TEXT - ギャラリー・トーク 木村太陽 × ポル・マロ × 住友文彦

2009年1月17日(土)


住友: まずは僕が知っている二人の作品を話がてら紹介していきたいと思います。ポルさんは、作品を作る前に渋谷で『Cha-Bashira』というレコード屋さんをやっている頃に知って、その後2002年にAITというNPOのイベントで、サウンドパフォーマンスをやってもらいました。その後は水戸芸術館や森美術館でグループ展に参加した時、インスタレーションの作品をしているのを見ました。今回の作品は絵なんですが、布に絵を描いているもので。最近だとBOATPEOPLEA ssociationの運河に船を浮かべ、展示しているを見て。それは船がゆらゆらしているのと、布の感じで、ギャラリーや美術館で作品を見るのとは違った作品の見え方がして面白いものでした。

木村さんは、rice galleryというところで出していた作品辺りを見たのが多分初めの頃ですね。その後は、金沢の美術館の準備室にいた時に、かなり大胆なパフォーマンスというか…。カレーで顔を洗ったりしている映像の作品を美術館に所蔵したりしました。すごくユーモアのある作品なんですが、元々自分が持っていた自分の中のルールみたいなものをくすぐられてしまうような体験をする作品として、あまり他の人とは比べられないような作品をいつも作っているのに関心を持って、参加をしてもらいました。
お二人とも、元々「作品を作る」ということからすごく自由なところが感じられます。共通して、ある種の優しさみたいなものがあるような気がするんです。色んな許容度、寛容さを持った作品や表現を作っているように思えて。それで、一緒に並べて作品を見られたらいいなと思ったんです。では、お二人に作品について話してもらいましょうか。木村さんのドローイングの作品はどういう意図で作っているんですか。

木村: 作品のアイディアのドローイングをノートブックにいつも書き留めてあって、独り言みたいなのを書いたりしてあるんです。僕はずっと同じことができない性質で、ずっと同じことをやってるとすぐバランスを崩しやすいんで、自分が普段つけているアイディア帳とはまた別にこういうのを並行してずっとやっているんです。それで、ドローイングはドローイングで自立したものにできないかなっていうのをずっと試行錯誤してやっています。紙によってはすごく古くて、10年、20年前ぐらいの古い紙を使ったりしてやっています。

住友: わざと古い紙を使うんですか。

木村: そうですね。なんか、例えば村上隆とかってすごく新製品っぽいような作品を作るけど、僕の場合はどうしても、体質的にちょっとくたびれた感じのジャージーとかそういうのを使うような感じで古びたのを使ったりしています。それで、『Happy Trails』は、最初はぱっとブランクーシの彫刻みたいなのを作りたいなっていうのがあって。こう、同じリズムが反復して天に昇ってくような。それを足でやったら面白いのかなぁって思ったんだけど。縦にしたら今回の展覧会に合ってるかなぁってやってみたんですが、これは床置きじゃなきゃダメだっていうのに気がついて。横じゃないと犯罪的な臭いがしないかなと思って。犯罪的であればいいってわけじゃないんですけれども。

住友: 触覚的な感じがする彫刻が多いですよね。見ていて、形がどうこうっていうよりは、形が実はすごく重要ではあるんですけれども、嫌悪感をもよおすような物を作ったりもしてる。これだったらすごくフェティッシュな感じを見た人が覚えて、ただ眺めるだけじゃなくて、自分の中の欲望だったり、恥ずかしさっていう中身が出てくるような。

木村: なんか、今まで人体を使うと、どうしてもジャージーを使うことになっちゃって。色々試すんですが、なぜか、ジャージーの生地の汗が臭ってくるような感じにどうしてもなっちゃうんで。で、当分はもうジャージーを着ている人体を使うのは止めようと思って、それに代わるものを模索していて。森美術館で『お城ちゃん』という女の子の足の上にお城が乗っているのとか、横須賀美術館で、監視のお姉さんの制服を着た人型がビニール被ってすーはーすーはーいってるのとかあって。その時に足を作った経験を思い出して、じゃあ今回足だけで行ったら上手くいくかなぁって思って。まぁ、最初はブランクーシだったんですよね。

丹羽陽太郎: 僕も物を作るんですが、98年の神奈川県民ホールでのアニュアル展を学生時代に見た時に結構ショックだったんですね。僕は今回の作品を見ていてもその時の感じっていうのに結構近くて。先ほども出たんですが、嫌悪感みたいなものというか、神経に来るっていうものを感じたんですけど。例えばこう、中にあるふわふわの感じ、何かわからないっていうのが僕が気持ちが悪いと思った要素の一つだと思うんですが、これはなにかこだわって使ってらっしゃるんですか?

