蔵屋美香

 

1年におよぶ企画「絵と、 」が終了しました。ステートメントやそれぞれのトークの中で断片的に触れた、企画の背景を成すわたしの8年について補足します。

2011年3月11日
わたしは2011年3月11日をシンガポールで迎えました。だからあの揺れを経験していません。ゆえにわたしにとっての東日本大震災は、数分間の揺れのことではなく、その後今にいたるまでずっと続くこの社会の変化のことだと感じています。ステートメント(1)ではこの「ずっと続く変化」のことを仮に〈震災〉と呼ぶことにしました。

 

2013年5月
第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の日本館で、田中功起個展「abstract speaking: sharing uncertainty and collective acts」のキュレーションを担当しました。田中さんの作品は、ヘアカットや作曲、作陶などさまざまな協働作業を行う人々の映像を通して、震災後の新しい社会をいかに作るかを比喩的に(またはabstractに(抽象的に))考えようとするものでした。
その前年、コンペによる展示案の選出が報じられると、「当事者ではないくせに被災者を代弁するな」という批判が寄せられました。そのときは「当事者にはなれないが当事者に思いを寄せる存在にはなれる。起こったことを忘れないためにもこの役割を放棄してはいけない」と反論しました。
しかし8年が経ってみると、震災をきっかけに社会は大きく変わり、わたしたちはみなその変化の波を頭からかぶる当事者となりました。「思いを寄せる非当事者」でいることなどもう不可能です。ひとつ厄災があると変化は長く、広く及びます。だから変化をこうむる当事者は時間が経つとともに増えていくのです。

 

2013年5月
勤め先の東京国立近代美術館に洋画家、岸田劉生の資料が収蔵されています。この中に、関東大震災(1923年)によって全壊した自宅の屋根に上って記念撮影する劉生一家の写真があります(fig.1)。以前は単なる美術史の資料に過ぎなかったこの写真が、3.11を経た後はとても生々しく見えました。劉生はこれを機に京都へと引越し、生活も作品も大きく変わります。初期肉筆浮世絵や中国の古画に夢中になり、制作も油彩画より墨画が増えていきます。関東大震災は劉生にとって決定的な経験でした。考えてみれば一人の人間の人生が、そして作品が変わって当然の大事件です。しかしわたしは、自分が3.11を(上記の意味で)経験するまでそのことを実感できていませんでした。
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Fig.1:岸田劉生とその家族、1923年 東京国立近代美術館

 

2013年10月
美術館では、上記の劉生以外にも関東大震災前後に制作された作品や資料をけっこう所蔵しています。そこで、関東大震災を起点に据え、1945年の敗戦までを扱うというテーマで、同僚たちと所蔵作品による特集展示を企画しました(「何かがおこってる:1907-1945の軌跡」2013年10月22日-2014年4月6日、「何かがおこってるⅡ:1923、1945、そして」2014年4月15日-8月24日)
関東大震災の直後、社会に一瞬自由の雰囲気が生まれました。若い美術家たちがいっせいに街に出て、安い費用で急ごしらえの建物に装飾を施したりしました。いわゆる「災害ユートピア」です。しかし1925年に治安維持法が制定されると、ものを言いづらい雰囲気が以前に増して強まりました。1933年には『蟹工船』の小説家、小林多喜二が獄死します。でもそうしたことに目を向けない限り日常生活は豊かで、大半の人々は映画や流行歌、旅行やスポーツを楽しみました。1940年には、紀元2600年記念日本万国博覧会およびアジア初のオリンピックの開催が、どちらも東京で予定されていました。しかし1937年に日中戦争が勃発すると二つとも中止となりました。その後日中戦争はそのまま太平洋戦争へと拡大します。
「何かがおこってる」を準備していたころには、公私を問わず被災地でのプロジェクトに携わる若手アーティストや建築家がまだあちこちにいました。展示がオープンする少し前の2013年9月、東京オリンピックの2020年開催が決定しました。翌2015年7月には安全保障関連法案が可決されました。まるで展示のために組み立てたストーリーを現実が追いかけているようでした。
いまでは多くの人が「現在の雰囲気は1930-40年代に似ている」と気づいています。でも2013-14年当時、まだそのような認識は広く共有されていませんでした。しかしわたしは企画を通して、関東大震災と東日本大震災の後、同じような出来事が似たような順序で起こっているという事実に比較的早く気がつきました。そこには繰り返しのパターンがあったのです。
企画から5年が経ち、今度は2025年の大阪万国博覧会開催も決まりました。2019年のいまから未来を予測したら、結果もやはり1930-40年代と同じことになるのでしょうか。

 

2013年10月
「何かがおこってる」を企画する中で、北脇昇(1901-1951)が俄然気になり出しました。北脇は1920年代から50年代まで京都で活動したシュルレアリスムの画家です。北脇は、ちょうど日中戦争が始まった年に、カエデの種を飛行機に見立てた《空港》(1937年)および《空の訣別》(同)という不思議な作品を制作しました(fig.2, fig.3)。特に《空の訣別》は、南京渡洋爆撃で墜落死した若いパイロットを主題とした作品であることがわかっています。つまり北脇は、表立っては表現しづらい時局に関わる主題を、カエデの種やサンゴを使って遠まわしに表そうとしたのです。もちろんわたしは以前から《空の訣別》の主題が日中戦争であることを知っていました。しかし劉生の写真と同様、自分がものを言いづらい社会に生きることになるまで、北脇がやろうとしていたことの切実さをほんとうには理解していませんでした。
しかし、遠まわしに時代を表すことも、あながち悪いばかりではないかも知れません。たとえば北脇の作品は、戦争を肯定するようにも否定するようにも見えません。戦闘機をカエデの種に置き換えて作り出したキャンバス上の異世界に身を置くことで、賛成派も反対派もともに熱狂の渦に巻き込まれたあの時代から距離を取り、冷静に状況を眺める目を獲得することができたのでしょう。
また、北脇の異世界は、現在のわたしたちにも開かれた場です。つまり、あいまいでどうにでも解釈できるがゆえに、わたしたちはそこに日中戦争前後の世相を読み込むことも、2011年以後の〈震災〉の状況を読み込むことも、さらには未来の厄災を読み込むこともできるのです。
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(左)Fig.2:北脇昇《空港》1937年 東京国立近代美術館
(右)Fig.3:北脇昇《空の訣別》1937年 東京国立近代美術館

 

2019年3月4日
ステートメントにも書いた通り、絵画は遅いメディアだと思います。写真や映像に比べると、「ええと、ええと、」と口ごもり勝ちで、すばやく出来事に反応する作品が次々出てくるわけではありません。のみならず、北脇のように直截的な表現を用いない作品に関しては、見る人にメッセージが伝わるまでにもまたずいぶん時間がかかります。
こんな風にいつも遅れてくる絵画に、ではわたしたちは何を期待できるのでしょうか。
「ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ」という、ドイツの哲学者、ヘーゲルの有名な言葉があります。ミネルヴァはローマの知恵の女神、フクロウはそのお供をする鳥で、知恵の象徴です。フクロウ(知恵)は、いろいろと事態が動く日中ではなく、それらが終わって陽が暮れてからやってくる。つまり、知恵は良くも悪くも即効性をもって現実に働きかける力ではない、という意味です。
絵画をこの知恵になぞらえてみましょう。
絵画はまず、即効性がないだけに、長い時間に耐えてメッセージを運ぶ力を持っています。
あるいは、繰り返すパターンのことを思い出しましょう。わたしは関東大震災後の経過をたどることで、こんにちの〈震災〉の事態を先回りして知りました。また、阪神大震災や9.11に反応した中村一美さんの作品は、あたかも次に来る東日本大震災を予言するかのようでした(2)。だから、ある厄災が終わった後の暗闇から飛んでくるフクロウもまた、実は夜が明けたら起こるだろう新しい事態についての予言と警告を携えているかも知れないのです。

 


(1)蔵屋美香「絵と、 」を参照。
(2)蔵屋美香「地すべり、期すべし」を参照。

 

キュレーター

▊蔵屋美香 くらや・みか▊
東京国立近代美術館 企画課長。千葉県生まれ、千葉大学大学院修了。
おもな展覧会に2017-2018年「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」(東京国立近代美術館)、2014-15年「高松次郎ミステリーズ」(保坂健二朗、桝田倫広と共同キュレーション)、2014年「泥とジェリー」(東京国立近代美術館)、2013年「第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館キュレーション」(アーティスト:田中功起、特別表彰)、2011-12年「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」(東京国立近代美術館、第24回倫雅美術奨励賞)、2009年「ヴィデオを待ちながら―映像、60年代から今日へ」(東京国立近代美術館、三輪健仁と共同キュレーション)、など。おもな論考に「麗子はどこにいる?―岸田劉生 1914-1918の肖像画」など。

 

1998年11月27日 於:武蔵野公会堂合同会議室


●出演者

岸本吉弘(画家)
高木修(彫刻家)
谷川渥(美学・国学院大学教授)

●司会

藤枝晃雄(美術批評・武蔵野美術大学教授)

 

[藤枝]…今日の話題は<現代美術の情況と方位>です。最初は<現代美術を語る>というタイトルにしようかと思ったのですが、少し堅苦しくしました。
現在の芸術の情況を申しあげますと、ポストモダンと言われるものが日本ではちょっと遅れて1980年代の中頃から出てまいりましたが、この流れと言うか、メンタリティというものがいまだに続いておりまして、これはいかにわが国においては芸術が現実と遊離したものであるかということですね。生活とか現実と関係なく、そういうメンタリティがずっと続いているという情況です。それが混乱を引き起こしているのですが、その中にいる人たちはあまりそんなことも感じなくなっているようです。
ちょっと違った喩えで言いますと、イギリスにヴィクトリア朝時代というのがあります。バブルのときに日本で、文学をはじめ、美術も建築もそうですが、これに対して関心を持っていろいろ発表したのですが、ヴィクトリア朝というのはまさにイギリスの植民地主義が栄え、バブルを引き起こした時代であって、この論調が日本の人たちに80年代に受け入れられるようになり、その残滓と心性がなおも残っているのが現状です。
また<ジェンダー>、<階級>、<人種>と、この三つのテーマが世相として流行っておりますが、これらについての作家・作品は日本でほとんどありません。沖縄を利用する作家(?)や評論家がいますが、少しも社会・政治ではないのにそれにすりかえる者たちがいて、かつての左翼小児病を思い出させます。
人種の問題としては「アフリカ展」や、「日韓展」などが開催されました。これは西洋が駄目ならアフリカ、あるいは韓国、つまりアジアに行こうというような、たとえば、ヴィクトリア朝からアイルランドへというようなものです。これらの展覧会も西洋が関心を持ち、かつ西洋に近づいていくアフリカ、韓国の人たちの展覧が主で、これはある英米文学者が言うように脱植民地主義による植民地主義化です。
僕ばかり喋っても仕方ないので、つぎに作家の方にお願いしましょう。まず、高木さん、いかがですか。

[高木]…高木です。何を話していいかとまどっているのですが、いつ頃から作品を発表して今に至っているかというのを少し述べさせていただきます。
72年ぐらいに初めて作品を発表したのですが、その頃は<もの派>というのが流行っていまして、やはり何かと影響される部分がありました。ただ、そのときにいつも、<もの派>はあまり空間性を感じさせないというのが凄く自分の中にありましたので、<もの派>とは別の方法論をつねに考えていたという感じでした。
<もの派>というのは、僕は「関係の第一次性」と言っているのですが、<関係性>とか<意味づけ>に終始してしまうわけです。ですから、ものとものとの関係性のみにいくことによって、あまり空間を感じさせない。
僕は『精神としての身体』などの著者である哲学者の市川浩先生と−−身体諭がご専門なんですが−−勉強会みたいなものを8年ぐらいやっていて、一種の現象学的なところから空間性とか身体性の問題を考えてきました。そこで市川さんが「高木さんの作品というのは空間の特異性と極性化をめざしている」というふうに言われまして、自分自身も自分の作品のタイトルを「特異な空閲へ」というふうにつけたりしてやってきたわけです。
今はヒノ・ギャラリーなどで発表しているわけですが、日本の現代美術というのは6月のようなじめじめした美術、僕から言うと何かウェットな美術で、どうも自分自身なじめない。自分も作っているわけですが、そこら辺がもうひとつ現代美術に対しても自分自身にも批判的なのです。つい最近、「アート/生態系」というタイトルの美術展がありましたが、あれなんかもやはりじめじめした感じですね。何かそういうウェットな美術ではなく、ドライというかクールというか、そういう感じのアートが日本にはないのかなと思います。
もう一方では、日本には「抽象」というのがあったのだろうか、ということです。そして「抽象」というのはどういう動きで、どういう作家がいたかと言われると具体的にきちんと話せないというところがあって、今、もう一度、「抽象」というのを考えてみようかなというところですね。
もうひとつは、日本の現代美術は藤枝先生が言われるように「容易な美術」であるということ。「容易な美術」というのは簡単にできてしまう美術ですね。僕なんかいつも批判的に<味つけの美術>と言っているわけですね。何でも味つけてしまうという感じ。味つけなしに強く表現できないかなということをつねに考えているしだいです。

[藤枝]…どうもありがとうございました。では、岸本さん。

[岸本]…画家の岸本です。僕自身はこういった席で、自分の作品について話すという機会は実は今日が初めてです。自分の作品についてどんな言葉を使えばいいか、どう言い表わせばいいか、何か話してしまうと、場合によってはかなり嘘臭くなってしまって、言葉自体が僕の作品を裏切ってしまうのではなかろうかというような危惧もありますが、自分なりに話させていただきます。
つい先日、ギャラリーαMのほうで個展をやらせていただきました。僕は大学を出て、まだそんな時間が経っていないのですが、大学院を出て、油絵学科研究室の助手をやってというようなかたちで現在に至っています。僕が学生時代過ごしたのは80年代終わりぐらいで、映像とか、インスタレーションのようなものが全盛期で、絵をやっている人というのはなかなか見当たらなかったんです。僕も学生時代は絵だけにこだわらず、たとえば、立体ですとか、いろいろ実験を重ねていくうちに、やはり絵画をやりたい、最終的には絵画表現というものに自分は取り組まなければならないなというような考えに至りました。そこまでいくにはいろいろな影響があったわけなのですが、結果的には大学4年生ぐらいから絵を、本格的に油彩とキャンヴァスで始めたというわけです。
その後、絵画表現の範囲内で制作を続け、現在も、またこれからも続けていこうとは決意しているのですが、現在においては絵画自体、媒体として非常に弱いとか言われています。そう言われる裏にはいろいろな条件があるのでしょうけど、また逆に考えると絵画こそが、自分にとって一番緊張感が持て、一番冒険ができる、また一番困難な媒体としての表現のやりがいというのを感じて、その重圧感のようなものが、現在の私を制作に向かわせています。

[藤枝]…制作の方たちからのお話でしたが、では、最後に理論の方の谷川さんに。

[谷川]…美学をやっていると言うと、美学って何ですかとすぐ訊かれるのですが、僕自身も美学とは何かということに簡単に答えられなくて、むしろその答えを求めながらやっていること自体が美学であるというほかはありません。ですから、<現代芸術の情況と方位>というこのシンポジウムについても、どの視点から話していいのか確信がありません。
さきほどの藤枝さんのお話の中にあったのは、今の美術の動きのひとつの特徴ですね。つまりたとえば、大英帝国が中心だったのが今度はアイルランドであるとか、ヨーロッパ、アメリカだったのが今度はアジアであるとか、韓国だとか、そういうようなことを言う。要するに、脱中心主義的なことが美術の新しい動きであるかのような、そういう動きがひとつあるわけですね。
もうひとつ、芸術について語るときに、なかなか逃れがたい考え方というのは、一種の進化論だと思うのです。これは古くてこっちは新しいと。これを乗り越えて今度はまたこういうのが出てきたという、そういう進化論的な時間性の言葉と、中心と周縁というような、中心を逃れて別の新しい空間を求めるというような、いわば横への逸脱というか、そういうものが交錯しているところに現代美術の位置があると思うのです。
それで今、どういうことを考えているのかということをひとつお話しますと、日本人の少なくとも近代以降の発想の根源というのはつねに自分をひとつの極において他方にヨーロッパとか、アメリカとか、そういう極を想定して、その関係性の中で動いてきたと思うのです。それは少なくとも明治以降、まったく変わっていない図式だと思います。
このところ僕は「日本人離れの美学」という発想にこだわっています。<日本人離れ>って変な言葉でしょう。日本人離れってわりといい意味で使うのですね。たとえば、日本人離れした顔をしているとか、日本人離れしたスタイルをしているとか、プロポーションが日本人離れしているとか、具体的には体格だとか容貌に関して使う場合が多いのですけど、日本人離れしたスケールであるとか、そういうふうにちょっと抽象的に使う場合もあります。つまり日本人という集団性を一方に置いて、そこから逸脱している人は凄いっていう、そういうある種のコンプレックスを含んだ、つまり<他者性>を内在化した言葉ですよね。日本人でありながらちょっとふつうの日本人とは違う。そういういわば<私>と<彼>と言うか、<他者>との差を、自分たちの集同の中に内在化させると日本人離れという概念が出てくるわけで、日本の美術というのはそれで動いてきたのではないかという気がしているんです。
よく日本の芸術については、欧米の芸術の影響下にあるとか、まねをしているとか言われますが、模倣とか影響という言葉で語るのは必ずしも適切ではないという気がします。日本人というのは昔から<他者性>を内在化させて自己を規定して、一方に日本人離れの既成概念があるとしたら、他方では<日本人そのまま>というのがあるわけです。森鷗外が「歴史離れと歴史そのまま」という二元論を使っているのですが、それを借用したものです。高村光太郎がヨーロッパから帰ってきたときに、「根付けの国」という有名な詩をいています。日本人があまり醜いのでびっくりして、モモンガのような、ダボハゼのような、メダカのようなって、ずっと日本人の悪口を並べているだけの詩があるんです。それが<日本人そのまま>です。ところがそういうことを書いている高村光太郎は、自分自身を<日本人離れ>の位置に置いているわけです。つねに日本人というのは日本人は駄目だという意味で、自分が日本人でありながら日本人離れの位置に置いてものを語るし、ものを創ってきたなと思うのです。これは何か日本人の宿命のようなところがある気がします。それと現代美術が具体的にどういうふうに関わるのか、簡単には言えませんけれども、何となくそういう気がしています。だから、少なくともそういう視点から明治以降の日本の美術史に対して、とりわけ戦後は圧倒的にアメリカの存在が大きかったわけですが、ひとつの問題提起としてそういうことを考えていると最初にお話ししておきます。

[藤枝]…どうもありがとうございました。これまでの話で共通しているもののひとつはまさに谷川さんがおっしゃったように進化論的なものが、これはよく批判の対象になりますが、またぞろ現われてきたということです。高木さんが作家として出発しようとしたときには<もの派>全盛だったわけですね。その後、ヨーロッパから絵画が入ってきまして、シュポール/シュルファスというフランスの絵画で、クロード・ヴィアラという人などが代表です。それが、不幸なことに、この取るに足りない絵画に触発されて絵を描き出し理屈を言う連中が多数いたのです。
岸本さんの場合はその後に出てきた世代であって、ある意味では幸せな世代といえますね。高木修さんは絵が流行ってきたからといって絵を描くようなことはしませんでしたが、多くの作家が、私はもともと絵を描いていた、と言ってまた絵を描き始めるということが行なわれたわけですね。そうした80年代の作家というのはもうほとんど残っておりません。花だとか動物を描く人たちが出てきましたが、こんなのはなくてよかったわけですね。ちょうどドイツやイタリアやアメリカのこの時期の絵画がなくてよかったようなことと同じで。
最近、絵がまたしても海外の影響からダウンしてきて、インスタレーションが流行って、さらにメディアのようなものがあって、コンセブチュアル・アートの亜流があるのですが、写真で自分のパフォーマンスをやっているような、何かを演じている写真を展示する人が現われてきている。この辺はまったく変わっていないということです。
谷川さんの言われた日本人離れについてですが、鏡を忘れた日本人というか、ニューヨークにずっと住んでいるある作家など、日本に帰ってきますと、自分がボクサーのような顔をしているくせに、日本人の顔が醜いと言ったりして、実に滑稽です。
高木さん、どうでしょうか。そういうような情況があるということですが。

[高木]…<日本人離れ>と言うときに、僕が考えるのはやはり、日本人には小さいときからデカルト的な「コギト」がなかったのではないかということです。「我思う、ゆえに我在り」なんていうことは、フランス人なんかは皆ある程度知っているわけだけど、日本人はそんなこと気にしない。
もうひとつ、僕なんかでも子どもの頃そうだったんですが、空間の仕切りが襖とか障子なんですね。自分の個室というものを持てなかった。ですから、そこで小さいときから自分という自我に直面することが凄く希薄だったのではないかという気がしますね。
さきほど谷川さんがおっしゃったような<他者性>の問題ですね。ランボーのような「私は他者である」というような意識もまた欠落していたのではないかと。日本人離れというのは、逆にそういう自我意識を持った人とか、「自己とは何か」と早めに意識している人ではないかと自分なりに今、谷川さんのお話を聞いたときに思ったんです。

[谷川]…そうですね。
突然話が跳ぶようですが、現代美術の日本の作家を選ぶ、要するにキュレーターというか、組織者がいるわけですね。美術展の審査員というのももうほとんどいつも同じ人でしょう。一方で日本画の大家なんかが君臨している。そういう情況の中に現代作家がいるわけです。その情況の悪さというのはどうしようもなくて、われわれがこういうところでいくら言っても全然変わらないし、一般的に名の通った大家を批判するのは非常に勇気がいるんですね、美術の研究者の間では。
ハーバート・リードも指摘していることですが、西洋的に壁にかける絵を持っている東洋人というのは日本と韓国と中国だけなんですね。東南アジアにはもともとないわけです、タブローなんていうのは。全部西洋の影響で創っているわけです。そういうものを描いているのは、ヨーロッパやアメリカへの留学生であって、金持ちのおぼっちゃんなんですね。そんなものがアジアの美術だというふうなかたちで日本で展覧会をやったりしている。そういう情況の悪さもあると思うのです。

[藤枝]…70年代、ちょうど高木さんの出発の時期には、記号学やネオ・マルクス主義と、それとフェミニズムが表現の対象になったけど、前二者は捨てられて、フェミニズムだけが、とくに美術の世界では<ジェンダー>が強調されてきた。これは谷川さんも批判を書かれていて、ジェンダー、ジェンダーと言って強調されると、むしろ男のほうが出てきてしまう。結局、ぬるま湯につかったような状態で、社会的な抵抗などと無関係にジェンダー、フェミニズムというものが浮かび上がってきて、これは非常に囲ったことです。これは前衛の手法が形式化、形骸化して、だいたいポップアート以降に拡がっていった行方と非常に似ております。
とくにアメリカ美術について言えば,確かに抽象表現主義までは優れた芸術を創りましたが、それ以後のものはほとんどが認識論的な芸術であって、そういうものの影響を受ける必要はわれわれにはないわけです。
あたりまえの質問ですが、岸本さんは最初からずっと絵ですね。

[岸本]…発表を始めてからは絵です。

[藤枝]…何かほかのことをやろうとか、インスタレーションをやろうとか、そういう気持ちは起きなかったですか。

[岸本]…インスタレーションですか?

[藤枝]…ほとんどの人がそういう誘惑に負けていろいろなことをやっているうちに訳が分からなくなってしまったというのが日本の現代美術の情況があり、先に言ったように現在もそうなのですが。

[岸本]…インスタレーションというお話なのですが、やはり本音を言いますと、かなり手軽にできてしまうというような、かと言って絵がそれだけ困難なのかと言われるとまたそうでないものもあったり、僕個人のスタンスみたいなものがあるのですが、あまり興味はなかったですね。コンセプチュアルっぽいものには学生時代、関心を抱いた時期もあったのですが。

[谷川]…インスタレーションというのはもともと壁にかけるとか、彫刻を置くという、そういう意味でしかなかったものが、それ自体が作品のひとつのやり方を指すような独立した言葉になっていった経緯があって、安易な芸術の逃げ場になっちゃっているわけですよね。
話は変わりますが、一昨年だったかな、ちょうど12月頃に高野山で泊まりがけのシンポジウムがありました。そこで僕はまた<日本人離れ>だとかの話をして、谷崎潤一郎を引き合いに出しました。谷崎は『陰翳礼讃』という日本文化論を書いていて、日本は<陰>というものを非常に大事にしてきたと言っています。それはなぜか。結局、女性の肌の白さを際立たせるためだと言っているわけです。あまり明るくすると汚さが目立つので暗い中に女性がいると白く美しく見えると。日本文化の肌理というのは全部そこから来ているというのですね。お豆腐であるとか、いろいろな具体的なものがたくさん出てくるわけです。
これ、僕は典型的な日本人離れの議論だと思うんですよ。つまり西洋人の女性の肌の白さと日本人の女性の肌の白きを比べると西洋人にかなうわけがない。しかし、日本人の男は西洋人の女性は選ばないわけです。たとえば、『痴人の愛』の主人公、「日本人離れした」女性ナオミを男は選ぶ。日本の文化というのはつねにそういうかたちで、いわゆる日本人そのままではないのを選ぶ。そういうかたちできたのではないか。これは別に男女の問題だけではなくて、日本文化論そのものがそういう構造を持っていると思うんですね。つまり日本文化そのものなんていうのはもともとないわけです。つねに他者との関係の中で自分自身が、いわば日本人から少し超越する観点に立って日本文化がこうだというふうにして、日本人そのものをあとから規定しようとする。そういう話を高野山でしたんです。
そうしたら参加していたオーストラリア人が、肌が白いとかいう、白人と日本人を比較したりする議論はけしからんなんてことを言い始めたんですね。けしからんと言ってもそれは谷崎がやっているわけです。そのオーストラリア人が言うには、そこにアジア人の第三者の視点が入っていないのではないかと。韓国とか中国とか。日本と西洋という、そういう二元論でものを語るのはいい加減にやめろと言うわけです。韓国や中国が西洋に対してどう思おうとそれは彼らの勝手であって、われわれがどう思っているかということが問題なんですね。だから、それは谷崎を引き合いに出しながら僕が喋ったのですが、そうするとそのあと、聞きに来ている方からいろいろな質問があって、フェミニズムだとかジェンダーだとか、そういう議論になっていったわけです。僕はそういう議論そのものが、大局的に見ると西洋の戦略の中に取り込まれているというふうに思います。そういうことを言う必要はないわけで、われわれはわれわれの視点から自分の思ったとおりに語ればいい。今、フェミニズムが流行っているからフェミニズムについて喋らなければいけないということはない。
ジェンダーとは何のことだかわからない方もいらっしゃると思いますが、セックスとジェンダーというのはちょっと違うんですね。セックスというのは生物学的な性差のことで、つまり男か女かとか、そういうことです。ジェンダーというのはある文化の中にある男性性、女性性、男らしさだとか、女らしさということで、そういう視点を絵の中にも求めていこうという動向ですね。つまり男が女をみて絵を描いてきたということは確かで、ここにはだから男のこういう欲望が隠されているとか、女のこういう立場がこの絵の中に出ているとか、そういうことを暴きだしていくのが今のフェミニズム的美術論なのですが、それはやりたい人がやればいい。でもそれをやって何が起きるかというと、男と女のジェンダー差の意識が非常に先鋭になるわけです。ジェンダーという問題に敏感になっていく。敏感になったあとどうなるかと言うと、絵が描けなくなる。でもまだ日本は絵が描けなくなる段階に来てないわけですよ。西洋の議論そのまま受け入れて紹介したりしている段階ですから。具体的に人物を描く歴史が日本にはなかったからあまり関係ないと言えば関係ないのですけどね。

[藤枝]…日本人は自ずとアイデンティティが出てくればいいのです。けれども日本人は、自意識過剰なところがあって、だからといって素晴らしい技術を創ろうという理念があるかと言えば、そんなものは何もないわけですね。
さきほど谷川さんがおっしゃいましたように通俗きわまりない審査員だとか、そういう連中がいて、そういう人たちに皆、なびくというのはエリート主義と権力志向の表われです。これと関連してこれまた反吐の出るようなことですが、本当に単に金によって芸術が左右される、というところがありすぎます。
それとですね、僕は、美術史家は美術の資料ではなく表現を語らない、いや語れないために「美術なき美術史」といつも言っていて、美術史は歴史家とか社会学者がやったほうがいいと思っています。私のまわりの美術史家もそういう人がほとんどでありまして、美術の話なんかできないわけですね。何を語っているかというと、ワインと旅行の話ぐらいで、観光美術史程度なわけです。その中で出てきた問題意識の矮小化のひとつが、<ジェンダー>でこれが教条的なイデオロギー中心になってしまうという情況があるわけです。

