資本空間 –スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸
vol.5 藤堂

藤堂「Basalt」2015年


2015年10月31日(土)~12月5日(土)
11:00~19:00 日月祝休 入場無料


藤堂 — 創造的基柱                      Inside Looking Out(5)
山本和弘


 藤堂の新作《50 Säulen》を前にして、カール・アンドレの《ラメント・フォー・ザ・チルドレン》(1976)やダニエル・ビュレンの《二つのプラトー》(パレ・ロワイヤル、1986)を想起することは賢明である。アンドレとビュレンが工業化されたある種の規格を援用することによって、個体の差異を無化する近代の宿痾をアイロニカルに批評するのに対して、藤堂は個体が本来もつ差異が制御されざる個性そのものであることを自然石の代表格である玄武岩で示唆しているからだ。ただしアンドレとビュレンのみの想起は未だ賢明さの不足を意味している。
 ここで玄武岩を床や大地に配置した先例としてヨーゼフ・ボイスの《20世紀の終焉》(ベルリン、ミュンヘン、ロンドンなど、1983-85)を参照することはさらなる賢明さへと私たちを誘うだろう。そのタイトルが的確に示すようにボイスの玄武岩は創造性が未開拓で、芸術もまた同じく硬冷化したままの現代を石器時代になぞらえて批評したものだ。創造性が硬冷化した20世紀を葬り去るために玄武岩の下部に近い位置には円形が穿たれ、粘土とフェルトが仕込まれている。これは一般には創造性が開花する新たな時代(世界)の待望と解されている。
 対して藤堂はこの位置に積層されたガラスを穿つ。湖面のようなエメラルド・グリーンのガラスの表面を樫の木の葉緑と解釈することも可能なのだが、藤堂はここで鉱物と植物の現れ方の差異を視覚化するのではなく、地球的適温においてさえ硬冷化した岩石もどきの人類の石頭が創造的に溶解しうる可能性を反映させているようだ。なぜなら透明かつ反射するガラスの表面は、リフレクションすなわち反省的契機をこの場に立つ者たちに平等にもたらすからだ。
 このガラスが反省的かつ創造的であるのは、床に寝かせた《20世紀の終焉》をボイスが《7000本の樫の木》(1982-87)に進化させた際に大地を玄武岩の台座としたのに対して、藤堂は床に自立させる方法をとることによって、儚く脆い試みでありながらも、それは私たち一人一人の自己決定の重要性をより代表しているからである。
 積層ガラスを刻印した玄武岩の相似形と規則正しい配列の秩序は人為と自然の相克あるいは対比をたんに示すのではない。それぞれが個性をもった相似形の反復は、無骨な石の列柱が床から同じ高さで揃ったガラスの反射面として再確認されたとき、鉱物さえもまた知性に変容する可能的瞬間に私たちを出会わせることになる。神話仕立ての無粋なボイスの脂肪に仮託された創造性は、藤堂の手によって透過性と反射性を同時にもつ知的な資源に変貌するのである。あたかも人類滅亡の後に、創造性が資本として開花した一時期がこの地上にあったことを証する地層ならぬ、石層のように。


▊藤堂 とうどう▊
1969年東京生まれ宇和島市出身。1997年多摩美術大学大学院修了。2003年デュッセルドルフ芸術大学ダニエル・ビュレン教授 よりマイスターシューラー取得。主な個展に2011年「7000 Basalt」(アートフロントギャラリー、東京)など。主なグループ展に2014年「知ってる形/知らない形+本」(うらわ美術館、埼玉)、2013年「BOOK-Chapter 1」(MA2 Gallery、東京)、2011年「彫刻・林間学校アースバウンド」(メルシャン軽井沢美術館、長野)、2009年「日常/場違い」(神奈川県民ホールギャラリー、神奈川)など。

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(左)「Säule_Yokohama
」2009年 W46 x D47 x H346cm 関東大震災で倒壊した横浜の建物のレンガ、積層ガラス、コンクリート,
(中)「ベルリンの壁」2006-2009年 H6-7.5cm ベルリンの壁の破片、積層ガラス,
(右)「DAS KAPITAL(資本論)」2009-2011年
W15.5 x D12.5 x H22cm 書籍、積層ガラス,