木村: 「嫌悪感、グロテスク、木村太陽」っていうのに縛られるのはもういいっすっていうような感じになって、段々お色気系に移ってきたつもりではあったんだけど、やっぱり気持ち悪いっていわれるんですよね。素材のことなんですが、どうしても、作品って音楽にならなきゃいけないっていうのがあるんです。ジャージーを使うと、僕の中で作品が音楽になりやすいんですよね。音楽っていうのは何度も何度も聞けるものじゃないですか。でも、中毒にもなりやすいものでしょ?だから、作り手も自分が使ってる素材に中毒になりやすい面があって。僕は完全にそのジャージーの中毒になっちゃって、それはもう卒業しないと薬中になっちゃうなっていうのがあって。それで、じゃあストッキングで行くかっていう感じで。

住友: では、ポルさんにテキスタイルを使う作品のシリーズを始めようと思ったきっかけや、それを始めてみて自分の作品がどうなったっていうのを最初に聞ければと思うんだけど。

ポル: 最初は下の木枠も見えるぐらいの薄い生地を木枠につけていました。その時は絵を描くキャンバス自体がテーマになっていたんですね。でも、どんどん美術館や、キャンバスの四角さを疑うようになって。なんで四角い物の上に描かないといけないのかと考えていて。布を使う時も最初は周りをきちんと縫って、展示のためのループ(輪)もつけていて。でも、だんだん周りをきれいにするのも、ループをつけるのも止めて、そのまま貼るだけになったんです。以前は周りをきれいにしないといけないと思っていたんですね。その考えも捨てたんですが、まだ途中な気がする。もしかしたらまた違うやり方に発達するかもしれない。生地の幅がロールで買うと決まってしまうし、それを切ると四角いままだし。生地を使っていると便利なこともあるんです。簡単に運べることや、置けるとか。パネルがいっぱい集まると大変だから。最近は作家として、エコロジー的に良くないことがあっても、作品を作る意味があるのかなぁってちょっと不安が大きくなってしまいます。前みたいに発泡スチロールを使わずに、エコロジー的にも気をつけると作品がどうなるのかなって考え中なので。

曽谷朝絵: ポルさんとは水戸芸術館で展覧会をご一緒したのですが、ポルさんのインスタレーションで、空間の使い方が凄くシャープだなって感じていました。絵という平面とインスタレーションという実際の空間で、その二つのフィールドを使いこなす時にポルさんの中での違いはありますか。

ポル: インスタレーションを何回もやった後に、絵の中のスペース自体が違うように見えてきたんですね。美術館がテーマの絵ではスペースの使い方などがかなりインスタレーションっぽい。平面の中でインスタレーションをやることもできるんじゃないかなと思って、これを描いたんですね。その時はそれがすごく面白くて、チャレンジであったんだけど、今はインスタレーションと絵の違いは、絵が小さい部屋の中でも掛けられるのに対して、インスタレーションは小さい映画みたいな感じだと思ってます。やっぱりインスタレーションは作るものが多くて、本当にミニ・プロダクションみたいにする必要があるので、それに対しても、さっきいったようにエコロジーの面で本当に今の時代に必要なのかと考えてしまう。お金をかけて、20、30人の力を借りて、雰囲気を作るのは70年代から最近まで続いているやり方なんですけれども、それにどんどん不安を感じるようになってしまって。インスタレーションはもっとシンプルにできるのではないかと。一人で生地だけを使ったりして。もしかしたら、それも次のステップで、絵からインスタレーションに戻ることも考えていたりします。

住友: ポルさんの作品で、小さな古い写真があるんですけれども、そのこととか、どうしてあれをおいてみたのかなとか聞きたいんですけれども。

ポル: では、全体的なテーマについて話します。今回目的だったのは、何も知らない、言葉もない、本当の自由や本当のミステリーっていうのを作品にできないかということでした。それは古いインドの思想が元になっているのですが、人はみな、自由で、空っぽだというものです。それがどんな宗教でも、スピリチュアルな話でも元になっている部分です。その無意識の僕らの精神というコアな部分の周りに、僕達の気分があるんですね。その気分を隠すためにパーソナリティがあり、自分がどんな人間かというイメージなどの薄っぺらいことがある。しかし、僕達にはコアの部分に意識があるまま存在する必要があります。でも、人には恐怖や恥ずかしさ、アグレッシブという気分がある。それを通ることは火の中を通るようなことで、真っ直ぐ目を開き、逃げずに向かい合うのはとても難しい。みんな、これから逃げたいんです。だからみんな、自分の辛いことから逃げるために、外の世界で忙しくします。人は外の世界と自分の内の世界は別物だと信じていますが、そんなことはないんです。僕達自身が宇宙で、ここでこうやって話しているということも宇宙の中の一つのイベントです。人それぞれも違いはありません。一つのスピリットから、一つの意識から全てが繋がっていて、ベースになっているんです。ポイントは、自分が魂だけの本当の自分から直接制作することができているかということです。制作中にはこの展示があるだとかいう色々なことが影響してしまいます。時々、意識のコアな部分に向かって進んでいる途中で、色々なものを見つけたり、出会ったりし、無意識のままに絵に出てしまうことがあるんです。それを人に見せるのは恥ずかしいから止めようと思ったりもするのですが、後で考えるとそれも見せる必要があるのかもしれない。なぜなら、それが誠実さということだから。見せたくないものでも、見せることがその道を通るポイントだと思う。まだ発展中で、どこまで行くのかはわからないし、決めたくもないのですが…。

そのインドの思想を説いた人の写真を置いています。僕はこの写真を見ると、そのことがほんの少し理解できる気がするので、そのために置いていて、皆さんにも欲しい方には持って行って欲しいと…。最初の展示からの癖なんですが、お客さんが無料で展示の中のものを持って帰られると、なんだかプレゼントのような感じがして。その展示が外でも続くとか、家に持って帰って、何年か後でまたその写真を見つけてっていう…。実は昔は僕もそのスピリチュアルな話が嫌いだったんですね。でも、この写真がもしかしたら招待状になるかもしれない。もしかしたら、持って帰った人が帰ってから新しく知ることがあるかもしれない。ある意味種ですね。
(テープ起こし:森遥香)