高木さんはいかがですか。

[高木]…昨年、ニューヨークでホイットニー美術館のビエンナーレを見てきたのですが、肉体や器官を扱った作品が凄く多かったのですね。これはいったい何なのかなと思ったわけです。結局、肉体を扱った作品というのはロジックではわり切れないもの、そういうものにアーティストたちが目を向けている結果かな。その辺、谷川さんに、ちょっとお聞きしたいですね。

[谷川]…確かに肉体回帰みたいなものがありますね。人体がモデルでなくなったということが一番大きいです。それは今世紀初めにオルテガ・イ・ガセットも『芸術の非人間化』という論文で言っていることですが、絵画の中から人間が消えていき、彫刻家が人体をモデルにしなくなりましたから。つまりマッスの彫刻がなくなって、彫刻が解体し始めました。
ところがこのところ、確かに具象的な人体を描く人が多いし、自分自身の肉体を使ったパフォーマンスみたいなものもあるし、いろいろなかたちで肉体の復権みたいなものが起きていると思うのです。格闘技ブームなんかともちょっと関係があるかもしれない。結局、イデオロギーをあまり信じられなくなったと言うのかな思想とかイデオロギーとか観念とか。最後に残るのが肉体だという、いい意味でも悪い意味でもそういう現象が出てきていて、肉体を使うと何となくおもしろいですし、目を惹くから、それこそ藤枝さん流の「安易な芸術」という言い方と結びつきやすい危険性は非常に持っている。では肉体を放棄すればいいかと言うとそうでもないような気がします。僕はやはり芸術というのは何らかのかたちで肉体との関係が基本にないと意味がないと思います。
それは高木さんのようなある意味で抽象的な彫刻というか、立体作品を創っている方も、身体と言うともう少し幅を持ってしまうかもしれないけど、そういう意識でやってきたわけですね。

[藤枝]…高木さんにも肉体を使った作品は一時ちょっとありましたね。

[谷川]…川に横たわっているのがありますよね。昔の写真をみていたら高木さんが川に横たわっていたのでちょっとびっくりした。

[高木]…やはり身体性というかメルロ=ポンティの影響があるかなという感じですね。ポンティは『眼の精神』の中で「精神が絵を描くなどということは、考えてみようもないことだ」と言っているのですが、まさにそのとおりですよね。

[藤枝]…だけど、<もの派>の連中の誤りというのは、ものをちょっと動かし組み合わせますね。それをメルロ=ポンティ風の身体論だと思って大きな誤りを犯したのです。
ただ、芸術があるところまでいくと必ず<体>が出てくるというのは、これは西洋美術のひとつの特性のようにも思われる。善い悪いは別として。だから、日本の場合はなかなか自己を開示するというか、露呈するということをしませんので、日本でパフォーマンスが流行ったときも体そのものではなくて、物を処理することをもってパフォーマンスと称していたわけですね。

[谷川]…さきほど言った谷崎がそういう問題を書いてるんですよね。要するに、西洋の肉体観というのは極端に言えば<トルソ>なんですよ。枝葉末節である手足とか首みたいなものは取れててもいい。どんとした大きな胴体があればいいというのが西洋の彫刻の一番の基本でしょう。
日本人は姿、手足だとか首の所作を捉えるのが大事だという考え方があって、『北斎漫画』に描かれた人間の姿というのはまさに日本の才能がそのまま純粋に結晶したものです。では、胴体をどんと出すかというと、できなかった。一度もできなかった。
だから、そういう長い歴史の上に近代というものが出てきたので肉体から離れ始めた西洋芸術と、もともと肉体とは無縁の日本の芸術が、何となくうまく接合したところがあって、日本人の誰でも、西洋人と同じように絵が描けるとか、彫刻が創れるというような感じできたと思います。でも基本が違う。肉体の問題がやはりあるでしょう。
今、西洋の芸術が何となく肉体回帰みたいな現象を持ち始めているけど、では日本人がいったい何をやるか。また同じようなことをやるのが出てくるかもしれませんが、せいぜい森村泰昌みたいに絵の中に自分の体を紛れ込ませたりとか、ああいうことぐらいじゃないでしょうか。この辺りがひとつのターニング・ポイントになりそうな気がしていますが。

[高木]…藤枝さんがよく言われる「図式的・解説的」という感じはもう彼にぴったりなんですね。ですが、森村さんの作品というのはその意味で告知的でメッセージがストレートに伝わる。メッセージがストレートに伝わるというのは図式的で、逆におもしろくないんじゃないか。

[藤枝]…岸本さんはどうですか。

[岸本]…あの方の場合、引用というよりもほとんどパロディというような感じがあります。やはりああいう作品を受け入れてしまうような情況がありますから。僕にはそこがちょっとわからない。

[藤枝]…あれは外国人がちょっと認めたので日本でも取りあげて、それで展覧会をやる。外側からの力を借りて、自分たちが良い作家を一人も発見せず、しない学芸員が、それで大きな展覧会をやっている美術館がほとんどです。だから、ぜひ言っておきたいのは、画家と画商がちやほやして、まともな仕事などほとんどしたことのない学芸員連中が、自分自身が偉いのではないかと錯覚を覚えたというのが80年代以来のことです。今や、金がなくなってきたので、好き勝手ができなくなって、それは大変良いことだと思います。
西洋でも芸術のわかる学芸員などというのはたいしていないわけですね。1人か2人ぐらいしかいないので、外国人がいいと言ってもわからないでいいと言っている連中、既成概念に寄っている連中ばかりですが。日本はいまだに外国に弱いですから、外人がいいと言えばいいということになってしまいます。
ところで何かこれまでの話についてで会場の方から質問なり、ご意見があったらおっしゃってください。

[会場1]…さきほど、高木さんが日本には<自我>というものが希薄だというようなことをおっしゃいました。今日はあまり出てこなかった言葉ですが、<作家>とか<作品>、という言葉に最近いろいろ疑問があるんです。<作家>というのは私としては近代的な自我という概念を反映した近代になって成立したものだと思っていまして、日本で作家が創る作品ということが言われるようになったのも、近代的な自我というものが輸入されてからのことではないかと考えています。ご自身が作家であるとおっしゃる方の立場、態度は否定するわけではないのですが、私自身は作家とか作品という概念はもうちょっと違うのではないかなと。モダニズムの尾を引きずっていると思うんですね。それぞれの立場でそういったことに対してちょっとお答えいただければと思います。

[高木]…たとえば、ポストモダンとか何かがよく言われますよね。単にモダニズムの延長上にポストモダンがあるにすぎないと僕は思っているのです。モダニズムが消えたとか消えないとか、そういう意味ではないと思っているのですけれども。

[藤枝]…そのモダニズムの中に<自我>、<作家>、<作品>という概念が含まれているということですね。

[高木]…そうですね。

[藤枝]…今のご質問の方は、作品の代わりにたとえば<テクスト>とか、そういうものを考えるということですか。

[会場1]…表現の主体としての<作家>という、自己表現の主体としての作家ですね。自己表現の結果としての<作品>というのは、近代的な自我に基づくものではないかという意味での<作家>なり<作品>という概念だと思うんです。

[藤枝]…たとえば、作品とか作家という言葉を使わないで何かを表現する。<表現>もまたそれに近いのですが、そういうことですか。

[会場1]…言葉というのを強調したのがまずかったのですが、それに象徴される態度ですね。自分が表現の主体であるという。作家本人が表現の起点であるというような態度は、少なくとも日本では近代になってから芽生えたものなのではないかと。

[藤枝]…それはそうだと思います。でも今はもうそれに対して否定的であると言われるわけですか?

[会場1]…私自身は疑問があるのですが、そういった態度で制作をなさる方を決して否定するわけではないですし、それはもちろん尊重するわけで、その点に対してとくに作家の方が、ご自身はどういった態度で制作なさっているか伺いたいんです。

[藤枝]…岸本さん、どうですか。作家としての主体性。自我というのは誰でもあると思いますが、近代的自我ということで何か。

[岸本]…質問の内容は作家と作品、そういう呼称に対してそれは近代以降のものであるから、疑問があるということなのでしょうか。人間がいて、表現したいという欲求があって結果的に作品ができる。作家と作品。何も不自然なところはないような気がするのですが。

[会場2]…岸本さんに伺いたいんだけれど、やはり絵じゃなければだめなのだなと思ったとか、あるいは絵であるべきだろうというふうなお話があったのですが、その理由が何なのかはまだ語っていただいていないので、ちょうどまた今、絵画ブームなんていうことも言われていますので、その辺りのところを伺えたらいいかなと思います。

[藤枝]…絵画ブームじゃなくなっちゃったのですよ。だから、そうじゃないものを今、絵画をやっていた人がやり始めたわけです。

[会場2]…だから、いわゆる本当の絵画かそうじゃないかということはとりあえず置いておいて、ただ、そこで岸本さんがなぜ絵画をやりたいかということ。それを知りたいですね。

[岸本]…もちろん絵画ブーム云々の情況と、僕個人の表現欲求は、とくに関係はないです。これはかなりの個人的な展開としか言いようがないのですが、やはり平面というある種の規制された中で、単純に色彩と形態、もしくはそれから派生してくる、湧き出てくるような空間性と言いますか、そういったものをとにかく自分の中から出したい欲求が徐々に強くなってきたということでしょうか。それがつまり絵画をやりたいということです。

[会場2]…何となくわかるのです、作家の言葉としては。たとえば、平面というのはもの凄く規制があって、「僕にとってはおもしろい」と言われれば、ああそうかなとか、あるいは「僕にとってはやりやすい」と言われれば、ああそうかなという感じになっちゃうのですが。つまりそういうふうなこととして解釈しちゃっていいのかどうか。何か変なことを突きつけているような気がして申し訳ないんだけど。

[藤枝]…あんまり考えないで仕事を始めるでしょう。子どものときから絵を描いていて。

[岸本]…そう言われてみればもちろんそうです。

[藤枝]…こういう訳だから絵を描くとか、彫刻をするとか、あんまり理由づけしない。

[岸本]…僕はないですね。

[藤枝]…作家というのはそういうものでしょう。理屈なんか言わずに何かをやってみて、どれが合っているかなというふうに思って、能力がもうだめだと思ったらやめてしまいますしね。

[岸本]…演繹的に何かこういうふうにしようとかいうふうにして入っていくわけではありませんので。

[藤枝]…理屈をつけて絵を描いたり、彫刻を創ったりしないと思います。理屈をこねる者にはろくなものはいません。70年代がそういう時代だったんですね。その典型がロバート・モリスであり、ロバート・スミツソンです。谷川さん、<作家>、<作品>という概念について少し意見を、お願いします。

[谷川]…日本語で言う<作家>と<作者>を分けろと言ったのは、ロラン・バルトなんですね。つまり、描く主体が作者であり、生身のいろいろなエピソードを纏った、現実に生きている人間が作家であると。
僕は造形芸術の場合と、たとえば小説の場合とではちょっと違うような気がするのです。つまり美術は作家があまり問題にならない領域だと思うのですよ。小説の場合だと作家と作者の区別がちょっと曖昧になってきますね。例をあげれば、三島由紀夫のホモの相手の福島次郎という人がこの間、本を書いて三島由紀夫と現実的にこうだった、ああだったと、やはり三島はホモだったのだということで10万部、売れたわけですが、あれは作家を問題にしている。しかし、僕は三島の小説を読むときに、三島がホモだろうがホモでなかろうが、福島次郎と関係があろうがなかろうが、別にそういうことは読むうえでかまわない。つまり、作品が理念的に指し示しているところの作り手が作者であって、あくまでも作者を問題にすべきだと思うのです。
ですから、さきほどの質問された方がそういう意味で言っているのだったら、作者と作家を区別するというロラン・バルト的な言い方なら、僕も実は賛成なのです。さきほどの方が言われているのは、たとえば、「近代の表現主体として」という言い方がありましたよね。芸術が表現であるというのはこれはひとつのイデオロギーなのですよ。芸術は表現じゃないかもしれないわけです。芸術は表現だと思って、つまり表現というのは自分の中身を出して自分の思っていることを外化するという考え方ですよね。だから、ろくでもない作品が正当化されてしまうことにもなるわけで、そういう意味では表現という言葉は、少し反省するというかな、ちょっとやはり考え直す必要があるということはそのとおりだと思います。でも表現主体という問題と、高木さんが彫刻家で岸本さんが画家であるという、そういう自己紹介の仕方に抵抗があったということと少し話が違うのではないかという気がします。彫刻家は要するに彫刻を創っている人が彫刻家で、絵を描いている人が画家であって、今、お前は描いてないじゃないかと。何年間もやっていないじゃないかと言うのとはちょっと違うという感じがしますね。いろいろな意味のレヴェルがありますから、確かに重要な質問だったと思います。

[藤枝]…表現という言葉は、外国であまり使わないのですね。日本だと何か表わすことをすぐ表現と言ってしまいますが、それでもやはり自己表現というのは今ではほとんど使われない言葉になっていると思いますね。<近代的自我>となりますと、これはもう何度も言い古されたことで、口にするのも恥ずかしいくらいですが、これだって本当はもっと吟味してやったほうがいいのですが。

[会場1]…私は、巷間で見られる作品が多くの場合、自己表現であるという意味で自己表現と申しあげたわけです。

[藤枝]…そうでしょうか。普通、巷間で見られるものには、そういうものさえもないような気がするのですけれど。観念的な何かが自己とすれば、観念的自己表現というものは多いですが。

[会場1]…近代的自我というものも話のとっかかりとして、高木さんがおっしゃったことを受けて申しあげたのです。作家と作者の区別という意味ではなくて、私が作家と言うのは、自分が表現の主体であるという態度を持つ人をさして作家と言ったのです。

[藤枝]…主体は否定され得ないですね。ですから、創る人の主体。表現主体は厳としてあるべきです。現われ方が変容したのです。
高木さん、どうですか。その点について。ちょっとさっきモダニズムの話も出ましたが。あまりモダニズム、モダニズムと言うのも飽き飽きですね。

[高木]…さきほど谷川さんがバルトの話をされましたが、僕なんかも、ものを創りながら、なおかつものが非人称的な空間を出せないかと。いわば作者が作品に顔を出さない。そういうようなところを僕なんか、ある面で自分の仕事に求めているわけです。

[会場1]…最終的には顔を出さないという意味での表現になるのでしょうか。

[高木]…つまり作り手が創っているのは確かなのですが、作り手そのものの顔が見えないようなものにするということですね。ですから、先にそういうものが非人称的な「作者の不在」的なものをめざすということなのです。

[藤枝]…要するに、作者がそこに現われてきているというようなものは嫌だと。ポストモダンの一部の作品はそういうことを故意にやったりしますが、そういうものではないということです。メタ・フィクション、メタ・アートなどというのは、だいたいそういうものが多いのですが、そういう作品は高木さんは創りたくないということですね。

[会場3]…作家と作品が別々に一人歩きするということについて時々考えちゃうんですが、というのは私は大学を出てから精神障害者がリハビリ的に絵を描く講師をしたりして、そうすると、私も絵を描いていますが、たまにびっくりするような凄くいい作品を障害者の人が描いたりするんですね。私たち健常者がうまく見せようとする嫌らしい部分がないということで、そういう表現ができるのだと思うのです。そういう作品と出遭うとちょっと考えちゃうことが多いのです。どう見たらいいのかなと。彼らは芸術を意識して描くわけではないですが、いくら、絵が凄くいいからと言って、その絵だけを芸術として高く評価できないというか、どういう見方をしたらいいのか。よくアウトサイダー展みたいなことが行なわれたりするときにもとまどいがあるんです。

[藤枝]…谷川さん、いかがでしょうか。そういうのは。

[谷川]…本当に重要な質問だと思います。前に僕はちょっとムンクについて『BT』に書いたことがあるのですけど、ムンクの「叫び」に代表されるようなああいう作品は表現主義の先駆だと言われるわけです。ムンクの内面的な苦悩だとか、不安だとか、絶望だとか、そういうものがよく出ているというのですが、実はムンクの生涯をよく調べてみると、確かに彼はアル中で精神病院みたいなところに入院したことも2~3回あるのだけれども、「叫び」に代表されるようないわゆる一番ムンクらしい気持ちの悪そうな絵を描いている時期が実は一番健康なときなんですよ。本当に衰弱しているときには画面が空疎な構成になっていて、一目見ただけではあまり異常性を感じないような絵になるのですね。
僕も障害者というのかな、精神異常者というか、そういう絵を見て非常に感動することがあります。そういうものを見たときに、では現代美術だとか言って大げさに描いている連中とそういう人たちが描いた絵とどちらが重たいかとか、どちらがいいかという問いの前に立たされると一概には答えられないのですよね、確かに。
現代美術というものもそうだと思うのです。つまり現代美術というと、ここに集まっている方、皆、そうですが、こういう活動だけではなくていろいろなレヴェルがあるわけですよ。海外でたまたま小さな画廊に顔を出すと、いいなと感じるまったく有名じゃない作家たちの作品が掛っているわけです。そうするとその国は凄いなという気になるわけです。
アウトサイダー展のことで言うと、ちょっと話がずれますが、日本の絵は大抵知恵遅れというかたちで括られちゃっているんですよね。知恵遅れの人たちがあなたのような、そういう指導者みたいな人がいるときにいっしょに描いた絵を出しているという感じがあって、外国から来た絵はいわゆる精神分裂病の患者の絵。それをアウトサイダーとしてまとめてやる日本の展覧会のあり方に僕はちょっと疑問を持っています。けれどもそういう知的障害者の絵を見ていいなと思うときもあります。それが正直なところです。

[藤枝]…あなたが今、関わられているのは知的障害の方々ですか。

[会場3]…精神分裂病の方がほとんどで、分裂病の患者さんが多いのと、あとは躁鬱、現代病としてボーダーラインのような方ですね。
でも本人たちは芸術として発表したいという意思を持って描いているわけではないんです。それらの作品を私がお蔵にしまってしまったり、処分したりしてしまうときに、どうも釈然としないと言うか−−

[藤枝]…だけど、芸術であろうが何であろうがいいということになれば、いいのです。もちろんそういう病気の人でも視覚能力が非常に高い人はいるはずですから、いい作品はできることは大いにありますよね。

[会場3]…もちろんそうです。

[谷川]…ひとつ言い忘れたのは、精神病患者の作品はおもしろいのですが、すぐ飽きるのです。不思議なことに。長い間、見ていられない。やはり芸術表現として、芸術として見ていられないのですよ。

[会場3]…ええ。そういうところを感じてとまどうというか。絵描きとか、創る側の私たちは外に向かって描いているんですよね。見せたいという。そこの違いがまず彼らは内に向かって描くというか。たとえば、幻聴や幻覚に伴って描かされることもあるし、でも、純粋に内から湧き出るものが描けるというのは、私たちは羨ましいところがあると言えばあります。

[谷川]…エクスプレッションのレヴェルには二つあると思うんです。精神病患者とかそういう人たちのエクスプレッションというのは徴候的エクスプレッションです。つまり、精神分裂病の患者の描く絵は、たとえば、正面性の絵が多いというようなことがよく言われます。人間が真っ直ぐ前を向いてボーッと立っているというような絵ですね。ムンクの絵にそれがよく表われていると言われます。その正面性は精神分裂病を指し示していると。そういうふうに表現を見るときは、それは徴候、症状、シムプトンとしてのエクスプレッションを見ているわけです。芸術としての表現はなくて、精神病患者の幻想はシムプトンとして見ているからおもしろいのであって、それを除いちゃうと飽きちゃうんですね、やはり。だから、そこは決定的な違いではないかなという気がします。
ムンクの「叫び」は一見、狂人の芸術に見えるけど、実は非常な構成力を持って計算されて描かれていますよね。直線の橋とS字型の人体、S字型の雲。非常に計算されています、緻密に。そういうところを見ていまだに皆、心を惹きつけられるわけであって、その違いがやはり決定的にあると思います。

[藤枝]…芸術の価値というのは難しく、重要な問題ですが、その領域からは超一級のものはやはり出てこないということはありますよね。

[会場3]…精神病の方という話に偏っちゃったんですけれど、作品ひとついいものがあったからと言って、それを<作家>と切り離して芸術として認めるということの疑問があります。

[藤枝]…本当によければ僕はいいと思うのですけどね。そういうものはなかなかありませんけれども。
デュシャンの「便器」というのも、観念の産物としてではなく、便器を見たことも使ったこともない人が、あるいはアフリカの誰かが見ると素晴らしいと思うかもしれないですね。しかし、やはり結局は本当に優れたものにはならないというケースだと思います。

[会場4]…谷川さんから進化論的なお話がありました。ダダから数えてもう100年以上が流れていますが、流れのおもしろさという意味では、自分も作家ですからそれを取り入れていこうとか、あるいはその一員たる責任を果たしたいという感情もあるのですが、なかなか流れそのもの、つまり進化の方向性が非常に多様化しているので、画家として現状がつかみにくいという苛立ちを、現代作家は皆、お持ちだろうと思うんです。
ここで申しあげたいのですが、評論家の皆さんの、谷川さんも藤枝さんもいらっしゃって、文章をおもしろくて拝読させていただいているのですが、本や雑誌の中で各評論家の文章を拝読するとそれほど毒がないのですね。ある意味で。画家たちに毒がないのを評論家の皆さんはじれったく思っていらっしゃるのでしょうが、私たち作家の側から見ると評論家の毒がない。毒を持ってドン・キホーテ的な活躍をむしろこれからどんどんなさっていただきたい。たとえば、アメリカなんかでも『ワシントンポスト』がこう書けば、『ニューズウィーク』はこう書くと。もう全然違ったことを論じでもかまわない。日本ではその辺がやや物足りない感じがいつもしています。
それからさきほど谷川さんが言われた進化論的なことを明示するというか、整理していくのが評論家の皆さんが、これからご自分の仕事になさっていく上で負うべき大きな責任ではないかというふうに感じています。作家に対して進化論的な意味でも、あるいは未来論的な意味でもゆっくりと丁寧な、また、ときに非常に鋭い毒のある評論をしていただきたいと思っています。その辺をちょっと突っこんで谷川さん辺りからお言葉をいただきたいんですが。

[谷川]…今、二つの質問があったと思うのですね。評論をやる立場と、進化論的な見方の問題と。あとのほうからお答えしますと、20世紀もあと2年ぐらいで終わりそうになっていて、進化論的な美術史の物語、解説書みたいな西洋美術史がずっとあったわけです。そういうものは読むと大変わかりやすくて、僕も随分勉強させてもらいました。
しかし、それでやっていくと要するに今現在何をやっているのだろうという気になる。作家の方もそうだと思うのですが、文章を書く人間もそれでいいのだろうかという気に僕も最近なり始めています。そういう進化論的な物語ではない美術史−−美術史ということ自体もちょっとおかしいけれども−−を書きたいなと考えているのです、実は。考えているのだけれども、どういうふうにしようか、まだ、決まっていません。つまり言葉を使うわれわれ、藤枝さんのようないわゆる美術批評家、それに美術ジャーナリストも含めて、今言われたような責任は非常にあると思いますね。
また、一般に美術ジャーナリズムに勇気がないというのは、これはもうはっきり言える。権力のある者は批判しない。既成のものしか褒めない。右顧左眄(うこさべん)しているというのは事実だと思うのです。だから、一人ひとり勇気を持ってものを言っていくしかないという気はしています。それでどういうふうに圧迫されても左遷されようとしょうがないわけで、あとはもう個人の責任の問題になるわけです。僕個人としては、先ほども言いましたとおり、20世紀の美術の進化論的な物語ではないようなものを書きたいという希望は持っています。
毒がないと言われると、ああ、そうかなと思うしかないのですが、個人を攻撃するのが毒だということではないと思います。藤枝さんは随分毒があるんじゃないですか。

[藤枝]…いえいえ。どうも批評家らしい批評家はいなくて、今、とくにそれが減りつつある。これは今、谷川さんがおっしゃったようにジャーナリズムの問題が大きく作用しています。要するに注文されて書いてきたわけです、われわれは。そして、注文する側が堕落していますので、批評らしい批評が育つ下地がもうほとんどなくなってしまいました。そうなると、もう毒どころではありません。
批評というものは立場によって価値判断をするのが当然ですし、展評の場合も前回の作品よりよくなったとか、悪くなったなんて書くのが普通です。
ほとんどないです。新聞の美術批評というのはこれは一部を除けば目茶苦茶です。社会面、経済面というのは生活と密着していますから批判するわけですね。文化欄はまったくそれが家庭欄とだいたい同じレヴェルで料理の紹介しているような記事ばっかりです。新製品の紹介と言いますか、その程度です、非常に悪い時期です。
新聞もだいぶおだてられてますね。作者や画廊が新聞に載りたいために。それがまた大きな弊害を巻き起こしている。

[高木]…やはり新聞に載らないですね。僕なんかは。

[藤枝]…一度もないですか。載ったことは。

[高木]…いや、ありますが。

[藤枝]…岸本さん、いかがですか。

[岸本]…僕は一度も新聞に載ったことないので。でもメディアに載る載らないというのは、作品にそのまま影響するわけではありません。

[藤枝]…展覧会評が少なすぎますね。冗慢な文学的な言辞はいいから短評を多く掲載すべきです。最近の新聞に批判性をもった記事もありますが、展覧会の案内がちょっとあるだけですね。しかも、あれも選別されているというのが変な話ですね。

[高木]…『ぴあ』のようなものが出てきたから、まだよくなったんですよ。

[藤枝]…『ぴあ』がない頃は新聞記事の案内が出るだけでも皆、喜んだわけです。
誰かジャーナリズムの関係の方で反論があれば。学芸員の方でも。どうぞ。

[会場5]…ジャーナリズム関連じゃないのですが、質聞させていただきます。
高木さんがさっき、ホイットニーのビエンナーレに行かれて、最近身体表現みたいなものがまた復活してきて、非論理みたいな思考がまた出てきているのではないかとおっしゃいましたが、αMの岸本さんの絵画を私、この度、初めて見せていただいて、もちろんカオス的な絵だとは思いませんでしたけれども、やはり非論理の魅力みたいなものがあるように思えたのですね。パフォーマンスとかと違う意味での非論理だと思います。
それについて、抽象的な質間で申し訳ないのですが、もう少しお話していただければと思うのですけれども。

[高木]…岸本さんの作品についてですか。僕ももう少しゆっくり岸本さんの作品を見ておけばよかったなと今、思っているしだいです。ヴァレリーは芸術作品というのは「いつでも見ているものなのに、それをわれわれは、かつて見たことがなかったと、つねにわれわれに教えてくれる」と言っていますが、ぱっと見て何かもうこれでいいというのではなくて、やはりそこに何か時間の遊びみたいなものが必要なわけで、そういうのはさきほど言ったような図式的・解説的な絵画とは違うわけですね。やはりある面でどこかで見ることの時間が必要とされるというように思えます。ですから、そんなに一度で知覚し得るような作品ではない。そういう論理ではわり切れない部分に魅力もあるのではないかという気がします。

[藤枝]…非論理的なのはあたりまえでしょう。芸術作品だったならば。特別な場合や、ウルトラ・コンセプチュアル・アートを除けば。ですから、それと続けてちょっと言っておきたかったのは、分割と反復と単色というか、そういう作品は本当にやめたほうがいいと。今日、ここに来る途中読んでいたのですが、ある評論家が誰かの作品の解説に「豊饒なモノクローム」という言葉を書いていましたが、作品の善し悪しを別にして「豊饒なモノクローム」なんて、今、そんなものは考えられない。それをちょっとひと言言っておきたいと思います。

[会場6]…さきほどからの美術館の学芸員とかジャーナリズムについて随分批判があるので、ひと言。美術館学芸員をやっています。今までジャーナリズムの批判とか、さきほどから言われることは権威に擦り寄って主体がないというご意見だと思います。
自分がいいと思った絵とか自分がいいと思った作品、いいと思った点というのをちゃんと言葉にして文章にして、また議論を交わせる。たとえば、学芸員であってもジャーナリズムであっても作家であっても、あるいは一般の人であってもいいと思う、あるいはいいと思わないということもあるわけでして、一致するわけがないんですね。それを議論を戦わせてやるということが僕は重要だと思うのです。その場としてジャーナリズムがあり、また、美術館があると思うわけです。
しかし、私が経験してきた範囲では、雑誌社でこの作家を取りあげようとかというミーティングがあるとか、美術館で学芸員同士がこういうものをやろうとミーティングがあって、ディスカッションをやってある方向に流れていくとかというプロセスはほとんどありませんでした。やはり何かしらの権力と言うか、やはりヒエラルキーと言うか、そういうものに左右されて流れていくと。何か強行に意見をしたりすると黙殺される、ないしは仕事が回ってこなくなる。美術館に限った話ではないのでしょうけど、そういう情況があって今日まで来ている。
率直に批判されたりとか、それについて答えられる、そういうプロセス自体がもっと日常的に組織の中で持たれるべきだと思います。やはり組織じゃないと大きなお金は動かないし、大きな活動もできないというのがありますから、そういう中でやっていければいいなと思っていながら、なかなか今、言ったような情況にあってできない現状というのが実情です。

