村: そうですね、共感する部分もありつつ、でも終わったあとに遺跡っていうのはすごくわかる気がします。聞きながら中島さんが作る世界には人がいるかなとすごく思ったんですけど。

中島: すごくたくさんいます(笑)。それは言い換えたら多分別の人格っていったら良いと思うんですけど、それがいっぱい出てきます。普段の生活では、その場その場で人格の選択を強いられる感じがあると思うんですけど、制作中というのは本当に全ての人格が味方になるというか。普段自分の中では相容れない人格であっても、それらを同居させることが出来る、そういう不思議な感覚があって。

住友: しかし、作品を作る行為の中ではそれをしなくて済むんですよね。

中島: そうです。簡単に一つのきっかけをお話しすると、作品というのは未完成なものをだんだん完成に作りあげていくもんだっていう発想が10代まではあったんですけど、20歳の頃にそれは違うんだって気づいて。欠如からじゃなくて、見えている世界がすでに完璧なんだっていう感覚から生まれてくるものがあると気づいたんです。だから、そうやって世界を肯定する一番強いあり方ってなんだろうって思ったら、それは陶酔だったんですね。それでその陶酔にいつでも自由に入っていけるようになるまでに、いろんな修行をやりました。それは既成の修行ではなく、自分なりに必要だと感じた修行だったんですけど、後でインディオやイスラームなどの世界を見ていくと同じような方法を使っていて、やっぱりそういう方法ってあるんだなと驚きましたね。

住友: じゃ、中島さんがやられた修行というのは、どこかの宗教でやっているものをやろうというのではなく、自分なりにこれが修行だと思ったことを実践されていたら、他の宗教でもやられていたことで、それが陶酔という状態に、ということなんですね。では、作品もそのように世界を肯定するための手段だと思いますか?

中島: 肯定するためっていう感じの目的はないと思います。肯定する行為だとは思います。作品は手段ではないですから。岡村さんはどうですか。

岡村: 私も肯定したいっていうよりも認識したい。私が見るものを信じるというところに少し疑問をもつところがあって、夢で得るリアリティが強かったりとか、実際に見ているものを自分も信じたいんだけど、他の人が見た時実はそうでもないと思ったりする時があって。芥川龍之介の『薮の中』という話が自分の中でしっくりきていて。ある一つの事件を、当事者もそれに携わった人達もみんなバラバラのこととして認識しているんです。それで人が何かを認識する時、きっと普段からこういう状態になっているんだろうとすごい納得してしまって、信じるということは一つの視点ではあるけど、なかなか勇気のいることだとも感じます。

住友: 作品を一つの世界を構築するものとして展示をしたが、しかしそれを見る人は全く違う世界を見ているっていうことを確認出来るといいな、という感じかな。

岡村: それももちろんあります。でもまだ自分の意識は他人の把握するところまでしっかりと及べていなくて、まずはその皆バラバラで認識しつつも、何かが生み出されていくという状態を自分が咀嚼し、理解すべきなんだろうと、まだ世界の構造をきちんと理解出来ていない状態なので。

中島: その構造っていうのはどういう。

岡村: その構造自体を自分で作ろうとしているんだと思うんですけど。宗教や民俗学も、ある構造にあてはめて世界を認識してきたと思うので。だからといって私は宗教を作りたいわけではなくて、もっと論理的なものを作りたいというか、自分が納得したいんだと思います。

中島: 僕はちょっと逆かもしれないですね。構造というのはほとんど無意識的なもので、だからそこは作品として現われたものに対して現われなかったもの、意識的に選択されなかったもの、そこが構造で、それは他の人にもかなり共有できるもののはずなんですよ。だからそっちの方をどう汲み上げていくかということを考えていってしまうので。実際、過剰に貫かれながら陶酔してやっていると、自分の意思や意図を越えたものが勝手に現われてくるんですよね。だから作品が出来たあと自分でびっくりするわけです。これはなんなんだ、自分は何をしようとしたんだ、という。まあ、それが後でわかるということなんですけど。

住友: もっと無秩序で混沌としたものというのが世界の本来の姿ということになりますかね。だけどもそれに対し作品が現わす部分はほんの一部でしかないので、そういう意味で、構造ということを自分の力で獲得しようとしている、という意味と違うな、と。

中島: そう、獲得するというより既にあると思うんですよ。ベイトソンなんかだと生物学的に、レヴィ=ストロースなんかは構造というと無意識的なものですよね。これはすごくわかるものがあって、だからあえて構築するということはしていないですね。それこそ、現われを待っているというか。
(テープ起こし:赤松千春)