αMプロジェクト1990-1991 vol.3 神吉善也+藤田朋裕

1990年6月26日~7月21日



変容する質量空間 藤田朋裕:凝縮感と増殖感 神吉善也:「もの」にとらわれない「もの」




赤津侃

触覚的な三次元性や構造性、そして物質性といった、いわゆる彫刻がその条件として課してきたイデオロギーに近いものは、「立体」という言葉に置きかえるとき、その内実は大きく変化する。同時代人の時代精神・造形精神が「立体」構造に多極的な様態として入っているかが問われている。
藤田朋裕の凝縮感と増殖感を合わせた鉄の作品と神吉善也の「もの」は、ある意味で、両者の作品が個体として自立しつつも、集合体として、質量ともに変貌する空間をつくり出している。観る者に、視点のありかたの転換を強いているかのようである。
藤田は一貫して鉄と取り組んできた。藤田は興味深いことをいう。「目の前にあるものが、ある瞬間、位相の異なる次元から呈示された非視覚的なものであることがわかる。そうした知覚する構造を頭脳にドライブさせる」。こうしたコンセプトから創造された作品は、多視点的な構造体になっている。鋼板は2~3ミリと薄く、それで構成される作品が、視点を変えれば、量塊をたぷっりと見せる。鉄板を曲げたりする行為は、厳密に計算され、堅固な形態に昇華する。今回の作品に、初めてパンチングプレートが使いこまれた。酸洗いの鉄板とそれとは調和し、その全体性はアーティスト自身のエネルギーの総体を反映している。鉄のイメージを一度は阻む鋼板と視線を通過させるパンチングプレートの併用に、空間が質量ともに変容し、ぴりりと緊張する。観る者に集中力を強いる作品である。「Rをつけた」鋼板の曲がりこんだ見えない向こう側にアーティスト自身の呼吸さえうかがえる作品群だ。藤田の作品からは物質との深い交感による凝縮感と重層的なシステムによる形態の増殖感が同時に浮かびあがる。形態量塊に加えてもうひとつのダイナミズムが曲面構造から、見る側を圧倒する。
藤田は「過剰に制作してゆき、破壊し再構築し、そして、それを繰り返し展開していきたい」と言う。それは、行為をいうより、意識のなかの再生産であろうかと思う。それが、凝縮し、増殖する多視点構造体をつくり出す源泉であろう。
神吉は「もの」=物質とオブジェのはざまの作品で苦闘してきた。
ふたつの個展の例がある。ひとつは、植木鉢を連結して、ひとつの輪をつくる。その植木鉢の輪を縦に床面に並べた。神吉の行為をによって、植木鉢という「もの」は、単なる「もの」から、まったく別のものに変容する。「もの」で別の形態を創造し得た作品である。変容した「もの」でイメージを想起させることにより、観る者「かたち」を認識させることに重点が置かれている。
もうひとつ、こちらの方が神吉のコンセプトを明確に提案しているが、鉄道の枕木とツルハシ発泡スチロールで型取り、朱色に着彩し組み合わせた作品がある。ツルハシの上部でふたつの枕木を止めてある。これらを壁面に展示した。単なるものを作ることに、神吉のコンセプトがあるようだが、この「もの」によって、展示された壁面は、質量とともに空間が変容する。
揺れ動く神吉の「もの」へのこだわりは、今回さらに変化・進展した。今回は、彩色した発砲スチロールで十字架状の「もの」をつくった。さらに円形の中央に、写るものを物質に変える鏡を置く「もの」の連作で、壁面を多様化した。
「もの」への取り組み、あるいは「もの」に対する考えかたが大きく展開したわけだが、二種類の連作で「ものはものをつくる」という彼の志向が一層明確になったといえる。連作にはそれぞれ「ものの平面性」を強調する空間の仕切りがあり、空間を特定して、特定しない壁面に変容させている。
ここに、いわゆる“もの派”的な「観念的な見かたをはぎとられた事物や物質の姿」を追究するのではなく、物質感を消すために「もの」を使い、「もの」に依存しない「もの」=作品が現出した。