[藤枝]…日本のいいところは喧嘩しても免職になりませんから、そこはいいところなので、もっとどんどん喧嘩はやったほうがいい。そればかりか、インチキな行動をしても問題にされない。そういうような情況を打ち破っていかない限り、美術館にはあまり希望が持てないということです。これを叩くのがジャーナリズムなのです。その使命がほとんどまったく果たされていないというふうに思います。時間があまりありませんのですが、最後にちょっと何かひと言ずつおっしゃってください。

[岸本]…僕は画家として自分の立場、自分の作品以上のことも以下のことも実際言えないのですが、そういういろいろ取り巻く情況はあって当然のことで、それらと何らかのスタンス、関係というのが作家のほうに生じてくるとは思います。しかし、あくまでも主体性というのはやはり自分自身にあって、私、まだ30歳なのですが、あと60年生きるつもりでいます。その中で、必ず自分にしかできない絵画というものが存在すると信じています。ちょっと抽象的なのですが、そういった絵を前向きに制作していきたいと考えています。

[高木]…今、関心があるのは、ひとつは<空間性の問題>なのですね。では、その曖昧模糊とした空間性についてどうすればいいかということをつねに考えているわけです。それにはもうひとつのキーポイントというのは具体的にどう表現するか。具体的にどう表現するかということが今、凄く、自分の中で考えている問題です。

[谷川]…さっきも言ったけど、やはり小さな国に行ってもちょっとした画廊の中にいい作品があるという国があるんです。結局、文化というのはそういうところでしか支えられていないので、権力と結びつこうが結びつくまいが、別にどうでもいいので、そういうものを創る側も、われわれ、ものを書く側もやはり自分の信ずるところをやると。そうすると大多数の評価じゃないかもしれないけれども、評価する人は必ずいるわけで、そういうふうにして少しずつ文化の厚みみたいなものを作りあげていくしかないのだと思うのですね。

[会場7]…さっき谷川さんが日本人離れという問題と日本人そのままということのお話があったのですが、そのときに日本人離れということに対してはどちらかというと批判的な意味合いがあったように思います。それは僕の聞き取り方の問題もあるかもしれないけど、日本人そのままに、肯定的な意味合いを持つのかどうなのか。あるいはそういうことではなくて、日本人離れ、日本人そのままという問題を超えていく方向性として何かキーワードになるようなものがあるのか。もしあるのならばお聞きしたいなと思いました。

[谷川]…日本人そのままに別に批判的ではないし、日本人そのままに肯定的でもなくて、日本人そのままと日本人離れという、そういう二極のダイナミックスみたいなもので、いい意味でも悪い意味でも日本の近代の美意識が動いてきたと思うんですね。日本人ぐらい外国で日本人に出会ったときに嫌がる民族はないわけで、誰でもそれは経験があると思うのですが、向こうから日本人が来ると嫌だなとすぐ分かっちゃうわけです。これ悲しい民族だと思うのです。そういう自己嫌悪みたいなものをつねに抱えている民族というのはね。
だから、どちらがいいとか悪いとかの問題ではなくて、日本人そのままというのはア・プリオリではないわけです、僕に言わせれば。日本人離れの意識があって日本人そのままがネガティヴなかたちで出てきて、それが日本の美意識論だとか、日本の独自性だとかという、そういうものにつながっていくわけです。だから、二項は関係性の中にしかないわけで、そのことを自覚していかないといけない。そういうある種の相対性の民族だと思うのですね、日本人というのは。その中で努力してみたいなと思っています。

[藤枝]…日本人であろうが、ガーナの人であろうが、芸術的才能を持っている人はいる。それを受け入れる場所が問題なので、そういったものができればいいわけです。制作の環境が好転すること、そういうような情況にはまだ至ってはいないように思います。ともあれ、あまり自意識を持たない、これが唯一の僕が言える<方位>ということになるでしょうか。これからどういう結論が出てくるとか、そんなことはもうあまり私には関係ありません。これで終わりにしたいと思います。長い時間、ありがとうございました。

 

●谷川渥
1948年生まれ。東京大学大学院美学芸術学博士課程修了。現在、國學院大学教授。著書に『構造と解釈』『現象と時間』『バロックの本箱』『表象の迷宮』『鏡と皮膚』『美学の逆説』『文学の皮膚』など多数。

●岸本吉弘
1968年生まれ。武蔵野美術大学油絵学科卒業。同大学院修了。画家。98年文化庁芸術インターシップ研修員。98年「EARLY−WORKS 始点」ギャラリームカイ、ギャラリーαMなどで個展。「現代日本美術展」で大原業術館賞受賞。

●高木修
1944年生まれ。大学卒業後、高松二郎の主宰する「塾」で学び、造形作家としての活動を開始する。個展のほか、71年「第2回国際彫刻展」を皮切りに数々の展覧会に出品。作家活動の一方で、批評活動も活発に展開し、92~93年にはギャラリーαMのキュレーターを勤めた。

●藤枝晃雄
1936年生まれ。美術批評。現在、武蔵野美術大学教授。著書に『現代美術の展開』『絵画論の現在』『ジャクソン・ポロック』ほか。

(※略歴は1998年当時)

1999年10月22日 於:武蔵野公会堂合同会議室


●出演者
田中信太郎(作家)
福住治夫(美術ジャーナリスト)
松本透(東京国立近代美術館)

●司会
 藤枝晃雄(美術批評家)

 

[藤枝]…パネリストをご紹介いたします。向かって右側の方が田中信太郎さんです。ご存知かと思いますが昨年αMで、また、先週東京画廊で個展をされました。1950年代の後半から活躍されています。高校時代に二紀会に出品、受賞し、天才少年と言われ、その後ネオ・ダダのグループに入って活動されましたが、そのグループは分散してしまいました。
そのお隣りが福住治夫さんです。1966年に美術出版社に入社されて、『美術手帖』の編集長もなさって、現在は『あいだ』という雑誌を主宰されています。「美術と美術館のあいだを考える会」の雑誌です。これは美術館をチェックするというのが第一の目的で、出発の一つは富山県立近代美術館の、天皇の写真を用いた作品をめぐる事件です。それから高島平吾というペンネームで、トム・ウルフの『現代美術コテンパン』などの翻訳をなさっています。
私の横にいらっしゃるのが松本透さんです。東京国立近代美術館の学芸員で、これまで担当されたのは、「現代美術における写真」展、村岡三郎、カンディンスキー、「色とモノクローム」展などの展覧会を企画されています。美術館に入られたのが80年ですので、それ以前の時代については田中さんと福住さんがよくご存知かと思いますが、今日は少し客観的な方がいらしたほうがいいということでお招きいたしました。
美術界はバブルの時代を境に変質いたしまして、あらゆるものが堕落しました。日本美術界は社会にあまりにも追従するところがありまして、たとえば万博があると、アヴァンギャルドを名乗っていた人たちが万博に向かって突進したという時代がありました。そしてバブルが来ると、誰もがそれに浮かれておりました。その時、悪質な画商が現われ、美術家が堕落し、これは何度も言っているのですが、これらの画家と画商におだてられた美術館がのさばるということがありました。それからもう一つは、変なプロモーター、批評家でもない、画商でもない、得体の知れない輩が出てくる。それはいまでも続いておりますが、幸いにもバブルが終わって以前ほど力はありません。
バブルの時代に絵が流行ったのですが、その当時、ニューペインティングといわれる絵はほとんど廃れてしまって、それで現在はそうでない人たちが地道に絵を描いているという状況があります。しかし、新しいと思われているものは外国の真似をしていますので、インスタレーションだとか、そういうものはどんどん作られている。
今少し、現状を申し上げておきます。VOCA展というのがありますが、批評家や学芸員に作家を推薦させて、上で誰かが審査するというものです。また、東京ステーション・ギャラリーで「現代日本絵画の展望」展というのをやっておりまして、松本さんはその推薦者の一人です。これがまた責任の所在をはっきりさせない展覧会なんですね。カタログ中の座談会を読むと、「強い作品」があるとか「奥深い作品」があるとか、そういう形容詞を並べ立てている。たとえば酒井忠康は、その批判は拙書『現代美術の不満』の中でも書いておきましたけど、彼は根岸芳郎の仕事は素晴らしいというような、よく恥ずかしくもなくこんなことを今言えるなといった発言をしています。
状況はそういうことです。時代が違うと言ってしまえばそれまでですが、ネオ・ダダの頃は活気に溢れておりました。ある意味では時代性でもあったんですね。70年代は福住さんが活躍された時代でありまして、コンセプチュアル・アートとその周辺のものがどんどん出てきた頃です。80年代からバブルに入って、それで現在に至っています。田中さんが一番その間のことをご存知なので一言、自分のことでも結構ですからお話しください。

[田中]…今の紹介では、私が一番古いというか年をとったようなイメージですが、実際には、私が茨城県の高校を出て東京に出てきたのは1959年ですので、60年から読売アンデパンダンに出したと言っても、それはもう戦後と呼べる最後の時期に現代美術の現場を踏むことになったわけです。
読売アンデパンダンの第1回は1949年に行なわれました。その時私は9歳です。第15回、1963年に終わっているのですが、その時に私が23歳。ですから実際には1950年代の最後の最後をちらっと覗いただけで、岡本太郎さん花田清輝さんたちの「夜の会」の噂とか、瀧口修造さんが関わっている実験工房があるとか、それから神田のタケミヤ画廊が瀧口さんを中心に前衛的な仕事をしている人たちに発表の場を与えているとか、私が東京へ出て来た時にはすでに美術出版社が出していた『美術批評』という薄い、文字だけの評論の雑誌は廃刊になっていて、古本屋を漁って拾い読みしていたという感じでした。ですから実際に私が体を通して現場を知るのは、高校を出た1959年からなのです。その頃は、世界中で価値観が激動した時期で、日本自体も激しく燃えた時代です。アートもどんどん過激になっていきました。60年安保の国会デモで樺美智子さんが亡くなったのもその頃で、すべてのエネルギーが飽和し、頂点に達して行き場のない時代でした。私もそういう熱い空気にも触れましたが、しばらくして読売アンデパンダンも終わって、なにかス一っと憑き物が落ちたように足元を見つめる時期がやって来ました。それに、ネオ・ダダの仲間たちがみんなニューヨークに行ってしまったものですから、ポツンと一人取り残された感じが長く続きました。
その頃から、時代の空気がどんどん変わっていきました。日本が外国へ眼を向けるゆとりができたのか、交通手段も船から飛行機へとバトンタッチされ、まあまあリアルタイムで外国の動きが、次から次へと入りだしてきたんです。多分、日本橋の高島屋だったと思うのですが、「世界・今日の美術」展という展覧会をやっていまして、偶然通りがかって見ているんですね。世界中の新しい表現が100点以上も掛けてあって、どれも見たことのないものばかりでした。取り憑かれたように眺めて興奮しました。そこには今でも残像が起るような作品がいくつもあって、河原温さんの「浴室シリーズ」の作品がありました。「ああそうか、漫画みたいな絵でも美術になるんだ」と驚きました。僕には白いキャンヴァスの上に太い黒い線で描かれたその絵が漫画に見えたんです。そのうえ、その絵のフレームは曲がっているのですね。「この人は無神経だな、折れたまんまのキャンヴァス飾ってる」って真面目に思ったんですよね。しばらく経ってから、あれは意図的にああいうふうにしてあるんだと知って納得したり、びっくりしたり。いわゆる変形キャンヴァスっていうか、シェイプトキャンヴァスにその時初めて出会ったわけです。もちろん、本質的な意味でのシェイプトキャンヴアスではありませんが。後年の「デイト・ペインティング」もさることながら、初期から美術の外へと表現を広げていく、温さんの不安な狂気は強烈に覚えています。その展覧会を見たお陰で「ああそうか、これからはどんなものでも芸術になるんだ」と目を開かれる、本当にラッキーな出会いだったんですね。
もう一つ忘れられないのは、サム・フランシスの白い絵です。飛行機が雲の中に入ったような、グレーと白だけの画面で、なんにもないんですね。遠眼で見たら白いキャンヴァスが出してあるんじゃないかというぐらい、ただの白いところに、かすかにシミが惨み出ているような絵で、こんななんにもしてない絵が芸術になるんだと、これも大きなショックでした。今思い出してもこの二つの作品との出会いは、私を自由にしてくれました。
その頃は、次から次へと衝撃的な出会いが続きました。暗黒舞踏の土方巽さんの公演もその一つです。皇居のお堀の側に日本生命ホールがありまして、これもたまたま一人で行ったんですが、その時に背筋が凍るようなものすごい衝撃を受けて、椅子から立ち上がれなくなってしまいました。小柄で顎が張って、もう肋骨だけの、痩せて手も脚も鳥のガラみたいな土方さんが、腰まで届く長い髪の毛を振り乱して、暗い舞台の上でアヒルがひっくり返ったような踊りをやるわけですね。眼からうろこが落ちました。戦慄が体中を走り抜けました。こんな踊りがあるなんて。この踊りも芸術なんだと。40年前の20歳の私にとって、それは舞踏、ダンスの概念を吹き飛ばすものでした。
その後も、たとえば一柳慧さんと小野洋子さんが帰国して、草月ホールでコンサートをやりました。これ、コンサートと言いましても前衛の音楽家ですから半端じゃないんです。一番よく覚えているのは、舞台の中央に白い大きな袋がありまして、二人が服着て出てきて袋の中に入り、たぶんセックスしているかのように、気配だけしかわかりませんが、舞台の上で白い袋の形や陰影がどんどん変形していって、透明感の漂う美しいステージなんです。袋の擦れる音、中での二人の息づかい、袋の中を想像しながらの、気配としての表現と言うのかな、ああこれも音楽なのかと。実態を見せないで、気配だけでもって芸術になるというのは、驚いた一つですね。
それからナムジュン・パイクさんの、ピアノとノコギリと金槌で、粉々に壊していくコンサートも草月会館で行なわれました。曲の最後に、客席に向かって米をばら撒きました。「アイゴー、アイゴー」と言って、天に向かって米を撒くようでした。私はなぜか涙が止まらなくなってしまったのを思い出します。
1960年から現在まで40年間携わってきています。とりあえずは私の20歳代前半の思い出話になってしまいました。私と同じ年輩の人は懐かしがってくれるかもしれませんが、若い人たちにはちょっと言葉からは想像できない流動性のある時代で、次から次へと、本当にいろいろなことが起こりました。
8ミリの映画のフェスティバルも草月ホールを中心に活発でした。ケネス・アンガーとか、今は伝説になってしまっているような幻のフイルムも多く見ています。今思い出してもかなりフュージョンな時代でした。グループ音楽の人たちとの出会い、丹下研究所の建築家たち、ダンサー、カメラマン、アニメ作家、映像作家、『楢山節考』の深沢七郎さん、文学の人たち、漫画家、詩人--ジャンルを超えた交流が日常的に繰り広げられていました。みんなお金がなくて、時間だけがたっぷりある時代でした。

[藤枝]…どうもありがとうございました。50年代のことは、福住さんが出されている『あいだ』に「半世紀」という文章を池田龍雄さんが書かれています。ところで、60年代後半ぐらいからですと、高度成長に向かっているところでした。万博があるというので、みんな騒ぎ始めたんですね。それで潤った人もいますけど、バブルの時とは状況は違っておりました。アンフォルメル、次いでアメリカ美術の影響が強くなったのですが、日本の芸術が変わりつつあるということで、『美術手帖』などはそういうものの紹介をやっておりましたし、批評のページも多かったんですね。今はもうすっかり変わってしまいましたが。それへの批判もありましたが、これが80年代ぐらいまでは続きました。
そういう雑誌を作った中の一人が福住さんであったわけです。ここでことさら歴史を回顧する必要はないんですが、その辺から話をしていただき、現状についてもお聞かせいただければと思います。

[福住]…福住と申します。写真家の安斎重男氏が僕のことを誰かに「現代美術の化石」だと紹介してくれたことがあって、たいへん傷ついて、いまだに忘れないんですが、僕が『美術手帖』の編集に関わっていたのは1960年代の後半から70年代の始め頃まででしたから、考えてみればもう30年近く前になりますので、まあ「化石」と言われてもしかたがないかもしれないですね。
で、個人的なことを軸にしてしか話すことができませんから、今日はそういうことに限定したいのですけれど、1966年に美術出版社に入ったんですが、モグリみたいなもので、小・中学校時代に絵が好きだったというだけで、もともと美術も美術史も勉強したわけではないし、だいたい美術出版社がどんな雑誌を出しているのかも知らないで入ってしまった。年齢的には先ほど話に出た読売アンデパンダンや「世界・今日の美術」展なども当然見ていていいはずなんですが、東京の片隅でうごめいていた「現代美術」といわれるもう一つの世界については何も知らず、当時は都電に乗って錦糸町の場末の映画館で東映の時代劇ばかり見ていました。
そういうわけで67年に『美術手帖』の配属になって、初めて「現代美術」なるものに接したわけですが、新宿のデパートで篠原有司男が若い女性を裸にして、絵具を塗りたくってたのが、一番最初の印象です。コーフンしましたけど、まあ、ネオ・ダダの俗化した、堕落した形態ですね。さっき田中さんもおっしゃったように、いわゆる反芸術の華々しい動きは60年代の前半で終わっています。
やはり田中さんが挙げられたケネス・アンガーなどの上映は、草月アート・センターなどで盛んに行なわれていましたが、そういう熱気は、ついに体験しませんでした。それでも僕がこの世界に入った頃は、唐十部の状況劇場や寺山修司の天井桟敷とか、あるいはインディペンデント・フイルムの活動も活発にやっていました。ジャンルの融合やメディア・ミックスというのは、概念や形式としてはまだ実験段階で、むしろ人的交流の側面のほうが強かったと思いますが、ともかく僕にとってはジャンルの諸国行脚みたいな感じでとても刺激的で面白かった。そういう動きが大団円として吸収されていったのが、70年の万博でした。万博に関わったのは一部の花形作家だけですが、一方社会には、ささやかだったにしても、反万博の動きもあったりして、みんなこの時に疲れ果てたと言っていいでしょうね。学生の反乱も忘れるわけにはいかないです。
そんなショックで参ってしまった時に入ってきたのが、コンセプチュアル・アートです。今や神話的な、中原祐介さんが企画した「人間と物質」展も、広い意味では、この流れに含めていいと思います。僕はこの「シラケの時代」と言われていた最悪の時期に、1971年に編集長になりました。あの頃は訳のわからない文章ばかり載せて、「お前が『美術手帖』の売り上げを落とした張本人だ」というような言われ方をすることもありますが、確かにそれは否定できないけれども、なにしろカラーで載せる作品がないんだからしょうがない。しかも当時、フランスの批評家のアラン・ジュフロアが「芸術を廃棄せよ」などと勇ましいことをぶちあげたものだから、若い連中はこれにころりと参ってしまって、もはや作品を作っても意味がないんだ、などと言い出した。論理というより、心情レヴェルでの受け取られ方だったと思いますけれどね。
僕もそういう時代の空気をかなり濃厚に吸って、上野毛の多摩美術大学の校門のところで学生と議論になったりしたこともあった。そんな時どうしたかというと、過去を振り向いた。ゴールデン60’Sがやたらに輝いて見えるわけです。それで、ハイレッド・センターなど、60年代の日本の動きを振り返りながらまとめる作業を主にやりました。これは先ほども言いましたように、個人的にも美術に遅れてきた青年であったために、自分の知らない前の時代に、一種の劣等感みたいなものを感じてしまうんですよね。田中さんなどと年もそんなに違わないはずなのに、もうすごくエラい人のように見える。そんな劣等感みたいなものを克服しようとする気があったのかもしれません。もっとも、上の世代の作家たちには、そういう企画を嫌がる人もいました。近い過去を歴史化してしまうとは何事か、というわけですね。まだまだこれから活躍するつもりなのに、一丁上がりにするのか、とね。
そういう流れが1972年の4、5月号でしたか、現代美術の年表づくりに繋がっていったのです。これは雑誌レヴェルでは、どだい暴挙と言うほかない仕事だったんですが、ともかく2回に分けてやった。
その後、赤瀬川原平さんの第二次千円札事件のようなことや、いろいろとありまして会社を辞めました。

[藤枝]…今、年表の話が出ましたが……。

[福住]…赤塚行雄さんが60年代の個展などのデータを克明にとっておられたんですね。それを第一次資料として膨らませていこうとしたんですけれど、結局、一から始めるようなかたちになりました。これはなにか非常に変則的な扱いになってまして、前史と後史という感じで分けていて、前史は1930年代からやっぱり60年代ぐらいまで入っていたかな。後史のほうは言われるところの前衛史みたいな感じで、だいたい戦後を扱っています。

[藤枝]…そういうのが『美術手帖』に出ておりました。ところで、60年代のスターの一人は亡くなった高松次郎ですが、彼は半ば神格化されていまして、東京画廊で「トリックス&ヴィジョン」という展覧会をやりました。アメリカ人三流作家のジェフリー・へンドリックスというのがまた、同時期ぐらいに展覧会をやって、これをみんなが持ち上げた。それでこぞって似たような展覧会をやって、関根伸夫だって「位相」などと、ちょっと数学的なトリックで、非常に悪い色でしたけどもそういう作品が出てくる。
そこへ突然、ミシェル・フーコーだとかそういう人たちが出てきて、李禹煥がそれを受けて、西洋人の西洋批判を以て西洋批判をやり始めた。アメリカ美術の影響が非常に強かったところへ日本というか東洋を取り入れたこともあって、「もの派」が台頭してきたのですね。ところがもの派の作品は、イタリアのアルテ・ポーヴェラの影響なしには考えられません。ここでもの派の批判などしている場合ではないのですけども、アレクサンドラ・モンローが、日本で開かれた前衛展について、もの派とミニマル・アートを関連づけながらオリジナルだというようなことを肯いておりますが、モンローというのは自分の都合のいいように、展覧会のカタログをでっち上げておりますので、これはまた改めて文字で批判したいと思います。
もの派の人たちの中で、亡くなった人の批判をするのもなんですが、吉田克朗も3、4点最初に、訳がわからずに作った作品がよくて、あとは作れないので版画になった。ちょうど版画の流行がありまして、これはアンディ・ウォーホルなどのシルクスクリーンの影響が日本に入ってきたことによります。それで版画、版画と言い出して、石を取り上げるようにパチリと写真を撮って、また日本の風景じゃまずいんで、西洋の風景を写真に撮ってそれを版画にするということです。そういう時代でありました。ですから、もの派の人たちが版画に移るのは必然的なことであったわけです。
さて、松本さん、お待たせいたしました。

[松本]…私が美術館に入ったのは、1980年ですけれども、それ以前の6年ほどは東京にいませんでしたし、実際には70年代後半、あるいは前半も含めて同時代体験はしていない。多分、歴史をもう一度振り返る必要があるのだろうと思いますが、なにしろ近い過去だから本当に整理がしにくいし、異論がきっとあるでしょう。ただ、大きな時代の切れ目が70年代の後半から80年代の初めにあったんではないかという気がします。と言うことは、それ以降20年近く、きっとあれほど大きい切れ目はなかったのではないかという気がする。
それを掘り下げ始めると時間がなくなりますが、個人的なことに絡めて一つ言うと、要するに70年代の後半というのは日本の美術雑誌だと「平面」という言葉、今から考えるとこの「平面」という言葉は、ごく簡略化していくと「絵画-イリュージョン=平面」ぐらいの意味だと思いますが、とにかくそれが2、3年にわたって論争というか議論の核になった時代です。それ以降、もちろん各論としていいエッセイがあったり論文があったり、わりと盛要な論争もあったと思いますが、日本美術界で核となるような議論というのがほとんど成立しないまま20年近くきてしまった。これが70年代後半辺りから80年代初めにかけてを時代の切れ目と言った一つの理由です。
個人的なことですが、70年代の半ば、学生だった頃に『美術手帖』も含めて美術雑誌のバックナンバーを僕も揃えてましたし、そういうことを普通にみんなやっていた時代です。『美術手帖』で言うと背表紙が白かった頃、60年代の未から70年代の半ばぐらいまではだいたい本棚に揃っていた。しかも同時代に買って揃えたんじゃなくて、あとから古本屋で買ったのです。古本屋でわざわざ集めるほど情熱的に、その月々に出ている美術雑誌を読んでいたかというと、ちょっと怪しいところがある。
これはどういうことかと言うと、70年代後半にまだ若かった大学生が、もうその時点で、もしや決定的な時代が終わってしまったんじゃないかという感覚があるものだから、過去を一所懸命集めたんでしょう。これは今の若い人が70年代のレコードを凄まじくマニアックに集めるのと似た現象なんです。
僕が美術館に就職した1980年頃は、欧米ではもう少し早く話題になっていたとか、そういう時差の問題はありますが、ニューペインティングと呼ばれているものが話題の中心にのぼった時代です。けれども日本の場合にはニューペインターというものはいなかった。ニューペインティング的なものを導入した作家は随分いるのだけども、ニューペインターとして起動した作家はいなかったし、そうなるとそこにエールを送ろうにも弾を撃とうにも目標が定まらないのです。これなども80年代初頭辺りで論争が起こりにくくなった地盤の一つではないかと思います。
それから、たとえば基本的に美術雑誌が教養主義化していく。70年代の初頭には東京でも、とりわけ現代美術専門の美術館などは2、3しかなかったのです。ところが70年代半ばぐらいからどんどん美術館ができ始める。さして質を問わなければ、現物が見られるようになった。とすれば、実物がどこで見られるかという情報、それから知識、つまり展覧会を補うものといった方向にどうしても動いていかざるをえない。それ以前は本当に、美術雑誌といっても理論誌と呼べばいいのか、批評誌と呼べばいいのか、紙面は白と黒で活字の量が圧倒的です。現物を見られっこないというんで、本に載っている小さなコマ写真を見て、何を表現しているのか推測するんです。推測するのを助ける補助の道具として活字を読むんです。
これはもう全然、情報なんかではない。そんな手掛かりを通じて、大げさに言えば認識なのか、推測なのか、そういう活動をするわけです。だから美術館が建てられてきて、それと連動して批評誌、あるいは理論誌がだんだん情報誌化し、ヴィジュアル面が強くなっていく。そして論争の核がない。それからあの不思議なニューペインティング現象が、70年代後半から80年代初めにかけて起こった。提示の仕方の変化とか、風潮の変化もあるし、美術館、画廊以外にもっと別の形態の展示スペースもできてきた。美術雑誌以外にいろいろな活字メディア、電波メディアができるとか、その辺りは日進月歩だし、あっという間に80年代が過ぎて90年代になり、美術内部のムーヴメントとか、美術の外と内との関わりにおける大きな変化が、ここ20年間ないんじゃないかというのが僕の回顧です。

[田中]…クオリティに対する眼が、日本の現代美術の中で培われてこなかったのね。松本さんの言ったように、われわれが見てきたものは、単なる図版なんです。ぼくなんかでも最初にヨーロッパに行った時に、まさかマチスの赤があんなにくすんだ色だなんて夢にも思っていなかったです。日本にいて見る印刷図版では、当時はただの真っ赤でした。ポスターのような奥行きのない平らな赤い色を想像していたのに、実際には、木炭の消した跡は残っているし、グリーンも赤も明度の低い渋い色で、はっとしたのかがっかりしたのか……。クレーの作品もそうでした。日本の図版で見ると、ほとんどがデザイン的なきれいごと程度に思っていたんですが、実際に美術館で数多くの作品を見ていくと、一つひとつの作品は小さいけれど、とても丹念にイメージされ、描かれていている。印刷図版では到底わからないクオリティ、リアリティを持っていて感動するわけです。日本では、先ほども言ったように、クオリティに対する目が欠落したまま成長するので、その分、表現は図式的になってしまう。表面を撫でるだけになってしまう。移行が安易にできるのです。一番重要な「誰もやっていないこと」が欠落している。むしろどこかで見たようなものを、みんなも安心して褒める。だから日本には、ヨーロッパに行ったらほとんど相手にされない、ヨーゼフ・ボイスの亜流のような大家が3人も4人いるんです。
日本はいまだに島国根性から抜け出していない。今でも、日本の中でも、ますますいわゆるセクト化が進んでいて、仲間内での共通テーマでほっとして楽しくやっている。本当はそんな狭さを悲しむべきじゃないかと思うんですよ。

 

[藤枝]…松本さんにちょっといまのことと関連してお訊きしたいのですが、現在のインスタレーションなどというのはどういうことになっているのか、どういうふうに捉えたらよろしいでしょう。田中さんはインスタレーションのはしりと言えばはしりですけど、今のインスタレーションは違いますね。また外国では政治的なものが多いですが、これも流行でありますし、政治的なものをやれば格好いいとみな思っています。現在のインスタレーションは、画廊が狭いし、なかなかそれだというようなはっきりした形のものがありませんけども、どんなふうになっているのでしょうか。

[松本]…インスタレーションですか。それは若い作家を念頭においてですか?

[藤枝]…そうです。

[松本]…本当にちょっと理解しがたいほど多くなっていますね。以前、アメリカで訊いてみたことがあるんですよ。向こうの美術大学とか、たまたま見たPS1というノンプロフィットの施設でも、やはりグループ・ショーがあると、要するに床をコードが走っている形式、光る、動く、あるいは音が出る、そういうのが多い。インスタレーション形式の作品の内容に対しての批判ではありませんが、インスタレーションの作家は間違いなく増えてきた。しかし、インスタレーションの作家が増えた分、画家が減った、彫刻家が減ったというのではないと思う。そう言ったら、そうだ、そうだと賛同を受けたことがあります。絵は絵で、彫刻も彫刻として存在し、それらがなぜかある時からばたっと恐竜が滅びるように滅びるわけがないのです。しかし現代の現実への対応となった時には、やはり絵では表現しにくい部分とか、彫刻では表現しにくい部分が出てきてしまうのでしょう。それへの対応として、いわば表現形式が増えた。増えただけでは済まないはずで、絵からインスタレーションへ、それからインスタレーションの、しかも動いたり、光ったり、音の出るものが、ある時間を経てもう一度絵具に取り込まれるとか、石膏に取り込まれる、ブロンズに取り込まれるということがぼくはあり得ると思っているのですが、とりあえず今はほぼ並行してインスタレーションという形式が成立しているのだと思います。それからまず間違いないのは、これはもう日本だけの現象ではないですね。ヨーロッパでもアメリカでもそういう状況があって、しかも彼らの作品を取り上げるメディアの間口が広がっている。
つまり、時代の新しい技術というものは、美術界か批評界かは別にして、言葉や資金や物資が提供されてサポートされる。そういうかたちでインスタレーションが表面的にすごく伸びてきた、そんなふうに見えます。

[藤枝]…インスタレーションでもなんでも、これがいいとか、美術の現状がこういうものだ、ということを書く人がいなくなりましたね。福住さん?

[福住]…はい、おっしゃるとおりです。作家も批評家もオタク化した、と言ったら怒られるかもしれないけれど、情報としての美術の状況はあっても、自分が生身で関わる状況はなくなった。いい意味での美術共同体のようなものが成立しなくなったように思います。一見華やかに見えながら、奇妙な閉塞感に覆われている。若い人たちはそんなに議論もしないのかな。僕らの時代は、自分も含めて、作家も批評家も侃々諤々やっていた。

[藤枝]…若い批評家たち、批評家自体もあまり多くいませんけども、ここがいいからといってそれを強力に推すような人もいなくなって、何を再いてるか訳のわからないことをやっている。作家も作家で、絵が流行ってきたら絵を描き出して「私は画家だった」と言う者がいる。それで絵がちょっと下火になってきたら写真を使った古い作品をまた出すような人もいます。支離滅裂です。

[福住]…また体験的に言いますと、僕は単なる目撃者ですが、先ほど申しました一部のシラケの時代を経て、みんな制作に復帰してゆく。その頃から藤枝さんがフォーマリズム的な批評家としてもっとも旺盛な活動を展開される。それまでの針生、東野、中原という当時の御三家の批評とまったく異なり、作品の質を問う方法論と鋭利な文体にはとても苦労しましたよ(笑)。
みな、議論はしても決定的な立場は取れない。もの派の登場の時もよく議論しました。そのきっかけになった『美術手帖』の「発言する新人たち」という特集は、僕が編集長をやる前だったけれど、訳もわからず担当させられました。「ものの開く新しい世界」なんて自分で前口上を書いておきながら、あれはどう見たってガラスの上に石を置いただけにしか見えない、とか言って。そんなわけで再び絵画返りがなされ、「平面」なんて言うようになったりしますが、結局何が残されたかというと、はなはだ心許ないですね。言説と制作の乖離を厳しく検証し直さなければならないです。
振り返ってみると、美術の流行がよく見えます。もの派の時にはもの派的なものが街の画廊に溢れ、ニューペインティングだというと、あっちにもこっちにもニューペインティングばかり。女の子の部屋をそのまま画廊の中に持ち込んできたようなものが流行った時は、大学教授の批評家をつかまえて「一体何を教えているんですか」となじったりからかったりした覚えがあります。教えるほうがおかしいからこうなるんだと。
優しい眼で見ると、結局、作家の卵たちが直に接するのは、その時代のトレンドであり、それを超える個性を持つのは難しいし、僕自身だって、かなりよく見て回っているほうだと思いますけれど、まがりなりにもフォローできる時間的スパンと言えば、たかだか20年ぐらいなものですよ。批評家だって同じようなものですよ。
近年、批評の衰弱が言われますが、これはジャーナリズム--と言えば、一応マスとしては『美術手帖』ぐらいしかないわけですが、その物理的なフォーマットという問題が意外とばかにできない要因としてあると思うんですよ。だって、今のように文字が細かくデザイナーのお遊びのおかげでわざと読むことを阻害するような紙面では、書き手もきちんとしたことを書く意欲を失ってしまうんじゃないですか?最近では、カラーのオフセットで、椹木野衣の『日本・現代・美術』の連載だけは、なぜか別扱いになっていましたけれども。こんな形だと、細切れの情報雑誌たらざるを得ない。形式が内容を規制してしまうことが確実にあると思います。

[藤枝]…最近は、展覧会依存症みたいなもんですね。セザンヌの展覧会やるとセザンヌ特集をやるし。昔もそうでしたっけ?

[福住]…違いましたね。第一、セゾン美術館もできていなかったし、依存できるような展覧会もそんなにはなかった。
そういえば、この前セゾン美術館の残党が作った新しい組織、セゾン・アート・プログラムというところが、批評家による批評家の連続講座を行ないました。取り上げられた批評家、瀧口修造、宮川淳、そして藤枝さん。藤枝さんを論じたのは松浦寿夫さんでしたが、彼が「三人の中で唯一生きている藤枝さんが、ちょうどシンポジウムを開くので、生の声を聞いて下さい」と今日の催しを紹介されたんですよ。だから今日の観客の皆さんの7割から8割は、それを聞いていらっしゃったのかもしれない。是非、藤枝さんにもっと語っていただきたいものです。

[藤枝]…ぼくは司会ですから。

[福住]…ついでに言っておくと、松浦さんがその講座の案内パンフに書いておられたことで僕の印象に残ったのは、わが国の美術の80年代における非常に顕著な特徴は、いわゆる職能的な批評が後退、後景化して、美術館の学芸員とかジャーナリストが前景化したということです。僕もほぼそのとおりだと思う。まあ、僕もジャーナリストの端くれですけれども、ほとんど注文がないから自称みたいなものです。ジャーナリストはともかくとして、美術館の学芸員が大きくせり出してきたのは事実ですね。つまり、美術館が美術の基盤構造としてますます強固になってきたということだと思うんです。それと反比例するように、不況の影響があるとはいえ、従来の画廊の勢いがなくなってきた。
これを僕なりに言い直せば、美術の官僚化ということになります。学芸員の皆さんは、自分のことを研究者だと言いたがるけれど、公的システムの上に乗っかって、作家や作品を選ぶという権力行為をしている人は、取りあえず官僚です。隣に座っている松本さんもれっきとした官僚(笑)。そういう官僚が、美術館においてはもとより、たとえば冒頭に出た東京ステーション・ギャラリーにおける展覧会などに関わったりして、日本の美術界をあらゆる面で牛耳るようになってきた。しかも、多くの場合、そこでは合議制のような顔の見えない日本的なやり方が行なわれるから、そういう選抜行為の批判がなかなかやりにくい。しかも、批評家たちがみんなそういう官僚的システムの上の美術機構や行事などに組み込まれていって、自分たちの批評的な営みをすり替えているように見えます。その意味で、批評は二重に堕落していると言っていい。批評家はよく、書く場がないなんてこぼすんですけれども、言いたいことがあれば自分で場を作ればいいんです。それが原点だ。

[藤枝]…一部の官僚たちが出てきて、わからないのに上前をはねているというところがありますね。東京ステーション・ギャラリーの展覧会のことで言えば、誰がどの作家を選んだかは明記されずに、審査は別の3、4人がやって、彼らが座談会でくだらないことをいろいろと言っている。そうした一種の権力主義がいよいよ強くなる。
松本さんはいかがですか。美術館の場合、少し違いますけれども。

[松本]…批評家は、別に展示スペースを持っているわけじゃないし、批評家兼大コレクターであれば別ですけども、作品を収蔵するわけでもない。ところが美術館が現代美術を取り上げ、個展やグループ展をしてカタログを作れば、そこに批評文を書くだけじゃなく空間がある。場合によってはものを買う。これは70年代以前にはあまりなかった新種のパワーだと思うのですね。
ただ美術館の中の人間は、美術館は制度だと言われて、その制度を望まない、それを嫌だと思っていても、学芸員個人がそれをどうこうできるものではないんですよ。つまり学芸員によってはそういうパワーを持っているということで、それを権力として行使することは、やろうと思えばできるでしょうが、そんな気がまったくなくても、美術館に勤めていて展覧会をやると、付いてまわる付加価値を個人で切り崩すのはちょっと無理な話です。
そうなってくるとやっぱり普通の画廊と、それからたとえばアンデパンダンの会場であったような70年代以前の美術館、それ以外に公立美術館というかたちで現代美術をも取り上げる施設ができたこと自体は必要なことで、ないほうがおかしかった。まだ足りないというぐらいだと思うんです。その制度の良さだってあって、それにつねに付いてまわる付加価値的な必要悪、それにどう対処するかという問題になると思います。

[藤枝]…東京国立近代美術館は、改装後は現代美術をどんどんやられるのですか。

[松本]…あの、近代美術館は現代美術館ではありませんから、現代だけというわけには……。

[藤枝]…従来よりはもっと数多くやることになりますか。

[松本]…個人的には、そうありたいですね。

[藤枝]…展覧会に対する反応というのは極めて少ないですね。つまり新聞やジャーナリズムというのはそれを徹底的に検討したり、批判するということもないし、かつての『美術手帖』にはそういったものがありましたが……。

[福住]…そういうことはありましたね。

[藤枝]…大方の新聞の批評はもう滅茶苦茶ですから。書いた以上はほとんどすべてを褒める。

[福住]…普通、新聞が取り上げるということ自体が、すでにその対象を文学的に肯定するフレームになっていますからね。批判は出にくい。しかも新聞記者は目新しいものを追いかけないといけないという観念に取り憑かれていますから、何かビッグなイベントが立ち上げられれば、それだけで評価して、無批判的に評価するという構造になる。何かやることはいいことだ、ビッグなことはいいことだとする発想は、企業や行政と同じです。
その裏には、あえてやらないほうがいいこと、マイナスの価値もあるのだと忘れないでもらいたい。たとえばトリエンナーレなど、いまさらやらなくてもいいのではないかという考え方ですね。

[藤枝]…政治記事とはまったく違いますね。生活と密着しているせいか、政治に対しては批判しますよね。だけど新聞は美術に対して批判はほとんどしませんね。家庭欄の延長です。

[福住]…新聞の美術欄も、その気になって各紙を見ていくと、記者の性格や取り上げる契機など、裏も読めるようになって面白いですよ。記者の皆さんは評論家になりたいのかどうか知りませんが、批評的なことを書くよりも、リサーチや解説を徹底してもらいたいですね。画廊や展覧会を回っただけで、一本記事にしてしまうなんていうのは、新聞記者の名前が泣く。

[藤枝]…新聞の批判は去年もやりましたが、いまは雑誌もそうなっていますね、『美術手帖』なども。

[福住]…そういうふうに、美術館もジャーナリズムも、いわばグルになっているわけですからなかなか難しいけれども、美術館の展覧会批評をもっと起こさなければならない。とんでもない心得違いの展覧会が平然と行なわれているのに、そのフレームを見ようとしないから、多少の無い物ねだりを言ったとしても、結局、提灯記事にしかならない。
それからもうーつ、美術館自体が美術とは何かを具体的に示すフレームであるわけですが、美術館がその辺を意識しないで、ジャンルの拡張をやっていくと、議論抜きにある種のポストモダン的状況をなし崩しに既成事実化することになる。漫画とか荒木経惟展とかね。美術館は、なぜ漫画なのか、なぜ写真なのか、しかも荒木なのか、つねに考えられなければならないと思います。

[藤枝]…荒木とか写真とかが取り上げられるというのは、だいたい外国で認められたものですね。安心してそれをやる。誰かが日本へやってきて森村泰昌がいいと言うと、大々的に認める。しかし外国でも、キュレーターなんかまともな人間はほとんどいません。小池隆英さんのαM展のカタログに書きましたが、自己認識する力が外国になくなってきて、それがよりはっきりしつつあると思うんです。
それともう一つは、今おっしゃった発表の場の関係ですね。日本は作品が売れないというのがある意味ではいい作用をしてるところもありますが。それで田中さん、作家の発表の場という問題がありまして、かつては貸画廊が非常に多かったのですけれども。

[田中]…発表の場というのは、日本ではそれ程変化があるとは思えません。画廊は以前とさほど変わってはいない。しかし、美術館の数、展示スペースの拡大は、30年前には到底考えられない規模になりました。物理的にも意識的にも充足されない多くの空間がロを開けてもがいています。一つ気になるのは、もう10年ぐらい前からでしょうか、いわゆる美術展というものが、作家の手からキュレーターという作らない人間のほうに委ねられてきている。巨大な展示スペースでは当然のことですが、企画者のイメージで多くの作家がピックアップされで、企画者のイメージに合った作品を配置し、そこではややもすると、作家と作品とは匿名性のもとに変質させられてしまうのではないのか。かつては、良いか悪いかは別としていわゆる作風が自己完結している作家、ある程度その作家がどういう表現をしてきていて、それ自身で高度の伝達能力を持っている作品の中から、国際展なり、美術館での大規模な展覧会が行なわれていた。けれどもある時期から、一番顕著だったのはカッセルの「ドクメンタ」。ヤン・フートがキュレーターの時ですが、これはもう作家の表現を見るというより、作家や作品がキュレーターのイメージの中の部分品になってきてしまってるわけですね。これはもちろん肯定的に見ても一向に構わないのですが、古い意識の作家としては面白くない。その時のドクメンタには150人以上の作家が出ていて、そうすると、半数以上の作品がどの作家のものか、そしてどこにあるのかわからない。キュレーターがどういうことを伝達しようとしてるかということにすべてが集約されていってしまって、作家本来の機能が変質しているのじゃないか。それが今でもある部分でずっと続いていて、いわゆる部分品となりうるような、解釈の多様性を持っていて、切り口の断面が完結してないほうがむしろ接点となる、そんな状況が気になるのです。それを進歩と見るのか後退と見るのかは、考え方によって違うのは当然ですが、私なんかはやはり作家同士が対立して喧嘩し合うような時代に出ていますので、自分の作品が違った解釈で、ある共有空間に素直に納まってしまうのは考えられません。批評家も展覧会そのものも、作家も変容を迫られている。
このことに関して、キュレーターである松本さんどうですか。

[松本]…日本では、きれいなグループ・ショーというものを、ぼくは恐らく見たことがないです。ぼくはこれはとりわけアメリカ以上にヨーロッパでは、もちろん個々の作品が生きない形であれば、いかに全体のコンセプトの提示が鮮やかでも成功した展覧会とは認められないでしょうが、キュレーターのコンセプトと競い合っている時代であるというのは間違いないと思うんです。そういう時代だということをいち早く察知した作家がいると思うんですね。キュレーターが何かうまい枠の中にはめ込もうとしても、どうやってもはめ込みにくいタイプの作品を作っていたり、そういうことを受け入れないタイプの作家ももちろんいる。ところが一方、キュレーターが表に出てきてしまうという状況を素早くつかみ、キュレーターが料理しやすい仕方の作品が作られる、いわばその状況を利用し得た作家もだいぶいると思います。日本人も含めて、名前は挙げませんけど、どうにでも料理できるし、料理の仕方によってはきれいに見える作家と言えば大体おわかりになると思います。

[藤枝]…ドクメンタも、いまは実質的なテーマがないようなものです。これが良かった、あれが悪かったなんていうこともなくなってしまいまして、社交場ですね。

[田中]…作家の選定も、世界中、同じような常連の作家が重複しているということもありますが、ジェンダーというと、日本ではもちろん世界中ジェンダー流行り。写真といえば、写真流行り。癒しと言えば癒しの類型がニョキニョキ出てくる。そしてすぐ何事もなかったように別の興味に移行していく。あまりにも風化が早いんじゃないかと思います。

[藤枝]…そうですね。展覧会については良いとか悪いとか言わないといけないですね。それを言わないものだからのっぺらぼうで同じように思われてしまいますが、訳のわからないレポートのようなカタログの文章が書かれ、見るほうもそれで終わってしまうので、何もはっきりしないということになる。展覧会の質は全然問題にされない。
福住さんどうですか、そういう状況をご覧になって。

[福住]…おっしゃるとおりですね。さっきの話とも重なると思いますが、キュレートすることも言ってみれば一種の編集作業ですから、あらかじめ類型化されることは免れない。展覧会のキュレートに限らず、社会のあらゆる側面で見られる、ある意味でのパターンの暴力を突き抜けて質を顕わすのは、本質的な問題ではあるけれど、今はとりわけ難しくなっていると思います。村上隆などのいわゆるシミュレーション派は、そういうところを逆手に取っているというのか、乗っかっちゃってますね。

[藤枝]…現在のメディアがああいうものをより好むんですね。それについてのきちんとした批評は何もない。反対も書かせません。森山大道は森村よりははるかにましですが、ニューヨークのジャパン・ソサエティでいま個展をやってますよね。先に言いましたが、これまた日本を食いものにするモンローがやってるのです。この個展については、アメリカのある雑誌に「高度成長の時代にこういう暗い日本が出てくるのは、日本人はペシミストだというのではないか」という批評がありましたが、高度成長時代は、日本はやはり貧しかったですから暗い写真が出てくるのは別に不思議でも何でもない。そんな日本の事情も知らないで、すぐに観念的に社会と結びつけたりしないでもらいたいです。だいたいそういう取り上げられ方ですが、それが日本へ逆輸入されてくる。
写真も考えてみれば大半はかつての版画ブームに近いところがあって、ちょいと写真を撮れば作品になる。ちゃんとした写真家が浮かばれません。絵画論争があっても、どこかで尻切れトンボでありまして、絵を描きたい人は絵を描けばいいし、その人に合ったメディアとしてあればいいんです。ところが絵が描けない、わからないからインスタレーションに向かう、海外で絵が終わってインスタレーションが制作されているから後者に向かう。そういう変化の図式が続いています。

[田中]…藤枝さんに訊きたいのですが、平面というのは眼前に対峙し、身体を通した自分の世界ですから、矩形の中に、自分の宇宙を主観的に完結できます。インスタレーションの作家や、空間を扱う立体の作家は、キュレーターの台頭や空間の条件の変質で、ますます自分自身を見出せなくなっているのではないのか。そんな中である種の客観化を迫られている立体よりも、インスタレーションよりも、自分の世界にこもることができる平面に、有能な作家の意識が向かうような気がするのですが。

[藤枝]…インスタレーションやった人がですか?

[田中]…今若い人の中に平面をやる特異な作家が出てきていますね。一つの自己防御というか、自分だけの完結した世界、「私絵画」を望んでる人たちのことです。当たり前のことですが。

[藤枝]…今までだったら団体展ぐらいに出していた古い人がちょっと新しいことをやり始めているというところがあって、しかしその枠は越えられない。昔だったら反現代美術的な団体展の作家がいっぱいいたわけですね。

[田中]…今でもいますよ。

[藤枝]…もちろん今は別の点で多いかもしれませんがね。

[田中]…具象・抽象は問わないのですが、私小説のような平面を描いている、痴的でオタク的な作家のことです。ちょっと具体的でないね。これ、単なる私の願望かな。

[藤枝]…その場合も、やはりいろいろと問題はありますので、それについては機会あるごとに書いております。もう分割はやめろと、繰り返しはやめろとかですね。それは写真を用いてシルクスクリーンにする版画とあまり変わらない。カメラがとにかくやってくれますからね。下手くそでもね。

[田中]…そこにいったら困ったもんです。

[藤枝]…写ってしまいますから。今はカメラの性能がいいですから、適当に写真による作品になってしまうんですね。だから絵とか彫刻をやるというのは、やっぱりたいへんです。しかし、写真でしかできないものは厳然と存在します。

[田中]…確かに外国の美術館は、ずいぶん昔から写真のコレクションが多いですね。MoMAにもとてもたくさんありますね。でっかいレンズで、でっかい写真機でもって、銀版のフィルムを使って、これでバシャと撮っちゃうと、すごく驚いたんですが、写真の足元にある石が鮮明に写っていて、遠くの山の上を飛んでいる鳥までピシッと写ってるんです。そんなフォーカスの深い両方を完壁に写すのは今では無理ですね。写真のある良質な部分はずいぶん退化しているみたいです。

[藤枝]…絵の真似をして、大きくするでしょう。これがまたひどいですよね。写真を大きくするのと、大きい絵を描くのでは全然違いますから。

[田中]…それと、同じものの繰り返しね。

[藤枝]…いろんなメディアがあちこち出てますけど、近代美術館は、今後そういうものはフォローするのでしょうか。

[松本]…写真はもちろん専門スタッフがいますからね。さっきインスタレーションのところでちょっと言いましたけど、ぼく自身はビデオ、それからコンピュータ・アートも含めて、本当はそっちを勉強する時間があるくらいだったら絵や彫刻をやっていたい。やっぱり絵は絵であり、彫刻は彫刻、もうそれらにしかできない表現分野がある。本当を言うとメディア系の現代美術ばかりは、今ひとつ手が届きにくい。でも、今まで美術を見てきた眼がそのまま通じるのかどうかは知りませんが、いずれクオリティを問うことから始めて、まずは展覧会なりをやらないわけにはいかない感じはします。

[藤枝]…ビデオアートも、いいものはほとんどないと言っていい。ただ美術館にないとまずいですよね。ある筋道というか、形をつけておかないとね。ICCですか、あそこだけでやっているようではちょっとおかしい。

[松本]…ことさらにスポットライトを当てて、絵や彫刻をやってらっしゃる方をムッとさせようという気はさらさらなくて、普通に淡々と取り上げて、つまり絵や彫刻のコレクションと一緒に、いいものがあればそういった部屋があって当然だと思います。

[藤枝]…福住さんにちょっとお訊きしたいのですが、この『あいだ』という雑誌をお出しになってて成果がありましたか。

[福住]…どういう意味の成果でしょうか。

[藤枝]…美術館を批判して、それで少しは正されたとか、意識が変わるとか。なかなか難しいと思いますが。

[福住]…ちょっと宣伝めきますが、せっかくだから言わせていただきますと、『あいだ』というのはほんの粗末な体裁のミニコミにすぎませんけれども、「美術と美術館のあいだを考える会」という有志の会が出している。この会は、ご存じの方もあると思いますが、富山県立近代美術館で展覧会を機に買い入れた版画作品が、昭和天皇の肖像を扱ったコラージュだったために、県議会で問題にされ、右翼も騒いで美術館がその作品を密かに売却し、図録の残部も焼却してしまったという、ちょっと今では考えられないような乱暴な事件が10年くらい前に起こりまして、それをきっかけに、表現規制の問題に限らず、日本の主として公的美術館の抱えている問題を検証していかないと、とんでもないことになるよ、ということで作られたものです。雑誌『あいだ』のほうは、もっと広く視座を構えて、美術館だけでなく、公共彫刻なども含めて、社会との接点を軸にもういっぺん美術というもののありようを考え直そう、とやっています。ひと昔で言うと、美術の環境学ですね。既成美術ジャーナリズムの取りこぼしを埋めようと、誌面には美術館の運営のされ方に対する批判も出てきます。成果というと、早速目に見える形にはならないですが、とくに美術館の学芸員には気になる存在であって欲しいとは思います。当事者にとっては嫌味をぶつけられて不愉快に思われる程度の成果はあるかもしれません(笑)。

[藤枝]…本日のトークショーのテーマ「現代日本美術の真実」の<真実>は、たとえばもの派について、もっと嘘ではないことを田中さんたちとお話をしようと思っていたのです。それと美術館が日本近代・現代を集め出しておりますが、あまりにでたらめが横行しているのでそれを糾そうとしたのです。

[福住]…たいへんつまらない補足をさせていただきます。「批評の堕落」ということで最近目に留まった一例をあげておきますと、ある新聞の展評を批評家でも常連が受け持つようになったのですが、その中のある美術評論家が、福島県立美術館での「コラボレーション」というのを取り上げていた。筋は忘れましたが、その記事の枕に、コラボレーションの先駆的な例として、ウォーホルのファクトリーの活動と、日本では瀧口修造を中心とした実験工房なんて書いているので、ぎょっとしました。ファクトリーの活動をコラボレーションと言うにはちょっと乱暴だし、実験工房にはいくらか当てはまるにしても、瀧口氏はあのグループに命名しただけで、直接関わったわけではない。例に出すならもっと適切なものがいくらでもあるのに、よく調べもしないでこういうことをしゃあしゃあと言ってのけられると、本当に頭にくるんですよ。しかも、業界的に言えば、この評論家はかつて戦後美術における瀧口修造を批判的に捉え直す必要を雑誌で喋っていた人ですから、何をかいわんや、です。プロならプロらしくやって欲しい。

[藤枝]…ぼくは新聞の批評は例外を除き読みません。新聞はテレビ欄しか読みませんから、それは知りませんでした。

[福住]…同じく学芸員で、カタログのテキストに「今や新しいものは何もない」と、大した論拠もなしに書いていた人が、僕が知る限り少なくとも2名います。そう思うのはいいけれど、それでやれるものならやってみろ、と言いたい。「東西冷戦構造の崩壊後」なんて語り出す評論家も嫌でしたね。

[藤枝]…しかしながら、そういうのをチェックする場所はないんですね。

[福住]…『あいだ』にならありますよ。

[藤枝]…残念ながら『あいだ』にしかないんですね、真実は。というわけで、このシンポジウムをずっと細分化して5、6回やらないと正しい歴史を検証できないですね。もう時間もありませんので質問をいくつか受けつけて終わりにしたいと思います。

[会場A]…簡単にで結構ですので、最低限今までの日本の美術でこれはいいんじゃないかという、もし肯定できるものがあればひと言でお願いします。

[藤枝]…ではお3方、今の質問について。

[田中]…今でも私自身表現に携わっていて、同じ表現者の作品を具体的に肯定したり否定したりして眺めたことがないので、まして日本の作家には無関心で、突然言われてもちょっと出てきません。
無理してでもと言われれば、一つは、河原温の「デイト・ペインティング」かな。1970年、東京ビエンナーレ「人間と物質」展の時、河原さんと私で一つの部屋に展示しました。私は床を使って、河原さんが壁。物質性が前面に出た美術展で、もの派もぶっ飛ぶ、本家アルテ・ポーヴェラの連中もそっくり顔を揃えていました。そんな会場で一人だけ、小さな矩形のキャンヴァスが並べられて、日付が印刷のように書いてあるだけ。30年前のことです。新鮮な感動とおののきを持って見ました。すごいアイデアだと思いました。
それからこれはたまたま最近、豊田市美術館で一点だけ見たんですが、草間彌生の白いキャンヴァスの上の白い網の平面。草間さんは好きな作家ではありませんが、その絵だけは網膜に焼きつきました。平面は恐いですね。あまい作品は簡単に壁に負けてしまう。
そうですね、後はちょっと思い浮かばないな。

[福住]…ぼくはある意味では藤枝さんみたいだけれど、どちらかというと批判によって鼓舞する方法を選ぶほうなんで、褒めるほうはちょっと控えさせていただきます。

[田中]…失敗した。僕もそう言えばよかった。

[福住]…この分野で長いものですから、すれっからしになって多少斜に構えてしまうところがあるのですが、美術にそれほど大した期待を持っているわけではなく、目の前に現われてくるものを淡々と見ていくほかないと思っています。ただ、派手なメディア・パフォーマンスをしないと、作家として認められないような昨今の状況の中で、ひっそりと埋もれたようにいい仕事をしていた作家や、現に作家として括動している人に出会えればいいな、とは思ったりしますね。

[松本]…美術館に勤めて20年近くなりますが、勤めている美術館は展覧会は外国物もやるけれども、コレクションは9割以上日本のものなんです。日本の洋画、日本画、現代美術をちゃんと見ない外国人は、見た途端にイミテーションの連続だという顔をしますし、日本人は、外国人から以上に日本人から真似と言われるのを恐がる。自分は他人の真似だけはしたくない、と。しかし、それを純粋に突き詰めていくと、要するにロビンソン・クルーソーみたいに孤島で作品を作らなければならなくなる。明治以降の日本の作家は、美術館も含めて、真似ということについて極端な被害妄想のようなものを持っていた。ポストモダン議論の中核の一つは芸術のオリジナリティをめぐるものでしたが、日本の近代作家は、オリジナリティという観念を極めて特殊な、マゾヒスティックなまでの強迫観念として抱えてやってきた。どの作家がいいかという質問に対してなんの答えにもなっていませんが、十数年見ているうちに、一見何かをお手本にしている、あるいは真似しているように見えるものの中にも、お手本の国の作家では逆立ちしてもできない部分があることがわかってきたんです。そういう意味では、真似を恐れるなというか、そういう転倒したオリジナリティのことを考えてもいいんじゃないかと。どの作家というのではなく、日本の作家、明治から現代まで、わりと捨てたもんでもないのになと、これが本心です。

[藤枝]…断片的になりすぎましたけども、時間がまいりましたので一応終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

 

●田中信太郎
1940年生まれ。1958年フォルム洋画研究所に学ぶ。ネオダダでの活動ののち、65年の初個展を境にミニマルな作品へと大きな変革を遂げる。72年ヴェネチアビエンナーレ日本代表。1977年文化庁芸術家在外研修員として1年間ニューヨーク、パリに滞在。

●福住治夫
兵庫県生まれ。早稲田大学第一政経学部卒業。1966年、美術出版社に入社。『美術手帖』、書籍編集などに従事。80年、退社。以後、フリーとして翻訳・編集・執筆などを行なう。最近はミニコミ月刊誌『あいだ』(発行:美術と美術館のあいだを考える会)を主宰。

●松本透
1955年東京生まれ。京都大学大学院修士課程修了。東京国立近代美術館美術課長。論文「カンディンスキーの芸術理論における絵画の形式と内容の問題」、翻訳『カンディンスキー--抽象絵画と神秘思想』(S.リングポム著)ほか。手がけた展覧会は「現代芸術への視点--色彩とモノクローム」展、「カンディンスキー」展、「村岡三郎」展など。

●藤枝晃雄
1936年生まれ。美術批評。現在、武蔵野美術大学教授。著書に『現代美術の展開』『絵画論の現在』『ジャクソン・ポロック』ほか。

(※略歴は1999年当時)

2000年7月21日
於:武蔵野公会堂合同会議室


●パネリスト
川俣正
南雄介
高島直之
松本透

●司会
林卓行

[林]…お待たせいたしました。本日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。それではただ今より、「1980-90年代美術再考」というタイトルで、ギャラリーαMのトークショウを始めたいと思います。前回のトークショウでは、70年代くらいのことを中心に話があって(「現代美術の真実」1999年10月20日)、同じこの会場で藤枝晃雄さん(前ギャラリーαMキュレーター)が司会をなさったのですが、それを受けたかたちで80年代から90年代ということで今日はお話をさせていただきます。
では私からパネリストの方々のご紹介をさせていただきます。まず、アーティストの川俣正さん。おそらく説明の必要もないかと思いますが、80年代初頭から非常に多岐にわたる活動をなさっています。現在は東京芸術大学の先端芸術表現科の教授でもいらっしゃいます。また現在進行中のプロジェクトとして、新潟県の越後妻有でのプロジェクトも今日からオープンということです。また明日からは、愛知県の豊田市美術館でのプロジェクトも予定されております。
続いて東京都現代美術館の南雄介さん。南さんは、95年の開館当時から学芸員として活躍されています。これまでに担当なさった主な展覧会としては、中西夏之展、あるいは河原温展、一番最近では「シュポール/シュルファスの時代」展などです。同時に90年代から、さまざまな美術の評論などもなさっています。
3人目は東京国立近代美術館の松本透さん。松本さんは現在、近代美術館の学芸課長として活動なさっています。これまでにカンディンスキー展、あるいは「現代美術への視点一色彩とモノクローム」展といったグループショウなどの企画をなさいました。
もうひと方、高島直之さん。高島さんは70年代終わり頃から美術評論を始められて、フリーの美術評論家として健筆をふるっておられます。近著として『中井正一とその時代』があり、なかなか刺激的というか、じっくり調べた重要な論文になっております。
最後に私、林卓行と申します。美術評論の仕事をしています。今ご紹介した松本さん、高島さん、それから私の3人で、今年度、来年度のギャラリーαMのゲストキュレーターを務めさせていただいております。今日は、ゲストキュレーター3人プラス外部の方お2人をお招きしてのトークショウということになります。
では最初に、川俣正さんに伺います。川俣さんはちょうど80年代初頭から本格的な活動を開始なさったということですので、これまでのご自分の活動をいろいろと振り返っていただくというかたちで、現在までのプロジェクトであるとか、ご自分のお仕事の転換などを語っていただければ、自ずと90年代までの状況が何らかのかたちで見えてくるのではないかと考えます。よろしくお願いします。

[川俣]…はじめまして、川俣と申します。僕は80年代から活動を始めて、今に至るということを大雑把にお話ししたいと思います。それが結果的に80年代とか90年代の検証になるのかどうかわかりませんが、僕個人がいろいろなことに出会って、考えて、さまざまな状況の中でやってきたということを、最初に少し紹介したいと思います。
78年あるいは79年くらいですか、ちょうど僕が芸大の学生の時に、いろな美術の動きが周りでありました。僕は油絵科だったのですが、絵を描くということよりも、もうちょっと空間を使った仕事をしたいという気持ちを、個人的に持っていました。70年代の後半あたりからニュー・ペインティングというか、ペインティングの動きがかなり出てきたということがありました。80年代の頭くらいに、銀座の画廊でよく見たのは、そういうようなペインティングと、それと以前の「もの派」という、物質を使ったインスタレーションというか、ちょうどそれが折衷している状況であったと思います。僕個人としてはどちらにも非常に違和感があって、もう少し違う動き方を自分で考えてみたいと思ったのです。その意味で、空間を設定して、そこでどういうことができるのかということで仕事を始めたのが、80年の代頭くらいからです。
非常に幸運なことに82年にヴェネツィア・ビエンナーレに招待されまして、まだ僕は大学院の学生だったのですが、それが大きなきっかけでした。僕にとってはヨーロッパでの最初の国際展で、勇んでヴェネツィアに行って、最初にそういう大きなインスタレーションを行ないました。
アートの一つの流れのようなもので言いますと、先ほど言ったように70年代の後半あたりから、たとえばドイツではワイルド・ペインティングとかアメリカではバッド・ペインティング、あるいはイタリアではトランス・アヴァンギャルドとかいろいろな言い方をされますけど、コンセプチュアル、ミニマル以降、非常にフィギュティヴなペインティングが出きてきたわけです。82年のヴェネツィアの時にはそういう状況が圧倒的にあって、彫刻にしても、たとえばバリー・フラナガンのような、ブロンズで犬の彫刻を作ったりウサギを作ったりといった感じのものがあったりして、僕は何もわからないでポッと行って、これは場違いだという感じが明確にわかってきたんですね。それが僕の中で非常に良かった。何が良かったのかというと、「あ、僕はもう違うのだ」と、自分はヴェネツィアを含むアートワールドの中で多分場違いな存在としてあるのだと認識できた。それで状況をあまり考えなくてもいいなと思ったのです。もう自分の好きなことをやろう、自分のプライベートな部分で充足すればいいということで、結構開き直った。ヴェネツィア以降ヨーロッパに1年間くらいいたのですが、それはある意味でケツをまくる時期だった。
日本に帰って来て早々に、自分の中で納得できるものとして、美術館やギャラリー、キュレーター、そういう状況の中で活動するのではなく、自分で場所も設定して、自分で企画して、自分で一つのプロジェクトというかたちでそれを立ち上げて、やっていこうと思った。個人のアパートを使って展覧会をしたのが82年の後半から83年にかけてです。それが僕の中では一つの結節点というか、自分と相容れない周囲の状況を捨て置き、それと関係なく自分でやっていこうと思った時期です。それが今実際にやっている一つの礎になっているところはありますね。
ヴェネツィア以前と以降の、自分なりの状況は随分違います。僕自身はヴェネツィアでのペインティングのムーヴメントにはほとんど興味がなかったのですが、僕がヴェネツィアから帰って来ても、銀座の画廊ではまだ延々とそういうものがあったりして、その辺は状況としてはっきり見えてしまったので、そこから離れて、少しずつ自分のスタイルというものを作ってきたということです。
その後、84年にニューヨークにグラントをもらって行くことになったのですが、当時は、イーストヴィレッジが非常にエキサイティングな場になってきていたんです。たとえばグラフィティというか、ある意味ではストリート・パフォーマンスやストリート・アートのようなものが非常に盛んだった。そういう街の中で作品を作る、ちょうど僕もアパートメント・プロジェクトを83年頃にやっていたので、それがうまい具合に自分の中でリンクしたんですね。街中で何かをやっていく、ゲリラ的にでも自分のフィールドとして、場から何かできるものをそこで見たわけです。84年、85年とニューヨークにいたのですが、今で言えばパブリック・アートということなんだろうけど、そういう圧倒的なイーストヴィレッジの動きのようなものを体感できたわけです。
それから80年代後半、90年代も含めて、いわゆるサイトスペシフィックというか、ある場所に一つの作品を作っていく、その場所でしか成立しない作品、一つのモティベーションと一つの場所のリアリティのようなものをどこかで組み立てる、そういう仕事をしてきて今に至っていると思います。
あまり自分史を言っても仕方がないですが、80年代のヴェネツィア以降、ニューヨークに行ったりヨーロッパに行ったりしていて、その頃の日本の状況はあまりわからないんです。86年あたりから僕はヨーロッパにいるほうが多くなっていたのですが、ヨーロッパでの大きな変化というのは、展覧会の変化だと思います。キュレーションの変化というか、展覧会そのものの企画に対する変化というのがすごくありました。
展覧会によって一つの作品の流れが随分変わる。たとえば、ドクメンタというのは4年に1度行なわれるのですが、その展覧会によってアートの流れが随分変わってきたり、あるいは非常に明確なコンセプトを持っている展覧会によって出てくる作家の仕事が一つの話題性を作ってみたり、ということがあった。
僕個人としては、80年代90年代では三つの重要な展覧会があったと思います。パリで行なわれた「マジシャン・ドゥ・ラ・テール」という、民族的な、宗教的な儀式の作品と現代美術をごった煮したもので、これはユベール・マルタンというフランスのキュレーターがやった展覧会です。それからヤン・フートがベルギーでやった、普通の民家やアパートに作品を設置して、それを人が観に行く「シャンブル・ダミ」という展覧会。もう一つはミュンスターのスカルプチュア・プロジェクトですね。10年に1回しかやらない野外展ですが、それをずっと10年ごとにやっていく。その三つの展覧会に出てくる作家、出てくる作品がその都度話題になっていった。その話題性のようなものがアートの大きな流れになっているというのをヨーロッパで感じましたね。
たまたま僕はバブル期はあまり日本にいなくて、仕事も日本になく、ヨーロッパにいた。そんなわけでバブルが終わってから今ここにいるという感じなので、バブルの時の状況なども、逆に僕はいろいろと聞きたいと思っております。

[林]…ありがとうございました。非常に巧みに日本以外の状況をスケッチしてくださったという印象があります。ヴェネツィア・ビエンナーレに初めて参加されたのが82年。84年にニューヨークのイーストヴィレッジのストリートでのさまざまな動きを目の当たりにして、しかも86年にヨーロッパにいらした時の、一つのアートワールドというか、アートフィールドの変化のことをお話ししてくださいました。
とくにキュレーションの時代というふうに言われることもあるくらいに、おそらく80年代の後半というのは、確かにヨーロッパを中心にキュレーター主導の展覧会というのが大きな力を持った時期だったろうと思います。ユベール・マルタンであるとか、あるいはヤン・フート、あるいはそういうキュレーターたちが大掛かりというか、国際的に組織して、それがその都度大きな話題になっていく状況を川俣さんは肌で感じていらしたのだろうと思います。
さて、東京都現代美術館の南さんは、どちらかと言えば80年代後半くらいから国内の状況をつぶさにご覧になっていると思います。南さんはかなり早い段階から現代美術館のスタートに関わっていらっしゃるので、できましたらその辺りの話を中心に、80年代後半の日本国内の状況というものまでをお話しくださいませんでしょうか。そのうえで、いくつかそこから脱線した興味深いお話が伺えればと思います。よろしくお願いします。

[南]…南です。ご紹介にありましたように、今、木場にある東京都現代美術館の学芸員をしています。この美術館が開館したのは95年の3月ですから5年半になります。私が美術館に勤め始めたのは89年4月ですが、この時は上野にある東京都美術館の学芸員としてでした。すでにその頃から東京都が新しい現代美術館を作るという計画があって、準備室ができたのは私が入る1年くらい前の88年だったと記憶しております。そして88年あたりから作品購入が始まりました。私が東京都美術館に入った89年には、東京都美術館のコレクションも全部移して、そこで新しい美術館を作るというのが前提としてあったのです。私自身は、92年に新しい美術館の準備室に移って、3年後の95年に開館を迎えるわけです。
東京都現代美術館もそうですが、さっき川俣さんもおっしゃったように日本にはバブル経済の時代というのがあって、その状況の中で各自治体では税収がどんどん増えていって、その使い途の一つとして、市のレヴェルが多いのですが、いろいろな自治体で新しい美術館が計画されました。それが80年代後半から90年代前半くらいに重なっています。
私が美術館に勤め始めた少しあとの90年代前半頃は、実際に学芸員の求職が大変多く、どこでも新しい美術館準備室ができ、美術館ができて、いろいろと求人があって新しい学芸員が採用されました。そうして今日のこういう状況に至っているわけです。結局、東京都現代美術館開館は予定から少し遅れた95年になったのですが、開館した頃からバブル経済というか日本の経済が傾き始めていて、この5年間ではどんどん予算が減っているという状況にあります。今や2000年ですが、来年はどうなっているかわからないという、そのくらいにまで落ち込んでしまっています。90年代前半というのは、美術品の価格が非常に高騰して、すごく高値で取り引きされるものも多かったですし、海外の現代美術作品などもどんどん日本に入って来て紹介されるということが続いていたと思います。海外の作家の新作などの展覧会をする時に、その作家が来日するというのは、今では当然になってしまいましたが、そういう現象も80年代後半から90年代あたりにかけて始まったものだったんですね。
現代美術館ですが、95年開館の展覧会が「日本の現代美術 1985年-95年」というタイトルで、95年に先立つ10年間の美術を総括するかたちで、18人の作家を集めたものです。その時には川俣さんにも参加していただいております。
その後、現代美術館では日本の現代美術を扱う展覧会をあまりやってなくて、海外作家の個展とか、日本の作家でもある程度評価が確立した作家の個展が多かったのですが、99年から若い作家のグループショウをしようということで、「MOTアニュアル」というのを始めました。そして去年の1月から3月に行った第1回目を私が担当しました。

[林]…むしろ、「日本の現代美術 1985年-95年」展を開催するにあたっていろいろ伺いたいこともあると思うので、もしよろしければその辺の話を先にしていただけたらと思うのですが、いかがでしょうか。

[南]…「日本の現代美術 1985年-95年」というのは、新しい美術館のこけら落としの展覧会で、こういうものはいろいろと難しい問題をはらんでいるというか、簡単にパッとはできない。いろいろな状況とか力関係とか、そういうものを考慮しながらバランスをとって、なんとなくまとめてしまうという、そうならざるを得なかったところがあります。
ですから、あれは誰が作家を選定したということでもないのですが、当時のスタッフが作家の名前をいろいろと出して、ああでもないこうでもないと意見を出し合い、コアになる何人かのチーフキュレーターあたりでディスカッションをして18人に絞ったという感じです。
その時は、とくに何か強い方向性を出すというよりも、むしろ10年間の状況を総括するということに重きを置きました。とくに80年代後半あたりから、先ほどのお話にもありました川俣さんの活躍ということもあるのですが、日本の現代美術が海外で紹介される機会が結構増えてきた。そういう紹介のされ方とか、海外における評価というものも大きな判断基準にはなっていたと思います。

[林]…ありがとうございました。では引き続き80年代の状況ないし美術関係の一つの傾向というものですが、さきほど川俣さんからは海外の動向が非常にコンパクトに紹介されました。また南さんからは、作品についての話はまだちょっと伺えませんでしたが、日本の現代美術を取り巻く状況、バブルのことであるとか、あるいは日本の現代美術が海外に積極的に紹介されるようになったというお話を伺いました。
おそらく東京都現代美術館の開館目的の一つは、僕が記憶している限りでは、海外の成果を広く日本に紹介すると同時に日本の成果を海外にも打ち出すということがあったと思います。それで最初に、川俣さんを含む18名の作家の展覧会になり、85年から95年ということで、ちょうどその10年間くらいの間をまさにフォローしたものであったと思います。その辺りのお話を、またのちほど伺いたいと思います。
松本さんはおそらくそれ以前のいろいろな状況を把握なさっていると思います。国内の状況や美術を取り巻く制度的な問題に関してでも結構ですし、その中でどのようにアーティストの活動が行なわれていったのかということに関しても、お謡をしていたたければと思います。

[松本]…私が美術館に入ったのが1980年です。たまたま川俣さんが活動を始められたのとほぼ同じ頃です。80年代、つまり自分が属していた時代については、過度に辛辣になりがちで、なおかつ全否定はしたくないという非常に複雑な気分になるものですが、私の80年代像は、その後の10年を経る中で多少とも好転したようです。80年代当時は、はっきり言って決定的に新しいことが何一つ起こらないブランクの時代だという印象がすごく強くて、ムーヴメントとか様式という点でも、リサイクルの時代だと感じていました。これは、そう外れていないと思います。
川俣さんがニュー・ペインティングのことをおっしゃいましたが、私にとっても少なからずショックだったのが80年代初めのニュー・ペインティング、とりわけイタリアやドイツなどヨーロッパのそれでした。記号化への渇望というか欲望。プリミティヴであったり神話的な原イメージ、あるいは多分に政治性や社会性を帯びたアレゴリーとか象徴、そういう抑圧されてきた記号表現――何がそれらを抑圧してきたのかというと、広い意味でのモダンアートの<よい趣味>が押さえつけてきたのでしょうが――いずれにしても、溜まりに溜まっていたものが地面から噴き出てきたという印象をもったのです。
日本の場合、そういった意味でのニュー・ペインターはいなかったのではないか。せいぜいペインタリーな筆触がまた現われてきたとか、具象的なモティーフの断片が絵の中に現われてきたとか、フォームの水準でニュー・ペインティング的な画家や、そういうものを取り入れた画家はおりましたが、あの凄まじい記号化、しかも社会的記号化への欲望のようなものは日本にはほとんどなかった。
それはニュー・ペインティングの場合だけではありません。その後、ニューとかネオの名のついた一連の動きが現われましたが、ネオ・ジオ、つまり「新しい幾何学的抽象」にしても、ニュー・コンセプチュアリズムにしても、やはりニュー・ペインティングと根が通じていなくもない。それらのいずれにも社会性、政治性の強い記号化への意志のようなものを感じるのです。それに比べると、日本にも一見並行する動きがあったけれど、いかにも美的であって、悪く言えば綺麗すぎる。しかも80年代の半ばくらいから、インスタレーションがはびこり始め、何でもかんでもそういう方向に流れていくのを見て、これは日本だけに限ったことではないでしょうが、かつて20世紀初頭に起こったような、あるいは戦後も60年代末から70年代の初頭くらいに起こったいくつかの運動のような、本当に新しいものは何一つない、寂しい時代にいるという印象を持っていたのです。
ところが90年代を通過する中で、少しずつ見方が変わってきました。80年代という時代の中に、90年代と比較して肯定的に捉えられる面を発見できるようになった。たとえば、80年代のキーワードの一つに<ポストモダン>という言葉がありましたね。例によって、ポストモダンとは何か、あるいはモダンとは何かという問題そのものは、日本ではさして堀り下げられることがなかったし、美術との関係でこの議論が深まった覚えもありませんけれども、しかしこの言葉は、80年代には自分の時代に対する緊張関係が、90年代には考えられないようなかたちで存在したことを示してはいるでしょう。ポストモダンというからには、モダンは半ば過ぎ去りつつあるという、とりあえずそういう意味だとして、その場合のモダンが、大雑把に20世紀のことなのか、それとも19世紀半ばくらいからかは、いまはひとまずおきましょう。時代区分はさておいて、もっと原理的な世界観とか自然観という意味でのモダンに対して、自分たちの時代がその圏外に足を踏み出しつつあるという意識。モダンというのは一個の世界観であり、価値観であるとして、この時代にはポストモダンを標榜しながら、モダンのいろいろな否定的な面を各論的に切り崩していった。その際に、その大きな近代という時代に対して、自分たちの時代は何かという、自分の時代に対する自意識が非常に強かった。こういった自意識は、90年代以降、急速に薄れていったのではないか。となると、それは美術の具体的な現象にも何らかのかたちで関わってきてるに違いない、そういうふうに思い始めることによって、はるかに過ぎ去った80年代の10年間も、それなりに特色があったのではないかと思い直しています。

[林]…どうもありがとうございました。今お話を伺って、私が個人的に非常に関心を持ったのは、時代に関する自意識が非常に強い時代が80年代であったということです。次の自分たちの時代はどういう時代なのかということに対する強い意識、それが90年代になって非常に変質している。時代の精神状況の変化として興味深いことだと思います。
もう一点、川俣さんのお話でもそうですし、ある意味では松本さんのお話でもそうですが、80年代の初頭にネオ・エクスプレッショニズム、つまり新表現主義であるとか、あるいは日本でニュー・ペインティングと呼ばれたもの、そういうフィギュラティブな具象的な絵画の復権があり、そういうことが非常に強く言われたわけですね。これは僕の意見ですが、それが川俣さんの場合にしても、あるいは松本さんの場合にしても、それに対しての反作用であれ、今のご自身の活動に何らかの影を落としているという印象を持ちました。時代的な精神状況の問題と、そしてなぜ絵画が80年代の初頭にそういうかたちで影響力を持ち得たのかということについては、すぐここで考えられるような問題ではないと思うので、引き続き何かお話があった時に、少しずつでも進めていければと思います。
問題を限定してしまって大変に恐縮ですが、80年代初頭にニュー・ペインティングというものが出てきた時代については、高島さんはどう思われますか。

[高島]…アメリカですと、79年に「ニューヨーク/ニューウェーブ」という展覧会があって、それがまさにきっかけとなったということです。それから、81年にジュリアン・シュナ―ベルが二つの画廊で個展をやって、それが一挙に受け入れられた。歴史的に追いかけると、どうもそのあたりが端緒になっているようです。

[林]…ミニマリズムから新表現主義へという、ホイットニーの展覧会は確か83年ですか。それまでミニマリズムと言っていたのがかえって不思議なくらいです。他にはネオ・バロックとか81年のあたりでしょうね、おそらくその絵画というのが出てきたのは……。
歴史的にでも結構ですか、絵画というものが大きな力をもった状況について、何かお考えになっていることはありませんか。

[高島]…まず美術表現の内部から見ると、「ニュー・ペインティング現象」というタイトルで『美術手帖』が特集をしたくらいで、日本の場合にはそれは<現象>と言っていいと思います。一つはアメリカですとアート・マーケットの要請というのが強くて、あえて言うとミニマムな作品というものが市場で動きがあまり出なくなったと言えます。ちょっと飽き飽きしたというかたちで、そういうフィギュラティブなものを、マーケットの需要というより、供給を先駆けて、それを経済の引っ張り作用として使っていこうという意識は、画商さんの間では非常に強くあったという気はします。
あとは、モダニズムというか、アヴァンギャルドの終焉というのが大体60年代の末期にあるとすると、アヴァンギャルドというのは、こういうふうにあるべしというか、こういうように推進していくのだという、そういう信念がコアにあって進んでいくものですが、60年代までのアヴァンギャルドの各スタイルや、やり口や手法というものが、大体70年代の末から、歴史的に線上で推進することができなくなっていった。過去のスタイルを横一線でインデックスとして並べていく。そこからどれでも取っていいという、それは折衷とも言うし、引用主義とも、あるいは盗用主義でもいいですが……。
要するに60年代のアヴァンギャルドの実質的な終蔦と、ニュー・ペインティングの出現というか、それが重なっていたのではないでしょうか。
もちろん時代的には70年代後半の数年間は、隠れた空自の期間としてあります。そういうものがはっきりしたのが70年代末だとすると、ニュー・ペインティングというものが、単に様式の次の交代として出てきたのはなくて、インデックスの一つ、引用の一つとして出てきたということです。

[林]…今のお話というのは、おそらく時代に対する自意識が非常に強かったという問題とリンクしていると思うのです。つまりモダンなり何なりという時代の渦中には、もはやいられないという自分たちを意識した時に、それに対してどうやっていくのか。その時に、「ネオ・○○○」や「ニュー・○○○」というのが非常に増えてきたというのは、美術に対するメタ意識です。「美術についての美術」ですよね。あるいは「絵画についての絵画」。それは今に至るまで続いているような気がします。
それはさておいても、たとえばネオ・ジオは、ジオメトリカルな絵画についての絵画であったわけです。あるいはネオ・エクスプレッショニズムというものも、ただの表現主義ではなくて、「表現主義についての表現主義」というようなところがあった。そういう中でメタ的な視点というのが急に拡大していく状況があったように思うのです。
ここまで自分で勝手に進めていくのもなんですが、日本でのニュー・ペインティング状況というのは、コマーシャルとしての『美術手帖』の特集によるところが大きいということを、今ざっと高島さんにお話をいただいたわけです。しかし、その中で非常にフォーマルな絵画というものの復権も何となく図られたような、むしろそういう時代だからこそフォーマルな絵画が強く求められていたという状況があったのではないかと予想はするのです。あるいはニュー・ペインティングなりネオ・エクスプレッショニズムなりの一辺倒であったのかどうか。その80年代前半くらいの絵画を中心に、状況をご覧になった限りでどういうふうにお考えになるのかを伺いたいのですが。

[高島]…誰か作家の名前をあげると、多分、その作家個人に沿っては何か話ができると思うのですが、一般論としてはニュー・ペインティングは一つの引用主義であり、つねに相対化してしまうという意味ではフォーマルな態度も相対化現象の中の一つとして選び出されたわけで、その大きな流れに飲み込まれていったと言えます。
あとは、フィギュラティヴということも、ないしはネオ・フィギュラティヴと言ってもよいと思うのですが、それが吹き返した。あとはナラティヴなアプローチですね。たとえば、現われとしてはバイオモーフィックな形とか、いろいろな「個人」に限定した<神話性>に基づくもの、そういうナラティヴの蒸し返しのようなものもニュー・ペインティングの背景にはあると思います。

[林]…たとえばミニマリズムであるとかコンセプチュアル・アートとか、そういうものを抑圧してきて、それの蒸し返しであると。

[高島]…そうでしょうね。たとえば表現主義的な流れに対して、それを抑圧するというかたちでフォーマルな仕事が出てきたとすれば、そういうことは言えるのではないでしょうか。

[林]…私がいま無理やりつけた流れに沿うかたちでなくても、絵画ということに限らなくても結構ですが、もう少しさらに80年代の半ばくらいのお話を高島さんいかがでしょうか。

[高島]…そうですね。80年代の半ばと言いますと、さきほど出たバブルの話があって、ゴッホの「ひまわり」の53億円を象徴として、輸入額が一番高かったのが大体87年です。経済的にはそれ以降ずっと下がっていきます。そういう絵画の、要するにヨーロッパの名画の投機ブームの頂点が87年だとすると、ちょうどこの年、僕が『朝日ジャーナル』というところで、表紙の解説をやったことがありました。具体的に言うと、たとえば、ここにいらっしゃる川俣さんも紹介させてもらっています。中村一美さん、岡崎乾二郎さん、宮島達男さん、遠藤利克さん、戸谷成雄さん、青木野枝さんといった、ここには70年代の末から仕事をしている人と、80年代から仕事をしている人がごっちゃになっています。
僕がどうやって取り上げたのかというのは、1年間の連載で毎週その時に展覧会を催した人から選んだので、頭の中から選び出した網羅主義ではないのです。むしろニュー・ペインティングというかたちで感じさせたのは、大竹伸朗さん、吉澤美香さんとか、関口敦仁さん。ペインティングだけではないのですが、菅野由美子さん、中原浩大さん、青木野枝さんとか、そういう方々です。70年代から出てきているポスト・ミニマル系の流れと、ニュー・ペインティングの流れに吸い込まれていく人たちの、二つの潮流が80年代の半ばくらいに重なるというようなことですね。
実質的には日本のニュー・ペインティングの作家というかたちで、はっきりと名指せる人はあまりいないのです。まさに現象としては、パルコが主催していた「日本グラフィック」展から「アーバナート」展の、あの系統のほうにはっきり出ていた。アメリカ的な、あるいはイタリアでもドイツでもいいのですが、典型的なニュー・ペインティングの傾向は、イラスト、デザインのほうにむしろ引っ張られていったというのが僕の印象です。

[林]…そう考えてみると、露骨にフィギュラティヴであったり、ナラティヴであったりという絵はあまりなかったという印象はありますね。たとえばJ・シュナーベルであるとか、F・クレメンテですか、露骨に個人的な神話を表現するというようなことはなくて……。

[高島]…今ちょっと思い出したのですが、ニュー・ペインティングというかたちでアメリカを考えると、J・シュナーベル、D・サーレ、J・ポロフスキー、R・ロンゴ、C・シャーマンとかに見られる、何かしら人間の肉体の形象にこだわる人が多いんですね。<身体の抜け殻>と言ってもいいと思いますが……。
それは多分ヨーロッパ絵画の伝統的な流れから採っているのだと思いますが、日本ではあまりみられないのですね。さきほど言ったバイオモーフィックなと言うべきか、何とも言いがたいのですが、人間中心的な画像というのはあまり見受けられなかった、というのが決定的な差ではないかと思います。

[林]…僕の印象ですが、人間ぽい形だが、でも描かれているのは人間ではないというのが、わりと日本の場合にはよくあるというか、別に時代と関係なく出てくるというか、吉澤美香さんなどもそうですが、何となく人間ぽいというか人懐っこいというか、あまりベタな人間というのは出てこなくなったけれど、人間らしく、というのはあったのではないでしょうか。

[高島]…そう、でも人間的でナラティヴと言ったら、むしろ、系譜を異にした横尾忠則と日比野克彦とかではないですか。

[林]…そうですね。やはりグラフィックやデザインのほうに影響力があっただろうということですね。

[高島]…あとは、漫画で「ヘタウマ」というのがありましたね。湯村輝彦さんをシンボルとするへタウマ・ブーム、これがちょうど重なっているのです。漫画誌『ガロ』がへタウマ面白主義に変わったのは70年代の末期なんです。昔からのわりと暗いイメージを払拭して、マンガ・イラストのへタウマ・ブームとアメリカ的ニュー・ペインティングが重なったという印象がありますね。

[松本]…ちょっといいですか。ニュー・ペインティングの問題はそれなりに重要だと思いますが、当時を思い出すと美術雑誌の特集などでニュー・ペインティングがとり上げられることはあっても、日本の美術界に深く根ざしたものだったとも思えません。
だから、これは異論があるかもしれませんが、僕は作品を見る時に--またさっきの問題に戻ってしまいますが--その作家がどのくらい厳しくモダニズムの問題点を追求しているか、批判しているか、そこに注意がいってしまうし、シビアに批判すればするほど、逆にモダニズムならではの、維持すべき特質とか、継承すべき部分も明らかになってくるわけで、そういう一種の基準のようなものを、自分では設定して作家を見ている。だから、基本的にはモダニズムの側に立ちつつ、自己批判し、その批判のフィルターを通して残った最良の部分を作品化できた作家を見つけようとしている、それが正直なところです。
そうした状態が80年代を通じて続いて、しかし90年代の半ば頃からでしょうか、もうそうした基準だけでは太刀打ちできないのではないか、と懐疑的になってきた。80年代と90年代で、美術の現象面というよりは、もう少し深い時代感情の面で大きく変わったという実感があります。

[林]…そうですね。いろいろとお話が出てきています。一つは、私は今でも絵画という問題にこだわって話をしていますが、というのも川俣さんが最初にお話になった中で、ヴェネツィア・ビエンナーレに出かけた時に、ちょうどナラティヴないしフィギュラティヴな絵画というのが全盛で、油絵科にいらしたにもかかわらずというか、油絵科にいたから、それに対して自分は非常に違和感があった。それでたとえばフォーマルな絵画に行く道もなくはないてあろうが、おそらくその辺りでいろいろと葛藤とかがおありだったと思います。
絵画を出られたというのは変ですが、絵画というものにそこまで抵抗を示されたのは、川俣さん自身にとって何か強烈な理由というのはおありでしょうか。

[川俣]…いや別になかったです。絵画科というか油絵科に入ったのはあくまで芸大に入るためのものであって、油絵を描かないといけないとか、油絵を続けるとか続けないとか断念するという発想もまずなかったのです。芸大に入って1年生の時から、やはり僕らの前の世代の、もの派以降の人たちの作品がずっとあって、何かを考えないといけないとか、何か物を見続けないといけないというような窮屈さのようなものはすごく感じていて、その窮屈さのようなものを、その時の状況というか時代背景かなと思って、それはなんとか越えたいと思いました。それが別にペインティングであろうが、彫刻であろうがいいんです。ある意味でミニマルな、あるいは何かを見て感じるという設定のようなものがすごくて、もうちょっと楽にしたいというか、そういう心情的なものはすごくありました。これは僕の個人的な時代状況なのかもしれない。狭く言えば銀座の画廊界隈のような、そういう動きだったと思う。
国内の80年代と90年代のことは、僕はあまりよくわからないです。外国での仕事の中で80年代とか90年代を見る時に、ベルリンの壁の崩壊が、まさに80年代の終わりにあって世界が変わってくるというか、さっき言ったポストモダンであったり、全体主義であったり、東ヨーロッパのアートというものが非常に出てきて、それが結果的にたとえばユーロ・ナショナルという発想が出てきたことに繋がって、明確に変化の動きが感じられたわけです。
日本について80年代と90年代で何を言えるのかというと、僕は逆に問題提起をしたいと思っていますが、80年代とか90年代はバブルの時代だったのではないか。その典型的な状況として、さきほど出たように日本人ア-ティストの活動がその時に出てきたのですが、その準備段階として、僕も実際に参加した「アゲンスト・ネイチャー」という展覧会と、同じ時期に「プライマル・スピリット」という展覧会があって、これは一私立美術館、あるいは基金が日本人のアーティスト、とくに現代美術、そういうものを外に持っていこうと意識的にやっていた企画だったんですよね。ああいう起爆剤というのは、どこかで経済的な背覚もありますね。たとえば10年前の飛行機のチケットの値段と今の値段は全然違うわけだし、80年代にニューヨークに行った時の円高の状況と、今の円高の状況とは全然違う。そういう意味で、日本国内と国外では、状況は随分違うという感じがします。僕個人はヨーロッパは非常に明確に見えてくるのですが、国内については80年代とか90年代とか、10年間の中で何かというふうに清算できないと思うのです。そこでもしあえて言うならバブルではないかと思います。

[林]…ただ、川俣さんご自身では、状況から受けたインパクトが何らかのかたちで作品に反映されているというふうにお考えになりますか。

[川俣]…バブルの時に恩恵を受けなかったので、あまりないです。僕は知らないから、逆にそういうことを高島さんがよく知っているのではないかと思うのですが、どうでしょうかね。

[高島]…バブルの時代で、作品が結構売れたという方はいらっしゃると思うのです。それ以外にバブルというと、日本の現代美術の若手作家がまとまって海外に紹介される回数が増えた。これが事実上一番大きいのではないかという気がします。それとさきほども出た、メセナというのでしょうか、企業が現代美術の作家に何かしら援助するという、ハイネケン・ヴィレッジなどがありましたし、また東高現代美術館とか、いくつか数え上げられます。要するにああいうバブルは、これからは、僕が生きている間はもう来ないだろうと思っています。つまり、いかに経済が活況を呈しても、あのくらいの現代美術へのサポートが最高クラスなのだというふうに僕は見ています。その程度にバブルを考えています。

[川俣]…日本のアートということでなくてもいいのですが、バブル経済というのはもちろんあって、繁栄して終わってしまったわけですが、一つのきっかけとして、バブルがあってあれだけアートが盛んになってきたけれど、バブルが終わって全部終わってしまっているのか、あるいはその残りがまだあるのか、もしそれがないのだとしたら、結局、経済とアートというのは同じようなものでしかない。根づかないものでしかない。なぜ根づかないのかというのは僕にはわからないし、根づくとか根づかないという問題なのか、あるいは日本の現代美術というのは、元を言えば経済の中でしか動いてなかったのか、あるいは元々根づかないのが日本のアートなのかという気もあります。
80年代90年代を含めて、たとえば西武美術館というのは非常に大きな動きをしたと思いますが、結果的に今はもうないわけで、こうやってどんどん変化していく。逆に水戸芸術館などのように80年代とか90年代に出てきて、今も活動しているところもあるし、オルタナティヴなスペースなどもまだ残っているところもありますが、単純に10年間の流れを見ていても、あるいは20年間の流れを見ていても明確に見えてくるものがない。一つのパラダイム・シフトというか接点が見えてこない。たとえば非常にロマンティックな言い方でベルリンの壁の崩壊というのは、歴史的にも、視覚的にもわかるわけです、なくなってしまうわけだから。そういうヨーロッパ的動きにならないのが日本的なのだと思うし、そういう動きにならないアートの流れというのが、日本の80年代90年代に発覚したということでしょうか。僕が質問してもしょうがないのですが……。

[高島]…僕も答えられない。

[川俣]…そうおっしゃらないで……。

[高島]…確かにさきほどのニュー・ペインティングの話の時にアメリカのマーケットの要請が強いという話をしましたが、日本はそれほどマーケットに現代美術の作品が限定されていないにもかかわらず、経済が衰えていくと、そのまま一緒に消えていくのですね。その辺りはうまく答えられないのです。それは悲観的にも、楽観的にも傾かないつもりですが。一つは、今ベルリンの壁の崩壊という話が出たのですが、EUというのが推進されて、ヨーロッパ全体がいろいろな問題をはらんでいますね。経済格差のあるいくつもの国を集めるわけで、非常な困難があると思いますが、一応ヨーロッパが本来のヨーロッパとしての意識というものを持ち直す、パラダイムを置き直すという動きがこれから加速化すると思うのです。一方、アメリカはアメリカで今までヨーロッパの遺産を輸入して、それを食い潰すかたちでアメリカのヨーロッパ化を完成させたのですが、今後ヨーロッパはヨーロッパ化して、アメリカはアメリカ化していく。
日本はどうなるのかというと、多分アジアという場所にシフトしていく。これはいいか悪いかは別として、大きな構図としてアジアのアジア化というか、日本はどのようにアジアでありアジアでないとか、問題が噴出する。地理的にはアジアですがね。オーストラリアを含め、その辺りの問題が今から出てくるのではないか、大きな枠組みではそういう気がします。

[林]…アジアネタというかアジア関係というのは意外に根づかなかったと。たとえば東京都現代美術館でもアジアの展覧会が一度だけありましたよね。もう一つは、さきほどちょっと伺ったように、アメリカやヨーロッパに対して日本の現代美術を広く紹介していくということが、現代美術館の大きな意義だったと思うのです。それはおそらく川俣さんがお話になった「アゲンスト・ネイチャー」や「プライマル・スピリット」の展覧会の成功というか、海外での巡回をある程度は意識して受けてはいると思うのです。ところが実際はいろいろと経済の問題が難しくなってきて、海外の紹介、あるいは日本から海外への発信というのは思うようにいかないというお話でした。
現代美術館の全体の話を、南さん一人に伺うのはなんですが、たとえば現代美術館のようなわりと公的な、なおかつ大きな美術館が、もう一つは川俣さんがおっしゃったことで言えば、結局美術が日本に根づくのか根づかないのかというようなことを含めて、おそらくいろいろなアプローチを試みていらっしゃる、あるいは試みてこられたと思うのです。その辺り、今のお話を聞いていてどうお感じになったでしょう。

[南]…日本の美術を海外に発信していくということに関して言えば、確かに80年代未から、川俣さんがおっしゃったように「アゲンスト・ネイチャー」、「プライマル・スピリット」というのがあったし、セゾン美術館の企画した「ジャパン・アート・トゥデイ」などもありましたね。ああいうかたちのものはあるのですが、現状を考えると、そういう展覧会を仕立てて海外に紹介するということで打って出るというか、持って行くというのには、状況が違ってきているのではないでしょうか。
それこそ飛行機のチケットは安くなったし、インターネットとかもあるわけで、結構今の日本の若い世代の作家というのは、それぞれに海外とのコネクションというか友だちもたくさんいる。実際に自分たちで出て行っているわけで、現代美術館に限らず、大きな枠組みで絵画を紹介をするというのではなくて、実際に今、ヨーロッパとかアメリカとかで行なわれている展覧会やコレクションにも日本の若い作家は当然のように入っている。この間ヨーロッパに2週間くらい行ってきた同僚が話していたのですが、確かオランダだったと思うのですが、そこであった展覧会に、ヨーロッパに在住している日本の若い作家が何人も入っていたのだそうです。しかしそれはわれわれが全然知らない作家だったりする。実際にそういうこともあって、かつてのような一つの枠組みで日本の美術を固めて持って行くという必要はもうそんなにないのではないかという気はしているのです。
それと、バブルの話ですが、80年代と90年代というふうに、そこに切れ目があるというよりも、85年から95年くらいまで、その期間が日本ではバブル経済の影響下にあったというか、一つの連続体のようなものがあったのではないでしょうか。私が89年くらいから美術館に就職してみて、90年代の前半は元気な状況があった。若い作家がどんどん出てきて、村上隆とかその辺りは、90年代の前半で、その世代がぽっと出てきた。ところが90年代の後半になると事情が変わってきているのではないでしょうか。お金が動かなくなったというのがあって、また変わってきているのではないか。
現代美術館の開館の年だったのですが、3月18日に開館セレモニーを行ない、19日から一般公開したのですが、3月20日に地下鉄サリン事件が起こった。その辺りとバブルの時代の転換点がリンクして、一つの新しい状況になっているのではないか。そういう気がするのです。

[林]…川俣さんの問題提起にあった、日本に美術が根づくのか根づかないのかということに関しては?

[川俣]…別に根づかないといけないわけではないです。そういう意味で言っているわけではないですが、バブルのような感じで思っていていいのかどうか。僕は84年から94、95年まではまさにいろいろな意味で日本が随分変わったと思うし、その時の状況はかなり異常だったと思うのです。
たとえばアメリカの画廊に行って、画廊で作品を見て買うのではなく、倉庫にある半分の作品を見もしないで買ってしまうとか、そういうことが平気であった。それは多分ほとんど商品としてのアートというか、物としてのアートを扱った。ひょっとしたらアートということではなかったのかもしれない。
ただ、それはそれで初めてアートがポピュラリティというものを獲得した時だったと思う。テレビのスポットでアートの作品を購入する場所が出てきたりして、ああいうことはもうないのかもしれないし、あの動きは何だったのか、その検証のようなものが結局何もないまま、また違うものが流れていくというか。それはそういうものかもしれない。それでいいのかもしれないが、もし、80年代とか90年代を自分の中で検証した時に、これは避けて通れない一つの切り口かなと思っています。
アーティストが外国に出るのは、確かに自分たち自身で出られるから、国あるいはキュレーションが何かするということはもういらないのかもしれないけれど、だとしたら美術館自体は、今は何をして美術館なのかという問題が出てくると思う。やはり美術館が随分変わったのでしょう。活動も含めて、さっきのキュレーションの時代ということもあるとは思うのですが。僕のほうがそういうことを言っても、自分の首を締めるような感じですが……。

[林]…高島さんのお話の中に、目一杯バブルであれだけ願いでも、この程度だったのかという、諦めにも似た発言がありましたが、そういう諦めというのは世間一般で共有されているのでしょうか。

[高島]…諦めと聞こえたかもしれませんが、経済的な頂点として、美術交流というか、国際的な流れの構造下のあるリミットがあれくらいなのでしょう、経済をバックにしてしまうとね。そういう意味であって、別に芸術に対して諦めているわけではないです。

[林]…ただシステムに関しては……。

[松本]…現代美術が日本に根づくか根づかないかという問題は、バブルの問題とは別だと思うのです。たとえば、ある画商から聞いて僕もショックを受けた話ですが、ある企業が苦労して素晴らしいコレクションを作った。ところがある時、その企業は経営的には上向きであるのに、せっかく集めた作品を売ると言い出した。つまり買ってはみた、すごいコレクションを作ったのですが、使い途がわからない。それで気が変わって売ると言い出す。芸術の使い途がわからない、価値がわからないというのは、バブルとは別問題ではありませんか。聞いていて暗くなりました。
南さんが公立美術館の予算の話をなさいましたが、たとえば美術に何十億円かを投下するのなんて、安いもんだという考え方もあるわけです。それくらいの金、別のかたちでいくらでも取り返せるというわけです。美術に投入した数十億とか数百億、それを通じていいコレクションを作り、たとえば海外に送り出して、それによって日本人のメンタリティとかを少しでも理解してもらう、そういうかたちで相互交通的な会話の助けに多少とも役立てる。それにかける数十億など安いものだ、という見方はまだほとんど生まれてない。それは企業でも同じでしょう。これはバブル以前の問題ですね。

[林]…美術館の話をすると暗くなりそうですが。難しい問題だろうと思います。今お話を伺っていて考えたことですが、川俣さんのお仕事というのはその意味では、根づかせようという意思を近年になって非常にはっきりさせだしたというか、明確にしだしたという印象を受けているのです。確かにニューヨークのストリートでの体験などが元になって美術館や画廊にはない美術でのお仕事というのが出発点としてあったわけです。たとえば、公共美術の問題だとかプロジェクトとか、あるいは今度の豊田市美術館でのプロジェクトもそうでしょうが、自分が街の中に入って行って、作って、どうだというのではなくて、そういう根づかせるという話で収まるとは思いませんが、しかしそれも含むような制作を最近なさっていると考えているのです。それは意識的というか、状況に対する反応というのはあるのでしょうか。

[川俣]…別に日本の美術がどうだという意識は全然ないです。

[林]…日本の美術というよりは美術全体の問題として。

[川俣]…美術全体のことを考えて僕は美術をやっているわけでは全然ないし、ほとんどそういうことは考えないのです。ただ僕は長くやりたいと思っているだけです。要するに、単純にバブルがあってバブルが終わって、はい終わりという、昔はそういう作品が多かったのですが、最近は、ずっとやっていくというか、何に繋がるのかわからないけれども、ずっと繋げていくということを考えていきたいんですね。たとえば作品も成立させないというか、成立を遅延するというか、そういう動き方というのは非常に難しいのだろうなと思うのですが。
別に日本で難しい、外国でやりやすいということではなくて、なにか途切れないでずっとやっていくということは結構しんどいことだと思うけれど、それをどこかで意識的にやっていかないといけない。今すごく思うのは、オルタナティヴという言い方、オルタナティヴという活動はすごく必要な感じがします。やはり途切れないというか、切れ目が見えないように自分でプロテクトしていく、そういうことでここをなんとか乗り切りたい。90年代から2000年を繋げていきたいという感じはあります。
自分はとにかくオルタナティヴでやっていくという一つの流れのようなもの、一つの線のようなものは、どこかで持ち続けていたいと思う。それをずっと引きずっていきたいという気持ちは、80年代90年代を適ってきた時に、僕の中で危機感としてどこかであった感じがしますね。それは別に作家を続けるとか続けないということではなく、作品の成立そのものが、多分そういうことでしかなり得ない。美術館も変わっただろうとさっき言ったけれども、そういう意味で展覧会あるいは展示、あるいはキュレーションそのもの、アートの価値そのものも随分変わってきていると思う。
これは僕の中ではここ10年とか20年の状況の中で出てきた結果として、どこかで引きずりたいという、そういう気持ちが結果的に僕の過ごした80年代、90年代の一つの遺産かなと思っているのです。

[松本]…オルタナティヴというのをもう少し具体的に……。

[川俣]…結局は主体性とか自己という話、あるいは関係性とかが出てくると思いますが、いろいろな状況がある中で、個人ではなくて、動きというものを、どこかで頑固に見ていくというか、たとえば自主企画でやっていくオルタナティヴ・スペースというのは、日本ではあまり成り立ち得ないところがあると思うのです。佐賀町のエキジビットスペースであったり、アーティストが集まってきて何かやっていく、今でもいろいろなところにあると思うのですが、そういうことで成り立っていく一つの動きのようなものは、どこかで時代と関係なく、あるいは状況と関係なくあり得ていくのではないかと思う。そういうことがすごく必要ではないかという感じはします。

[林]…あるインスティテューションなり、組織なりに頼るというわけではないし、自分で全部やるというわけでもない。

[川俣]…いや、全部に頼る、だから、切るというのではなく全部に繋げていって切らないということですね。

[林]…さきほどのペインティングの話にしても、何か一過性のものというか、一気に出てきたものというのは、ある日ふいに消えてしまうというか、そういう側面も少なからず持っていて、それに対する抵抗という意味合いも込められているのだと思います。
美術館というのはまさに永続的というか箱物として立った時に、社会の情勢なり美術を取り巻く情勢なりが微妙に変化しているとはいえ、おそらく最初の志というか、コンセプトというか、そういうものを変化させながらも生き長らえているというようなことだと思うのです。
多少強引かと思うのですが、さきほどのお話にあったように、現代美術館で最初に85年から95年までの総括的なことをやった。今は、たとえばオランダの展覧会に向こうに留学している日本人学生が含まれているという情勢があって、なおかつ日本発というか、東京発の若い作家たちを展覧会として現代美術館が打ち出そうとしている。それはたとえばオルタナティヴなかたち、方法を、美術館が模索しているとか、今模索したいということはあるのでしょうか。
川俣さんのお話にしても、作家を呼んで、ディレクションに従って作家にやってもらうという感じではなくて、川俣さんのほうから、こういうことで回りのこういう人たちとこういうことをやりたい、と持ちかけられたというふうに伺っています。そういう作家がオルタナティヴのほうに思考を進めていくとした時に、美術館として、もしできることがあるとすれば、それはどういうことかと考えるのです。大きな美術館で、立派な美術館で、バックアップなりフォローなり、ちょっと夢想的というか現実味のない話で恐縮ですが、何かお考えがあれば聞かせてもらいたいのです。

[南]…確かに、私の勤めている東京都現代美術館というのは、大きな美術館で箱としても大きいですね。私が考えるのは、美術館にはそれぞれ位置づけというか機能のようなものはあるだろうと。結局一つの美術館で東京とか日本の美術の状況を背負うことはできないわけで、役割を分担するべきだと思うのです。
大きな美術館では規模が大きいということがあり、展示室が大きいということがあるので、それがないと成立しない展覧会やプロジェクトなどを引き受けていくべきではないかという気持ちはあるのです。

[林]…せっかくのスペースを上手に生かせるような方向性を分担していきたいというか、そういうことですね。

[南]…そうですね。それが権威主義的になってしまうと一番つまらないので、そうならないように空間を生かして何かできないかという思いがあって、去年のアニュアルの1回目に「ひそやかなラディカリズム」展というのをやったのです。企画意図の中には、大きな空間の中で小さな作品を成立させるという面白さも、一つにはありました。多分あの空間でやったから面白い効果が出たのだと思います。

[川俣]…別に批判するわけではないのですが、東京都現代美術館の成立そのものは、まさに僕はバブルだと思うのです。あの巨大なスペースがある建物というのは、まさにバブルですよね。バブルによってああいう形ができてきて、それが今でも残っているという残り方の問題だと思うのです。それはスペースの問題も含めてですが、あの残り方はまだどこかでバブルを引きずっている感じがして、いろいろなアイデアで、美術館が変わらざるを得ないところがあると思います。多分それは作品も変わるのだろうと思うし、あるいは作品が変わることによって美術館の機能も変わってくるのだろうと思うのです。
「プライマル・スピリット」展でロサンゼルスの美術館に行った時、結婚式を美術館の中でやっていた。美術館自体の機能として、そういうこともパブリック・リレーションとして行なっている。今はいろいろな意味で美術館は、わりと柔らかいアイデアというか、もうちょっと違う部分が出てきていいわけだし、それがどこかで80年代、90年代の結果としてあるのではないかと思う。

[林]…美術館の乱立状況というのはお話にも出たように、確かにあったわけです。僕はむしろ川俣さんがおっしゃるようなバブルを引きずっている、その引きずり部分をうまく生かして、美術館というのが成立する方法があるような、希望的な観測があるのです。美術館がたくさんできた原因というか動機はともかく、曲がりなりにもたくさんできて箱が余っているという状況は、つまらない展覧会で企画を埋めているということがあるにしろ、なんとなく僕はいい状況ではないかと思うのです。足りないよりも箱が余り気味になっていて、何をやるのか皆が困っているという状況のほうが面白いような気がします。
それは南さんがさっきおっしゃった「ひそやかなラディカリズム」展のように、でかい箱でああいうことをやってしまうということも含めて、美術館の空間の成熟の面がなんとなく理解できた印象があります。ハードの面では整備されて、成熟の芽は蒔かれたが、美術館に来てくださる人たちがなかなか追いついてこないという状況がおそらくあるのだろうと思うのです。作家なり美術を取り巻く状況はわりと成熟してしまった、にもかかわらずそれ以外の状況のほうがあまり成熟してこない。それは美術のフィールドの中の問題でもあると思います。
自分の言いたいことを少しだけ言ったところで、松本さんにお伺いしたいのは、今は国立近代美術館がリニューアルに向けて休館中ですが、現代美術館とはまた違った役割が国立近代美術館にもあると思うのです。もう一つは、高島さんは非常に美術館のある場所とか美術館建築とか、とくに80年代から90年代にかけての美術館ブームという状況も、かなり地理的に考察なさっていると思うのです。どんな美術館がどういうふうに増えて、できていったという状況、それが作品へのアプローチに対して与える影響というか、ちょっと抽象的な言い方ですが、美術館が増えたことによって変化が起こり得るのか、あるいは起こっているのか、その辺りを80年代、90年代辺りの特徴的な事柄としてお話いただければと思います。
まず松本さんに近代美術館の学芸員としてのお話を伺いたいと思います。

[松本]…東京都現代美術館にはアニュアルの現代美術展があって、しかもこれはテーマ展ですよね。その1回目、さっきから話題になっている「ひそやかなラディカリズム」展というのは、それをキュレートした人の日頃の関心が良いかたちで出た展覧会だと記憶しています。私の勤める東京国立近代美術館は「現代美術への視点」という展覧会を持っています。1984年に第1回の「メタファーとシンボル」展を開いて、これまでに不定期で4回開催しましたが、毎年できるかどうかは別として、定期的にやったほうがいいと思う。その点では東京都現代美術館に見習ったほうがいいと思っています。
同じ東京で、場所もそう遠くないところに二つ、現代美術館と近代美術館という名のもとに現代美術とも関わる美術館がある。それぞれの位置づけのようなことが緩やかであれできるとよいのですか、実際には難しいでしょうね。

[林]…松本さんがお考えになっている未来像というか、どういうかたちで美術館を演出なりしていくことが今後できるでしょうか。もちろん現実には難しいかもしれませんが、川俣さんのような作品のアプローチが出てくる時に、美術館の役割も変わらざるを得ない。個人的なお考えで結構ですが、その場合のその美術館というのがどういうふうな有り様があるのかということです。
さっき僕がお話したことの繰り返しになるのですが、閉館してしまったものもありますが、作った美術館はまだたくさん残っているわけですね。そういう状況をうまく利用できないのかということを今思いました。バブルのあとを引きずっている分だけ美術館にとってのアドヴァンテージは何か、現代美術館のようなところは、でかい箱を持ってしまったということをデメリットとして懲りて捉えるのか、そういうアプローチのような仕方を美術館の役割として、どういうことがあるのかということを、個人的なお考えで結構ですのでいかがですか。

[松本]…幸いに現代美術への関心が高い学芸員が当館にも他の美術館にもかなりいるのです。これまで以上に展覧会や作品購入の比重を-お金の問題は学芸員が頑張っても無理な面もあるのですが-増やしたい。それともう一つは、川俣さんが代表選手であるように、今までのような展覧会場の壁に絵を掛けるだけで、あるいは床に彫刻を置くだけでは済まない作家が増える方向でしょうから、これはその都度、作家との話し合いで進めていくはかない。それ以上に言っても空論になるので、本当に作家から投げかけられるものを生かして、より柔軟性のある制度というか、骨組みにしたい、これが抱負ですね。
それから都の現代美術館や東京国立近代美術館のほかにも現代美術に関心のあるキュレーターや美術館は存在するわけですから、こちらの考え方も柔軟にして、各館の独立性を前提にした連携もあり得るのではないかと思っています。

[林]…もう一つ伺いたいのは、たとえばそういう美術館側が積極的にアプローチして変化を求めたとして、果してそれに対応できる作家はどれくらいいるのかという問題を同時に危惧してしまうのです。美術館を自由に使えばいいと言っているわけではなくて、キュレーターの意識を吸収してくれる作家が果たしているのかどうか。余った箱をどうするのかという時に、この作家でやっていきたいということかあるのかどうかです。

[松本]…それは相互の問題だと思います。つまり川俣さんのような作家の側からやりたいことをどんどん言っていただく。美術館の外へ打って出ていくタイプの作家、あるいは美術館の内と外の境界壁をどんどん押し広げていく仕事を得意とする、そういうタイプの想像力を持っている作家がいれば、彼らから美術館への持ちかけが、こちら側を伸ばすことになるし、逆に美術館員の側にもそういう方向の欲望とか想像力を持った大もいるのです。希望はあるでしょう。

[林]…ありがとうございました。高島さんにさきほどの質問を繰り返しますが、美術館がたくさんできていて、しかも最近では上野にできた法隆寺の宝物館、ああいうかたちでの建築家からの美術館へのアプローチというのがいろいろあると思うのですが、そういうふうに建築家がかなり大々的に美術館に介入していく時代にあって、その中で作家なりアーティストなりがやっていくあり方というものまで含めて、お話をいただきたいです。

[高島]…法隆寺宝物館の場合は「お宝モノ」ですね。ですから現代美術作品展ではなくてパーマネント物です。現代美術の作品を構成する美術館については、たとえば木場の現代美術館は天井が高くていいということがある程度あったり、竹橋の国立近美はまた引きがないとか、いろいろ言えます。学芸員がどういう作家を選んで、どこにやってもらってというキュレーションの問題に深く関わる問題なので、箱だけ一般的にどうのとはなかなか言いにくいです。

[林]…それも含めてお願いします。

[高島]…たまたま千葉市立美術館に行ったのですが、あの内部に、囲われたソファーがある休む場所が何箇所かあるのです。そこは閉じられた空間で作品は見られないのです。不思議なんです。デッドスペースといって、これは建築家としてはやってはいけないことです。ただあそこは、市役所のビルの中にあって、美術館建築ではないけれど。要するに、キュレーションの企画の姿勢に関わるということが第一です。その作品と、その美術館が生きるか死ぬかというのはね。あとは、建物としてどうなのかということをたとえば谷口吉生さんの豊田市美術館でやった川俣さんに聞いたほうがいいでしょう。作家の目のようなものでですね。

[林]…豊田市美術館には、僕はまだ実際に行ったことはないのですが、写真などで見る限りは非常にかちっとした美術館という印象があるのです。これを川俣さんがどうお考えになったのかということをお伺いしましょう。

[川俣]…別に美術館に興味があったということではなく、綺麗な美術館ですし光もすごく綺麗ですが、別に光が綺麗でスペースも綺麗だからといって、何かやる気が起きるのかということとは全然違うんですね。美術館というのは、一つの特定の空間のことではないと思います。インフォメーションセンターであったり、展示される場であったり、人がどこかで集まる場所であったりとか、そういうことがある意味で概念として美術館になっているのかもしれない。僕にとってはそれくらいでしかないのです。
今回の豊田のプロジュクトは、豊田市美術館が企画して美術館を受け皿としてやるのですが、ある意味で市内の点々としたところに作品を設置することなんです。美術館という一つの制度的なものを切り口にして、豊田の街の中で展開していきたいというか、また一つの美術館というポピュラリティを逆に利用することによって、ある意味では公の場所で最大限やることが可能になってくる。だから場所でもないし、キュレーションでもなく、一つの行政的な点としてそれを活用していく。豊田の場合はそういう意識で見ています。
また、新潟の妻有でやっているトリエンナーレにも参加していますが、あれもまさにその意味で言えば、新潟の妻有地区全体が美術館といえば美術館なわけです。100人くらい住んでいる集落なんかでも作品を設置している。
一つのアイデアというか、コンセプトというか、そういうことでしか僕は美術館というのは語れないのではないかと思います。

[林]…一つのコンセプトというのは?

[川俣]…たまたまこの間、見に行ったオランダの美術館で改装工事をしていて美術館に入れない。その美術館の隣に塔がありまして、塔の上に登れと言われて塔の上に登って、塔の上から美術館の屋根を見おろすと、作品が展示してある。それが美術館の企画であったりするのですが、美術館のスペースを使うということであれば、まさにそういうことではないかと思うのです。美術館のまったく違った機能もあるのではないかと思いますね。ポジティヴに言えばね。

[林]…ネガティヴに言うと何もないということですかね。

[川俣]…いや、だから個々の作家にとっては、美術館は美術館でしかないと思う。

[林]…お話は尻切れとんぼで申し訳ないですが、残り時間も少なくなってきたので、ここで打ち切って会場の皆さんから質問をいただきたいと思います。質問のある方はご遠慮なく手を挙げていただきたいと思います。今出なかった話でも結構です。

[会場1]…さきほど松本さんは、80年代はモダニズムをどれだけ批判的に追求しているか、そういう視点で作家を見ていたとおっしゃいましたね。90年代に入って、そういう視点に自信が持てなくなったと。それでは今は、どういう見方をされているのか、またこれからどういう見方になろうとしているのか、松本さんを中心にほかの方々にお聞きしたいです。

[松本]…現代美術の展覧会の企画の場合、一方的な評価基準や方針を立てて進めるというわけにはなかなかいかないのです。作家一人ひとりに言い分がありますし、現代は多様ですから。ただ80年代においては、モダニズムやモダンという時代のいろいろな価値観をいかに批判的に吟味しているかという視点で見ると、その作家の良い面も悪い面も、わりと公平に把握される。モダニズムへのスタンスということが作品のクオリティを左右するようなかたちで、ひょっとしたら働いていたのではないかと思うのです。だから、半ば過ぎ去りつつある近代という時代に対する距離、あるいは身の処し方とか立場に注意していたような気がします。
つまり80年代というのは、自分の時代は何かという意識や問いかけか、引け目なども含めてすごく強い時代であったけれども、自分の時代とのこの緊張関係が、90年代以降のある時期から壊れていったのではないか。いわば時代的な緊張がばらけて、それが空間的に拡散してしまったような感じなのです。だから、その空間性をある時はグローバリゼーションという言い方をするし、男女の性差であったり、人種の違いであったり、階級の差別であったり、さまざまな差異の関係性へと時代の張力が分解した時代だと思っています。
となると、当然ながら90年代以降に活動を始めた比政的若い作家の作品を見る場合でも、近代とその後とか、そういう単一的な基準だけで見るわけにはいかない。
では具体的にどういう評価基準があるのかということになると、冒頭に言たように、貝体的にこれというかたちでは取り出しにくいのです。実際に作家や作品を選んでいく中で、提示することはできるでしょうが、一般的な基準とかルールというかたちでは定立しにくいのです。

[林]…南さんはいかがでしょうか。さきほどは名前がすでに確立した方とおっしゃいましたが、僕が拝見する限りではその中でも非常にアクの強い人をやっているように見受けられるのです。同じような仕事をやっている人で、もっとアクの少なくて、なおかつすぐに巨匠という名前をつけていくことができてしまう作家がいくらでもいる中で、いろいろな事情がおありでしょうが、中西夏之さんとかあるいは河原温さんもおやりになって、しかもその後に、「ひそやかなラディカリズム」展で若い作家をああいうかたちですくい上げていらっしゃる。
その時に、たとえば時代認識というのも変ですが、とくにその場合ははっきり言ってしまえば、モダンなものとの関わり方というのは、南さんの場合にはいかがでしょうか。

[南]…95年から99年まで、展覧会の仕事と並行して常設展示をずっとやっていて、最初は歴史的な展示をするという意識、歴史を再現していくということをするのだという意識が非常に強かったのです。まず40年代50年代があって、次に60年代があって、60年代だとポップとミニマルだ、70年代だとコンセプチュアルだ、80年代だとニュー・ペインティングがありインスタレーションあり、それで90年代がありという展開を時代順に見せようという、自分で課題づけをするというか、そういう意識が非常に強かったのです。
しかしそういうふうにやっていて、作品が揃わないということもあったのですが、これは何か違うのではないかというか、作品が見えてこないということに気がついた。とくにポップとミニマルというのはスタイル的には結構明確ですが、それ以降というのは、スタイルを示そうとしてもうまく見えてこないというか、作品が見えてこなくて、死んでしまうというのがあった。それと、中西夏之と河原温についてですが、この二人の作家は、打ち合わせを密接にしょっちゅうしないといけない。付き合いの時間が長くなってしまう。すると一般的な歴史的な見方のようなもので個々の作家を位置づけるのは難しい部分が多いということに気づいて、歴史的な観点で眺めて位置づけていくというのは、ちょっと美術に対してフェアな態度ではないのではないかという思いを持つようになりました。アニュアル展を企画する時も、その時代の傾向というのを切ったり、総括していくという意識ではなくて、今在るものを見せていくというか、そういう思いが強かったです。

[林]…もしモダンとポストモダンという問題があり、それが何か一つの成熟をもたらすとすれば、こういう態度なのかなというふうに思います。単線的な歴史はもう成り立たないと声高に喋ることよりも、実際に一つの切り口をちゃんと見せるというのが一つの成熟した態度ではないかと思います。常設展でも新しい作品を借りてくるという話を伺って、そういうやり方もあるのだなというふうに感じました。ありがとうございました。

[会場2]…川俣さんにお尋ねします。画廊とか美術館以外の公共の場所で自分の作品を設置して成り立たせる時に、たとえば本当に美術館とか画廊を一歩出れば、道とか普通の建造物とかになりますよね。私は、市町村などの自治体が管理する建物の壁を借りようとしたのです。自治体に一応は交渉したのですが、全然うまくいかなくて、それでも作品を設置して、写真では撮ったのです。そういう作品を成り立たせる時に、どこまで自冶体との折り合いというか、そういうことを努力してやればいいのか。もし折り合いがつかなければ、その場所では作品を成立させることができないのでしょうか。その辺りをお聞かせいただけますか。

[川俣]…まあ、いろいろな作家がいますから一概には言えないですが、僕個人としてはこう思うんです。自分でプランして考えて、その60パーセントできればいいくらいのものです。全部を是が非でもそこでやらなければならない、完成させなければならないという意識は持たないのです。
最初から諦めています。そうしないと、疲労感というか徒労感というか、それしか残らない。僕自身は、是が非でもそこで成立させなければならないということじゃない。時間をかけて、場所を取って、いろいろネゴシエートして、政治家に手を回してやっていくパワーというか、自我を張っていく意識は僕の中にはないです。だから、撤去しろと言われれば、素直に撤去します。よくあるんですよ、こういう話じゃなかったとか。そういう時は撤去する時もあります。いろんな場合があると思います。僕は単純に自分が考えたことをそこでできなくても、どうしてもここでやるということに向かって進む、何年もかけてやる、みたいな意識はないです。
僕は、アートというのは、ある意味で犯罪だと思うんですね、犯罪にならない犯罪というか。でも日本の場合、ごめんなさいと言って謝れば済むところがあるのだけれど、他の国じゃそれでは済まないこともあります。それを見極めるのもやはり作家の一つの視線ですね。話がうまい作家もいれば、交渉下手な人もいる。やっぱりパブリックな場所というのは、自分が考えていることを100パーセントできるところじゃないし、できるものだと考えないほうがいい、というのが僕の個人的な意見です。

[林]…もう1人くらい大丈夫ですか?では、どうぞ。

[会場3]…川俣さんの作品をずっと見てきましたが、川俣さんは自分がやりたいことをやると明言なさっています。ですから別に美術を根づかせようと思ってはいらっしゃらないんですよね。ですけれど結果的に川俣さんの仕事というのは、何か公共的な要素があって、その辺の部分を、ご本人がどのように思っていらっしゃるのか質問したいと思います。今日のシンポジウムで抜け落ちていることじゃないでしょうか。
それは、今月の『美術手帖』(2000年8月号)で、中ザワヒデキさんがレポートしている、中村政人さんや村上隆さんがやった、街に出て行く流れというのが今日のお話になかったことで、中村さんが作った「コマンドN」とか、「NPO」みたいなかたちでやろうとしているのが90年代終わりに出てきましたよね。川俣さんの仕事を拝見していると、必ず公共という意識があるようですが、川俣さんご自身は、ご自分から見て公共ということについて、いかなるお考えをお持ちかお聞かせください。

[川俣]…確かに80年代、90年代の話の中で、あまりにもバブルのほうに話が行きすぎましたが、たとえば80年代の中頃からアーティストが、たとえばブティックとかディスコとか、そういうところのインテリアとかに関わっていって、ある意味で社会性という、美術館から出て行くという方向が一つの動きとしてあったと思う。街に出ていくという方向も確かにあったと思う。そういうことは、80年代の終わりから90年代にかけて、たとえばいわゆるパブリックアートなどと言われているところにも繋がっていくと思う。
ただ僕個人は、意識的にパブリックアートとは何かとか、そういうタイトルをもって何かをしていくということではなくて、基本的に80年代に仕事を始めた時から、たまたまそういうふうな動き方になってしまったので、たとえば交渉したり、あるいは場所を借りたり、共同作業をしてみたりというのは、結局そこから始まったところがあって、一つのリアクションとして、そういうふうになってきたわけでは全然ないです。大きなものを作りたいと思った時に、自分一人ではできないから、人が手伝ってくれたり、あるいは大きなものを作るのに画廊の中だけでは済まないので外に出始めた時に、社会性を考えざるを得なかった。
よくあるように、パブリックアートのためのパブリックアートとか、あるいは公共的なものとか、あるいは町興しとか、いろいろな言い方はありますが、それを逆に意識してはまずいと思う。結果的なものとしてそれがあっていいと思うが、それを言っては駄目というか、どこかでそれを謳い文句にして何かを作るというのは違うのではないか。
ある意味では、今の時代はどこかでそういう意味でのひねりを入れない限り、ストレートでは一つのメッセージは伝えにくい。さあ皆さん集まってくださいと言って集まった人たちに、「お前馬鹿だな」と言ってしまうというか、そういうところがあると思うのです。だから皆のために何かしようと言って皆が皆のためにやるのはそれは違うだろうと感じます。今の町興し、あるいは地域興しのようなものに対して、アートというものが一つの力を持ち得ている、持ち得るはずだという意識の中に、すごく誤解があると思う。そう言いながら、たとえば妻有であったり豊田のプロジェクトであったり、どうしても地域と関係せざるを得ないようなプロジェクトをやっているのですが……。
答えになっているかどうかわかりませんが、人助けではなく、やはり自分は自分の中でやりたいことをやっているだけの話で、その中で人がどこかで何かを見ればいいわけで、それがある意味でアートの醍醐味だと僕は思っている。アートというのは決して社会活動ではない。結果的にそれがどこかで繋がってくればいいと思うのですが、あえてそういうことを考えてしまうと全然違うものになってしまうと思います。アートは宗教ではないのと同じ意味で、アートは社会活動ではないというふうに言わないといけないと思うのです。

[林]…ありがとうございました。では時間も迫ってまいりましたので質問を終わります。今日はご質問の中にもありましたが漏れたものもたくさんございます。中でも私個人としては、モダンとそれに伴っている言葉の意味を含めた周辺の話も伺いたかったです。
パネリストの皆さん長い時間ありがとうございました。ご来場の皆様もありがとうございました。

 

●パネリスト・プロフィール
●川俣正(かわまた・ただし)
1953年北海道生まれ。東京芸術大学大学院博士課程修了。同大学先端芸術表現科教授。
1977年より発表活動を始め、1983年ジュネーウ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、1984年デュッセルドルフ、1987年ドクメンタ8と、海外での出品が注目される。越後妻有アート・トリエンナーレ(1999年~)、ワーク・イン・プログレス豊田2000、エヴリュー(フランス、2000年)、ミドルハイム・オープンエア・ミュージアム(べルギー、2000年)、ロッジング東京2001など、プロジェクト多数。

●南雄介(みなみ・ゆうすけ)
1959年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修士過程修了。東京都現代美術館学芸員。
手がけた展覧会に「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」(1997年)、「河原温 全体と部分 1964-1995」(1998年)、「MOTアニュアル1999:ひそやかなラディカリズム」(1999年)、「シュポール/シュルファスの時代」(2000年)など、

 

●ギャラリーαMキュレーター
●高島直之(たかしま・なおゆき)
1931年仙台市生まれ。武蔵野美術短期大学デザイン科商業デザイン専攻卒業。美術評論家
1970年代半ばより出版編集に携わり、1980年代半ばより美術評論を始める。1994~1996年、ギャラリーαMキュレーター。最近の論文に「戦争のエポック/芸術のメルクマール」(『Inter Communication』32号、2000年)、「よみがえったル・コルビュジュ 国立西洋美術館の改装をめぐって」(月刊『東京人』1999年10月号)。著書に『中井正一とその時代』(青弓社、2000年)。

●松本透(まつもと・とおる)
1955年東京都生まれ。京都大学大学院修士課程修了。東京国立近代美術館美術課長。
主な論文に「カンディンスキーの芸術理論における絵画の形式と内容の問題」(『芸術の理論と歴史』思文閣出版、1990年)。翻訳に、S・リングポム著「カンディンスキー-抽象絵画と神秘思想」平凡社、1995年)など。手がけた展覧会に「カンディンスキー」展(1987年)、「現代美術への視点-色彩とモノクローム」展(1989年)、「村岡三郎」展(1997年)など。

●林卓行(はやし・たかゆき)
1969年東京都生まれ。東京芸術大学大学院後期博士過程満期退学。美術評論家、玉川大学専任講師。
論文に「同一性のかたち-ドナルド・ジャットの芸術について」(『美学』180号、1994年)、「描くことの半透性:ゲルハルト・リヒターをめぐって」(『カリスタ』第4号、東京芸術大字美学研究室編、1997年)など。

(※略歴は2000年当時)

2000年10月6日 於:武蔵野公会堂 パープルホール


●パネリスト
東浩紀
林道郎
松浦寿夫

●司会
高島直之

[高島]…ここ吉祥寺にある、武蔵野美術大学運営の画廊「ギャラリーαM」が88年に開廊し、今年の6月に企画展第100回目を迎えまして、それを記念するシンポジウムを企画させていただきました。「20世紀美術と現在」というタイトルは、問題としては広いというか深いというか多面的だと思うのですが、本年、20世紀最後の年であることを鑑みまして、今日、ここにいらっしゃるお三方に論じていただけないかということになりました。
それでは、パネリストを紹介させていただきます。チラシに簡単な略歴が付されておりますので、そちらもご参照いただければと思います。まず東浩紀さんです。2年前に『存在論的、郵便的』という本を出され、そのあと、批評的なエッセイ集と言っていいと思いますが、『郵便的不安たち』という本を出されておられます。また近々、対談集を出されるということであります。
そして林道郎さんです。『美術手帖』誌で96年の前半期に「美術史を読む」という研究を共同執筆というかたちで、ノーマン・プライソン、ロザリンド・クラウス、T.J.クラーク、マイケル・フリード、イヴ=アラン・ボア、グリゼルダ・ポロックなど、現代において無視できない美術史家の論説を交通整理されて、非常にわかりやすいかたちで執筆されていた記憶があります。翻訳では、E.ディ・アントニオとM.タックマンという二人の著書『現代美術は語るNY1940-1970』があります。ニューヨークの40年代から70年までの抽象表現主義ないしはニューヨークのネオ・ダダ近辺の作家たちのドキュメントと言っていいと思いますが、その本を訳されています。3年前に青土社から出版されました。
最後に松浦寿夫さんです。今日のタイトルと重なるような本としては、『モデルニテ3×3』という小林康夫さんと松浦寿輝さんとの鼎談集が2年前に思潮社から出ておりますので、本日、もうちょっと聞いてみたいという部分があった場合、この本が押さえになるのではないかと思います。最近では岩波の『宗教への問い』第2巻で「同時遍在性の魔」という刺激的な論文を書かれています。今日の話と直に重なるような論文だと思いますので、これも指摘させていただきたいと思います。
それでは、早速始めていきたいと思います。
先ほども言いましたように、僕らは言葉で20世紀とか20世紀美術、20世紀モダンと括ってしまいますが、非常にたくさんの入り口から論じるべきものがあるわけです。限られた時間で骨格が全部出てくるとは思えないのですが、私がお三方に大枠の見取図のようなものを伝えてありますので、まずその点をお話ししていきたいと思います。20世紀モダンの特徴としては、19世紀まで連綿と繋がってきた社会階級、つまり特定された階層文化があって、その中で互いにまじり合わないで、それぞれの階層が文化を作ってきたわけですが、そういったものが今世紀に解体される。また、特定の宗教ならびに地域、民族など、それぞれ固有の価値観で芸術が出てきたと思うんですが、そういったものも今世紀の大衆社会の広がりによって転換を余儀なくされてきたということだと思います。その場合、19世紀まで繋がってきた古典的な日常の生活の流れを一度切断するかたちで、新たな次元で芸術と日常を切り結んでいこうという流れが急激に出てきたというふうに見ていいと思います。それは1900年の表現主義、フォーヴィズム、立体派、未来派といった運動の中に一つの出発点があり、10年代、20年代には抽象画やダダイズムも出てきますし、シュルレアリスムも出てきた。そういう一つの芸術と日常の新たな関係の回復というものが目されていったのではないか。もう一つはテクノロジーの問題です。フォードが(フォーディズムという、のちに自動車の移動組み立て方式に象徴される)同社の支配権を握ったのが1907年で、同じ1907年が立体派の起点になっています。ドイツ工作連盟というのが創設されたのも1907年で、この年は一つのメルクマールになると思います。テクノロジーというのは日常の中に染み込んだかたちで密接に絡んでくるわけですが、資本主義の持っている技術の平準化というか民主化というか、そういう大きな流れとして無視できないのではないか。
フォードというとクルマのイメージがありますが、ジャクソン・ポロックがデュコという自動車用の速乾性塗料を使ったということもテクニカルな一つの変革だと考えられますし、筆とかペンとかロットリングのようなものも含めると、これも技術革新の一つの成果です。アクリル絵具なんていうのもテクノロジーの賜物だと考えていけば、美術のレヴェルに引きつけたかたちで話が出てくるのではないかと思います。
今世紀は純粋芸術と複製芸術というものが対抗的な原理としてずっと作動してきた。その辺がベンヤミンの大きな作業の到達点だと思います。テクノロジーがずっと進展したかたちで広がってきているこの時代において、純粋芸術(ファインアート)と複製芸術との境界をどのように考えていくか。この辺は東さんにお話ししていただけると思いますが、そういう二項対立すらも、現在、どのような見通しができるのか。なかなか見えにくい状況だと思うので、テクノロジーの問題、芸術と日常の新しい関係の回復、純粋芸術と複製芸術の問題といったことを、お三方に、一つの見取図にすぎませんが、お話をしていただけないかということでご出席いただいたわけです。
ゴッホは1890年に亡くなっていますが、セザンヌが亡くなったのが1906年、ゴーギャンが亡くなったのが1903年ということで、1900年ぐらいを考えますと--印象派の最後ではありますが--後期印象派が直面したような問題が20世紀に送り込まれていて、無視できないものだと私は思っています。形象と非形象、フォルムとアンフォルムという問題も後期印象派の問題設定の中からいろいろと取り出せるのではないでしょうか。
まず最初に松浦さんから、今申し上げた範囲の中で発言していただければと思います。

[松浦]…高島さんが提示された枠組みはとても大きな枠組みなので、このご提案に対してうまくお答えできるかどうかわかりませんが、まず、とりあえずとても小さな窓口から話を始めたいと思います。ただ、その話を始める前に、高島さんが印象派のことをおっしゃったので、一言だけ指摘しておきますと、流派としての、あるいは様式概念としての印象派は多くの場合、1870年代と結びつけて語られるのですが、印象主義の問題は決してその時点で終わったのではなくて、本当の意味で印象主義の問題が絵画史において明らかに露出してくるのはむしろ20世紀になってからだと僕は考えています。20世紀の絵画の多くにとって印象主義の問題をどのように対処するかということは極めて大きな課題だったので、印象主義の問題は、現在の問題であるという点だけ付け加えておきます。
最初に高島さんから印象派について話せと言われたのですか、ここではタッチというか筆触ということについて、つまり、セザンヌ、抽象表現主義、ロイ・リキテンシュタインのタッチについて話を始めたいと思います。何度かほかのところでも話したことがあるので少し気が引けるのですが、林さんはセザンヌの専門家ですし、東さんはご著書の『郵便的不安たち』の中に収められたテクストでリキテンシュタインという画家について触れておられますので、今回の討議のちょうどいい話題の一つになり得るのではないかと思ってお話しします。
まず最初に、ある一つの逸話を取り上げます。皆さんもよくご存じのルノワールという画家がセザンヌの絵について述べた有名な言葉があります。それは何かというと、「たった一つか二つのタッチしかなくても、それがセザンヌの絵であるということがわかる。かつ、たった一つか二つしかタッチがなくてもそれは極めて美しいものである」と言っている一節です。考えてみると、この発話が挿入される時代の文脈は、画廊というか、美術の新しいディーラー・システムが確立する時代ですが、タッチが、ある作家の弁別特性、つまり他の作家と区別する、芸術的であると同時に商業的な特性のマークになり得るということを明らかに示している命題だと思います。
それと同時に、美学的な一つの選択として、その当時了解されていた意味での完成という概念に逆らって、画面の上に一つか二つしかタッチがなくても、それは十分に絵画作品であり得る、しかも美しい作品であり得るという芸術作品の新しい存在論的、美学的な次元を提示していると思います。
ところで、ルノワールの一節を支えている論理は、タッチが一つか二つしかなくても美しい作品であり得るということですけれど、そこからもう一つ別の飛躍というか別の断絶の可能性があり得て、タッチが一つないし二つしかないからこそ美しいという飛躍もあり得るわけです。そこでわれわれが直面するのが、たとえば、抽象表現主義に見られるタッチだと思います。抽象表現主義のタッチを説明する文脈では、すでにさまざまな言説が組織されています。その中で、タッチを無意識と結びつけたり、自然発生的な衝動と結びつけたり、そういった説明原理に立脚したいくつもの言説が存在するのですが、ともあれタッチが一つないし二つしかないからこそ美しいという、ある意味では逆説的なこの命題は、ある一つの特殊な還元の様態を示していると思います。
これらに対してさらにもう一つ別のタッチについて、今日は触れたいと思いますが、それはロイ・リキテンシュタインのタッチです。ロイ・リキテンシュタインはポップ・アートの作家と見なされていますが、本日の話の文脈ではとりわけ1970年代の彼の作品に非常に興味深い点があります。それは「ブラッシュ・ストローク」と題された一連の作品です。どういう文脈でこのような作品が生まれてきたかという点をごく簡単にまとめておきます。リキテンシュタインはコミックブックやコマーシャルの画像を反復する作品で有名ですが、ある時期から彼は西欧近代絵画の名作ないし有名な画家たちの作品を引用する、あるいは反復する作業を開始します。ギリシアの神殿列柱像なども反復していますから、美術史に対する目録のとり方が非常に幅広いと言えます。このような作業を通して彼は、他者の絵画を反復するに際して、どのような徴がその画家の特性を担い得るのか、何が作品をある芸術家の芸術作品と認定させるのかといった考察と分析から、そのようなマークの存在に興味を示し始めます。
その文脈で、抽象表現主義の作品を成り立たせているマークは何かと考えた時、そこに彼はブラッシュ・ストロークを見出したとも言えるでしょう。ブラッシュ・ストロークを見出したことはリキテンシュタインにとっても一つの決定的な断絶というか飛躍を可能にする局面だったと思います。一つには、多くの場合自然発生的あるいは無意識の欲望の発露と考えられがちな筆触による表記そのものが、もしかしたらそれに潜在するあるマークないし痕跡によって駆動されているのかもしれないということを明らかにした点です。つまり、よく言われるように筆触が何ものかの痕跡になるというのではなく、筆触に潜在するものこそが痕跡であるということです。もう一つの点は、他者の絵画の反復に際して、それまでリキテンシュタインは画面の構図、当の画家によって選択された画像的な主題といった次元にこのマークを見出してきたのですが、このブラッシュ・ストロークの連作で、絵画面への表記作用そのものを反復するという局面を迎えたと言えます。さらに、これは東さんが本でお書きになっていることでもありますが、リキテンシュタインはある段階から、今述べた論理の展開として複製したブラッシュ・ストロークと生のブラッシュ・ストロークという二つのブラッシュ・ストロークを並置する、ないし混在させるような画面を作るに至っています。
以上、三つのタッチの水準というか返還について、ごく単純化してお話ししましたが、いくつかタッチについて付け加えておきたいと思います。先ほど「芸術と日常との新たな関係の回復」というテーマを高島さんがおっしゃったのですが、個々の画家にとって「芸術と日常との関係の回復」という主題が仮にあり得るとしても、それは多くの場合、画面とどういうかたちで接触するかという場面で大きく露呈してくると思います。そこに筆触の政治の場が開かれています。そこで、今一つの点として筆触を巡る議論がしばしば政治的な語彙とともに語られてきたという歴史も指摘しておきたいと思います。「タッチが画面の上で自らの個別性あるいは平等性を主張し始めると、画面はたちまち無政府主義的な状態に陥る」という一節がボードレールのテクストの中にあります。ともあれ、タッチという一つの小さな窓口も芸術と日常、あるいは芸術と政治等々が接する場に存在しているのではないかと思います。

[高島]…筆触の問題は、印象派を起点として、芸術と日常との関係の回復が、画面と筆が接触する場として登場した、ということをおっしゃっていただいたと思います。
次に、この話と繋げていただいても結構ですし、林さんの考えるモダンアートの入り口みたいなお話をしていただければと思います。

[林]…モダンの入り口ということで、一応僕なりの入り口を準備してはきたのですが、今の松浦さんの話がとても興味深いので、それを発展させるようなかたちで話をしたいと思います。
タッチについて、セザンヌ、抽象表現主義、リキテンシュタインという三つの問題を出されたのですが、その中でマークという言葉を持ち出されました。美術作品が商品として流通するようになった、それも自由な市場で出回るようになったのは17世紀以降ですが、松浦さんが言われるように、路面店舗を構えた個人画廊というシステムは確かに19世紀未あるいは20世紀の頭ぐらいから一般的なかたちで機能するようになるわけです。その中でマークというものが個人あるいは作家性の記号として流通するようになるというお話で、まさにトレードマーク--登録商標--なんですね。その問題はしかし、一筋縄ではいかなくて、ルノワールがセザンヌのタッチは一つ見て美しい、二つ見て美しいと言ったことは確かだし、一つ見ただけでセザンヌとわかると言ったというのも確かなんですが、セザンヌ本人の側から言うと、タッチに阻害されているところがあるんですね。1870年代の後半ぐらいに構築的ストロークの時代というのがセザンヌにあって、「コンストテクティヴ・ストローク」と英語で言われますが、その時代のセザンヌの画面は、一定のレギュラーな(構築的な)タッチで画面全体が覆いつくされているわけです。その時にセザンヌに何が起こっているのかということに僕はとても興味があるんですが、彼は印象派のシーンにあとから遅れて登場する。そしてピサロあたりから、まさにタッチを既製の技法として学んでいくんです。つまり、印象派の技法そのものがセザンヌにとってはレディ・メイドだったという状況で描き始める。

[松浦]…構築的ストロークというのはおっしゃるとおりだと思います。画面全体を一様なストロークで覆ったもっとも古い作品の一つに「スール池」(1875-77)というのがあって、その時はナイフを組織的に使っていますよね。林さんがおっしゃったようにレディ・メイドとしてタッチというものを受け入れざるを得なかった時に、筆ではなくてナイフを使わざるを得なかったという点は僕はとても興味深いところです。

[林]…それはまさにそのとおりで、コンストラクティヴ・ストロークを見ても、ナイフのように斜めに切り込むような感じのストロークをずっと重ねて覆いつくすんです。とてもナーバスな感じで。ロジャー・フライがあの風景画を見て、ほんとに神経的に震えている、テンションが高まって壊れそうだ、という感じのことを言うんですけど、それほどタッチというものを巡って複数の主体がテリトリーを覆い合っているというか奪い合っているという感じがあるんですね。つまり、あの構築的ストロークは、画面を構築するユニットであると同時に、タッチに潜む他者の影を消すためのものでもあるという二重性をはらんでいる。しかし、その他者の影はそう簡単に払拭はできない。だからこそあれは何度も描き直したりとか、自分のセンセーションを実現できないとか、反復の魔に陥っていくところがあるわけです。
セザンヌ自身のそういった問題とは別に、需要という場面ではトレードマークとして流通しちゃうんですね。これが20世紀の芸術、美術を巡るとても大きな問題だと思いますが、作家の内面的自我の問題が作品価値とずれたものとして考えられ始め、主体の消失とかいろんな言葉で言われます。そういう一つの経路があるとして、そういうものかセザンヌあたりから始まって、キュビスム、抽象表現主義、ポップ・アートまでいくんだと思いますが、アンディ・ウォーホルなどは最終的に「私は機械になりたい」なんていうことを言うわけです。機械になれるわけはないんですが、でも他人にシルクスクリーンを刷らせたりして、どんどん自分の作家性というものを否定していこうとする。にもかかわらず、誰が見てもアンディ・ウォーホルの作品はアンディ・ウォーホルだと固定できるような様式的記号性を持ってしまう。商品として作品が流通することの矛盾がそういうところにも出てきていると思うんです。そういう意味で、画廊を軸にした流通のシステムが非常に重要だと思います。
さらにアンディ・ウォーホルの問題からちょっと話を広げると、ポップ・アート、リキテンシュタインもそうですけど、あるスタイルというものをどの作家も確立する、というかもたらされてしまう。ところがポップ・アートみたいなものが今はヨーロッパに広まっていった時に、ヨーロッパのシグマール・ポルケなんていう作家を考えてみると面白いと思うのですが、ポップ・アートを受けとめつつ、ドイツで活動していたポルケは一つのスタイルに自分を落ち着かせることができないんですね。非常に断片化されたかたらで、全然違う複数のスタイルを持ちながら同時にやるというような状況に追い込まれる。
それは資本主義一般の、つまりトレードマーク問題とは別の次元で、戦後の美術においてアメリカが占めてきた中心性というか、アメリカのヘゲモニーということに関わる問題だと思うんです。アメリカで活躍している作家というのは主体性を最終的には疑わないところでやっていけるという状況がどこかに、とくに戦後にはあるんじゃないかという感じがしますね。少し先走りして変な方向に話を広げちゃったかもしれないですけど。

[高島]…私がいみじくも最初に資本主義のテクノロジーと言いましたけど、画廊のシステムと筆触の登録商機的な記号性といったものの微妙な関係をお話しいただきました。東さん、いかがでしょう。今のお話を聞いて、何かお話しいただければと思います。

[東]…かつて僕がリキテンシュタインについて書いたのは原稿用紙にして5、6枚の文章なので、それについて言及されるとは思ってもみなかったので驚きました。それを知っていればもう少し、準備してきたのですが‥‥‥。
それについて言いますと、僕がリキテンシュタインの70年代のブラッシュ・ストロークを見て面白いと思ったのは、先ほど松浦さんがおっしゃった本当のブラッシュ・ストローク、つまり実際に筆でペタンと描いたものですね。その輪郭線をとって、色を極めて平板にして、ブラッシュ・ストロークそのものを漫画にしたような、つまり漫画に出てくるペンキの跡みたいなものを横に並べているという作品が面白いと言ったんです。それが面白いのは、松浦さんがおっしゃったようにオリジナルとコピーが横に並んでいるということのアイロニーもあるのですが、それだけではなくて、当時、僕が思ったことは、こういうことだったんですね。
それを説明するために話がちょっと横にそれますが、グリーンバーグがモダニズム絵画について規定する時にペインタリネス(絵画性)というものの一つの中核としてイリュージョンということを言っていて、そのイリュージョンと何を対置してたか、正確な言葉が思い出せないのですが、ある種の再現性を対置させていた(註:これは不正確な引用で、あとで訂正が入ります=東)。描かれているものそのものが何かの記号になっていることと絵画の平面そのもののイリュージョンを対置させた。平面そのもののイリュージョンにとどまることを絵画の中心的な課題であると規定したというふうに僕はグリンバーグの論文を読んだのですが、その絵画の規定からすると、アメリカと日本におけるコミックというものはまったく絵画ではないんですね。なぜかというと、コミックというのは完全に再現性のシステムでできていて、笑ってる顔を描いたら笑ってる顔、怒ってる顔だったら怒ってる顔であって、その記号性みたいなものを速やかに頭の中で処理していくことによって読むものなわけです。
僕はリキテンシュタインがコミックに目をつけたというのは、大衆消費社会に対するアイロニーという以上のものがあると思っているわけです。コミックの線というのはモダニズム絵画のペインタリネスと根本から相容れないものなわけです。相容れないものを絵画にするということには何か本質的な意味があるだろう。実際のブラッシュ・ストローク、実際に絵として描かれた筆のタッチと、その横に漫画になってしまった筆のタッチとを対置した中には、それが1970年代の作品であるということも含めて、モダニズム絵画の中核に対する強烈なアイロニーというか批判的意識があるのではないかというのが一つです。
さらに話を繋げていきますと、最近、僕は漫画評論家の竹熊健太郎という人と対談をしたのですが、その時に例として示されて、それはそうだなと思って驚いたのは、かつてあったロンドン絵入りニュース、『ロンドン・イラストレーテッド・ニュース』というやつなんですね。皆さんも日本史の教科書かなにかで見たことがあると思いますが、当時、大英帝国はインドとか中国とか日本とか世界中で起きた出来事をロンドンに配信するためにイラストレーターを雇っていまして、ペンで描かれたイラストが続々とたまっていた。ロンドン絵入りニュースの漫画と北斎漫画はほとんど同時期なんですね。この二つを比べればわかるんですが、ロンドン絵入りニュースのほうはペンで描かれていますので極めて均質な線で描かれている。これは完全にリプレゼンデーションの空間なんですね。それに対して北斎漫画は筆で描かれていますので、まったく違うシステムで作られた絵なんですね。そのあと日本の漫画がどうなったかということを竹熊さんは僕に教えてくれたのですが、それを簡単に要約すると、筆の線で描かれる漫画は均質な線がないわけです。それに対してペンという新しいテクノロジーは当時の日本人にとって極めて衝撃的であっただろう。ペンをいかに使うかということに日本の漫画は向かうんですね。その一つの達成点として手塚治虫があって、手塚治虫の初期の絵は極めて均質な線で描かれている。
それに対するある種の批判として、日本では60年代に劇画が出てくる。劇画はGペンを使って、ペンを使いながらタッチを、今日の言葉で言えば筆触を出そうとするわけです。さらにそれに対する批判というか、それを乗り越えるかたちで大友克洋が70年代の末に出てくる。大友自身はロットリングを使ってなくて、ロットリングを使った作家は別にいるのですが、完全にすべてを均質な線で描くという大友の画像が出てくる。日本の漫画史というのはペンと筆の対立でもあるわけです。
ペンと筆の対立というのはリキテンシュタインで言えば、オリジナルのブラッシュ・ストロークと、コピー化されコミック化され、もしくはポップ・アート化されたブラッシュ・ストロークが横にあるというところに表われているような、絵に対する二つの極めて違う考え方の並列状態みたいなことがリキテンシュタインでも問題になっているし、日本の漫画史でも繰り返し問題になっているのだろう。そのようなことを考えました。

[林]…日本ではペンはいつ頃から、どうして使われ始めたんでしょうね。それは面白い問題です。新聞のカリカチュアみたいなものの中に使われるようになるんでしょうかね。

[東]…日本で使われるようになったのは欧米で使われていたからですよね。欧米では新聞が大量印刷されるようになった時からあるんだと思いますけどね。

[林]…日本の場合で面白いと思うのは、浮世絵をやっていた人たちが明治になると、いわゆる錦絵新聞の中で挿絵を生産するようになる。浮世絵というのは彫る作業で、ペンと近いんだけど、彫りながら下絵の筆のタッチを模倣するんですが、そういう人たちの中からペンに移行した人がいたのかどうか。もしいたとしたら、その時に何が起こったのかということを、今聞いていて面白いなと思いました。

[高島]…初期の新聞印刷の機能自体が線描画じゃないと凸版に転化できないでしょう。

[松浦]…もともとリトグラフィでしょ、絵入り雑誌は。そういう意味ではオフセットと同じですよね。

[高島]…いや、だけど日刊新聞=活版印刷になる場合は凸版台に絵を彫った版を乗せないと大量生産できないですね。浮世絵の版画で可能であった、かすれたところとか、浮世絵の場合は何色か重ねてぼけた味を出したりしますけど、線描画の場合は複数の色が乗りませんので、そういうことはできないわけです。
東さんにはリキテンシュタインのブラッシュ・ストロークの話から『ロンドン・イラストレーテッド・ニュース』、北斎の筆との違いなどの話を引き受けていただいたのですが、村上隆さんのスーパーフラットあたりの問題性と今の話は繋がるんでしょうね。

[東]…僕は繋がると思っていますけどね。かといって単純に繋げるのもいかがなものか--と言ってもしょうがないんですけど、繋がると思っているから僕は村上隆のスーパーフラットに関心を持っているということはあります。
今、筆とペンの対立というふうに述べましたが、ロンドン絵入りニュース、北斎漫画からしばらく経つと19世紀末になります。ペンというのは非常に曖昧な存在論的な位置を持っているメディアでして、もう少し進むとタイプライターが出てくるわけです。タイプライターの出現によって起きたメディア的変性というのは非常にクリアなもので、文字はタイプライターになり、絵はペインタリーになった。絵は今度は筆になり、まさにセザンヌ的なタッチの問題が出てくる。
それとタイプライターの出現との関係がどういうものなのかというのは僕にはわからないですが、それ以降、タイプライターとブラッシュはまったく違ったメディアとして進んでいくことになったわけです。それは、絵と言葉はまったく違っているという、19世紀末から20世紀前半にかけてのエピステーメーと連動しているんだと思いますが、それを揺るがすものとして、一つにはルネ・マグリットがいたわけです。フーコーが優れたマグリット論を書いていますが、その時にマグリットが書いた字というのは筆記体ではあっても活字化された筆記体の模倣なわけです。それによって文字と絵とのある種のギャップとずれみたいなものをマグリットは作品にしていた。
僕は進んでいるとか遅れているという言い方はあまり好きではないのですが、その間題意識でいくと、リキテンシュタインのほうがもう一歩踏み込んでいるのかなという印象があるんですね。リキテンシュタインの場合は、もう少し起源に遡っている感じがするわけです。タイプライターの前のペンの世界ですね。タイプライターが出現したあとは文字と絵がまったく分かれてしまうんですが、ペンを使っていた時は、そこは曖昧なまま分化しようとしていた時代だったとも言えるわけです。コミックのタッチとかコミックのオリジナリティというものをグリーンバーグがどのように考えたのかというのは僕は非常に興味があるのですが、「ブラッシュ・ストローク」という作品は、それを作品化しているように思えてしまったというのが、僕が70年代のリキテンシュタインに興味を持った一つの埋由です。

[松浦]…今の東さんのお話の補足になるかどうかわからないのですが、確かに、グリーンバーグがペインタリネスと対立させたものとしてイリュージョンがあります。ただ、もう一方でペインタリネスという概念と対立したものとしてデッサン、ないし線描という概念があったと思います。グリーンバーグのテクストの中では、ライナー・ストラクチュアないし、輪郭線による構築性と絵画性という対立があると思いますが、もちろんこの対立性そのものはヴェルフリンという美術史家のテクストの中にすでに書き込まれているものです。
そこで、セザンヌ、リキテンシュタインという組み合わせに戻りたいのですが、それは東さんが話してくださったことの一つの面白い例になるのではないかと思うからです。リキテンシュタインがセザンヌの絵画作品に言及したものとして、二つ有名な作品があります。これらの作品で非常に興味深いのは、リキテンシュタインの作品がセザンヌの絵画作品に直接言及するというよりも、セザンヌの絵画作品とリキテンシュタインの絵画作品との間に、もう一つある媒介物が存在していた、という事実です。それはアール・ローランというアメリカの美術史家の書いた『セザンヌの構図』と題された著作です。これは美術出版社から翻訳も出ていますが、1943年に、つまりまさに抽象表現主義が形成されようとする時代に刊行された著作で、非常に面白い本です。
この本に関してグリーンバーグも何回か書評のような文章を書いています。セザンヌ自身は線ではなくて色彩でデッサンをすると何度となく語っているのです。その時、色彩と線という対立はほとんどタッチと輪郭線という対立と同等だと思います。ところで、アール・ローランの本は、いくぶんか当初の出版事情ということもあると思うのですが、最近出ている版に至ってもほとんどカラー図版のない画集です。現在出ている版では2点か3点、カラー図版が入っていますが、相変わらず白黒の図版が中心になっています。それはなぜかというと、ローランがセザンヌの作品の中から、それぞれの作品のライナー・ストラクチュアというか線的な構図をもっぱら導き出すことに集中しているからです。
この試みに関してグリーンバーグは非常に揺れていて、一方でセザンヌにペインタリネスを見出そう、つまり線的な構想とは別の組み立てを見出そうとするのですが、他方、ローランによる色彩を欠いた図版とダイヤグラム化した図表へのセザンヌの絵画の還元にあり得べきセザンヌを見出そうともしていて、セザンヌにおける理論と実践の分裂とまで言い出しかねない様相を呈しています。そして、色彩派的なセザンヌではなくて、ライナー・ストラクチュアという仕組みにダイヤグラム化された、アール・ローランの書物のセザンヌをリキテンシュタインが参照し、その作品で反復しているというのは、今おっしゃったペンと筆の対比を補完する逸話になるのではないかと思います。

[高島]…構図としてはこうですね。色彩、タッチ、イリュージョンという繋がりが一つあって、線、デッサン、すなわち再現性という二つの構図的な対立がある。

[林]…再現性ですか。復元性?

[高島]…東さんが漫画のペン画というのは再現性が高いと言われた。正確には記号性だと思いますけど、戯画的にいうとイリュージョン対再現、筆触対デッサン、色彩対線という一つの構図が浮かび上がってきます。これを考えていくと、いろんなところに当てはめられると思うのですが。

[松浦]…アニメに対する一種のオタク的主体がアニメの画像を記号として見ると同時に絵画として見るという点で、二重の視線を備えているということを東さんはどこかでお書きになっています。近代絵画の経験にはタブローとの距離のとり方に応じて絵画面を画像として見るか、あるいは色彩ないしタッチの集積として見るかといった、二者択一的な視線を要求するメカニズムがあると思います。エミール・ゾラは、マネとともに発明されたのは新しい絵画であると同時に新しい距離である、と述べていますが、その場合も複数の視線というか、複数化して、必ずしも単一的に統合化され得ない画像に対する視線が発明されたと言えるかもしれません。

[東]…さっき僕はグリーンバーグの要約を間違えてましたね。イリュージョンという言葉は、色彩、タッチの側でした。頭の中が混乱していたことが指摘されてわかりましたので(笑)修正しておきます。ゾラは19世紀の真ん中ぐらいですけど、その時に新しい距離が発明された。その新しい距離をどう処理するかにおいてモダニズムは動いてきたということですよね。1970年代以降を考えたとして、それ以降は現代アートでもポップ・カルチャーでも、モダニズムの距離、色彩だけを見るという距離の取り方が使えなくなっているのではないかというのが僕の一貫した問題意識です。
そのあとどうなっているのかというと、ここでうまく説明できるほど僕もわからない。ただ、ポップ・アートだけではなくて、90年代のイギリスのデミアン・ハーストの作品や村上隆の作品、もしくはウォーホル、リキテンシュタインの作品を人びとが解釈する時に、ほとんど平面性については語られてこなかったのではないかと僕は思っているわけです。それは一言で言うとコンテクストと呼んできたわけです。
これは僕が美術評論家としてというよりも美術評論を読む素人として思っていることなのですが、95年に『モダニズムのハード・コア』という本が出た。ポップ、ミニマリズム以降のアート・セオリーというテーマだったと思うのですが、ミニマリズムまでは作品そのものについて語ることができたと思うんです。しかしポップ、コンセプチュアル・アート以降、ポストモダニズム、シミュレーショニズム、ネオ・ポップときた時に、作品そのものではなくて、作品と社会との関係性というか、コンテクストに還元することによってしゃべるということが中心になっていく。そこで平面が問題にならなくなったというよりも、平面に対してとるべき視線が変わっているのではないかと思うんですね。
今僕は粗雑な話をしているので、そういうものだと思って聞いていただければいいんですけどね。村上隆とか、あるいはデミアン・ハーストは平面ではないので彼のスポット・ペインティングでもいいんですが、デミアン・ハーストの場合、写真で見てもある種の新しい経験があると思っています。ただ、牛の親子が引き裂かれて水槽に入っている作品を撮った写真の上にスポットペインティングのようにして白抜きで抜かれているようなポスター、こういうものそのものの平面性について考えるにはどうしたらよいのだろう、というのが僕の疑問なんです。
リキテンシュタインに戻りますと、リキテンシュタインがコミックを引用したことについて、高度資本主義社会に対するある種のアイロニカルな距離の取り方ということもあると思うんですが、それと同時に、そこでは新しいある種の平面性が獲得されつつあったという仮説は立てられないだろうかと思っているわけです。

[林]…レオ・スタインハーグが「フラット・ベッド」で言った1970年の論文の中で、平面の性質が変わったという。要するにイリュージョンの見える壁的な平面ではなくて、むしろデスクトップのハードな平面になって、その上に記号が来ては去りという、そういう平面になってきたんだという、そういうこと?

[東]…もちろん僕はそう思います。ラウシェンバーグにはコミックの問題はほとんど出てこない。その点において僕はリキテンシュタインに少し興味があるのは、さっきから言っているようにコミックというのは線の問題なわけです。線の問題というのは、少なくともグリーンバーグが規定したモダニズム絵画の歴史においては他者なわけです。
僕は素人なので間違えているかもしれませんが、僕がロザリンド・クラウスなどを読んだ限りでは、一方にグリッドの歴史があり、他方にマトリックスというかアンフォルムの歴史がある。それは二項対立ではなくて、グリッドを支えるものとしてと言ってもよいと思うのですが、そこで線的問題をクラウスは出してこないと僕は思うんですね。ロザリンド・クラウスという批評家は非常に優秀だし、刺激あふれる批評家であるにもかかわらず、ある年代以降の作品を、あるやり方でしか扱うことができていないと言うべきなんでしょうか。村上隆のスーパーフラットなんかを持っていって、クラウスがどう言うのかというのは僕は関心があるんですけど、そういうことと僕の頭の中で結びついています。

[林]…線の問題について言うと、確かにそうなんですね。19世紀の美術史の言説の中でリアリズムがでてきた時に批評家が繰り返し言うのは、作家もそうですけど、線というものは自然の中に実在しないということです。これはクリシェになって、何度も何度も繰り返される言葉ですよね。アカデミーの遠近法的な絵画の中で一番重要だとされてきた線が、リアリズム以降、抑圧されてくる。抑圧された結果何が起こるかというと、完全に壁的な視覚的イリュージョンの世界に絵画がなっていく。それが延々とグリーンバーグのパラダイムにまで繋がるというのは確かにそうです。
先ほどのタイプライターの話とも繋がると思うんですけど、近代絵画の歴史の違うコースがあり得たとすれば、キュビスムの段階でそうだったという感じがするんですね。なぜそうかと言うと、文字が出てくるんですね。ステンシルのレターをブラックなんかが使う。ピカソはハンドライティングで描くことが多いんだけど、ブラックの場合は完全にステンシルで、非常に触知的な記号的な文字を導入してくる。それをグリーンバーグなんかは垂直面のフラットネスに繋げて言うんだけど、一方では水平面に置かれたフラットネスに繋がる契機もキュビスムにすでに可能性として胚胎されている。しかしその可能性は、完全に見逃されていると思うんです。

[松浦]…ステンシルで文字が画面に描き込まれているのは、文字が表記され得る場の本来的な平面性を暗示するというのがグリーンバーグの論点だったと思います。ところで、ブラックという画家の生涯を通じて唯一と言っていい主題は何だったかというと、それはテーブルだったと思います。語源を共有するテーブルとタブローというか、テーブルとタブローとの相互的な変換の可能性、ブラックにとっての唯一の絶対的な主題だったと思います。
この文脈で付け加えておくと、建築という領域の図面の引き方を考えれば当然そうならざるを得ないのかもしれないのだけれど、ル・コルビュジェの絵画作品もある意味ではテーブル絵画でしかなくて、かつ、テーブルに対して真上から見るか、あるいは真横から見るか、その二つのタイプしかあり得ないという気がします。

[高島]…ブラックのテーブルとタブローの関係性とか、もうちょっと話していただけますか。語源は一緒なんだけど、ブラックが作品の中で何に決着をつけようとしていたのか。テーブルとタブローということで……。

[林]…僕は壁と言ったんだけど、タブローですよね。ハードな記号的な声が起こる平面、そういうものが特化されたかたちでリキテンシュタインとかウォーホルに出てくるような感じを僕は持っているんだけど、グリーンバーグはまったくそうじゃなくて、テーブルの上で起こっていることを壁の上のフラットネスの問題に引き寄せて考えている感じがある。
これも松浦さんがどこかで書かれていたと思うけど、ブラックのタブローの中に何枚か釘が出てくるものがある。上に釘が刺さっていて、その影が描き込まれていて、見れば見るほど一枚のすでに描かれたポスターのような絵が釘によって壁に張りつけられているような感じがしてくる。テーブルの上でやってたものをポッと持ち上げて壁に張りつけたような感じがするんですね。テーブルと壁との、垂直面と水平面の間を行き交うようなことがブラックの周辺で起こっているなという感じがします。

[松浦]…水平面と垂直面の変換の関係を考えた時に、先ほどブラックにとって、テーブルが唯一の主題だと言ったのですけれども、有名な連作に「アトリエ」という連作があります。アトリエも当然、一つの部屋なわけですが、部屋の問題もテーブルの問題の一つの論理的な延長線上にあると考えることができる。というのも部屋の隅にはコーナーができます。コーナーは、水平面と垂直面の変換の体系を組み立てようとする時に大きな困難を伴う場所になります。そこでブラックが行なった作業は二つあって、一つはコーナー・レリーフと呼ばれるものです。コーナーのところにオブジェというか、テーブル状の板を張って、その上に瓶とかの静物像を置いたものがあります。これは写真としてしか残っていません。もう一つは何枚かのビリヤードのテーブルの絵があるのですが、これらの作品ではまさにテーブルが部屋のコーナーに対応するかのように折れ曲がっています。

[高島]…一般にセザンヌが論じられる時、セザンヌからジャクソン・ポロックに繋がっていく一つのラインが論述されることが多いんですが、線と色彩の関係とか、今のタブローの問題を入れると、ポロックの存在というのはどういうふうに繋がってくるのでしょうか。

[林]…これも重要な問題だと思うんですが、グリーンバーグはポロックを完全に視覚的イリュージョンの画家として考えているところがあると思うんです。クラウスなんかは、ポロックが床にキャンヴァスを置いて、その上にドリッピングをしたということを重く見るわけですが、なぜかというと、その問題が次のジェネレーションの作家たちに引き継がれているからだと思うんですね。ウォーホルが鋼板の上に小便をして、酸化させてそれを作品にしたりとか、ロバート・モリスがフェルトを使って壁から重力によって垂れ下がるような作品を作ったりとか、ウォーホルがダンスステップをそのまま写した作品を作ったりとか、ああいう作業というのはポロックの創造的誤読というか、そういうかたちで出てきた作品じゃないかと、クラウスはそういう読みをするんです。
その結果、高度資本主義社会の中ですべてのものが記号化され、商品として流通するような状況の中で、タッチそのものも記号としてしか存在し得ないような、グリーンバーグ的なパラダイムの最終局面がくるわけです。それが60年代後半の歴史的な状況だと思うんです。それを受けてリキテンシュタインがメタ批評的なものを作ったりしていく。
さらにポップ・アート全体の中で輪郭線の問題がもう一回戻ってくる。輪郭線だけじゃなくて、ポップ・アートの中には触知的なもの、グラフィックなものが多いですよね。ウェッセルマンなんかもそうですけど、レリーフ状に人体が浮き出てきたりする。ああいうものはタッチからくるイリュージョンとは違って、ダイレクトに触知できる。見ているんだけど触知できるような、リーグルの用語で言うとハプティックなものが戻ってくるわけです。それは記号というものがある輪郭を持った単位として反復可能なものであって、しかも交換可能なものだという、そういった無意識の認識が共有されているという感じがしますね。
文化現象として見るとそうなんだけど、僕は評論とか批評を書きながらいつも困るのは、同じようなことをやっていてもウェッセルマンの作品はとてもいいとは思えないんですよ。だけどウォーホルの作品はゾッとするようなところがある。そのことを言わないと批評はだめだなと思うんですよね。文化現象としてポップを論じているのならそれでいいんだけど、そこから先が難しいという感じがいつもしています。
東さん、スーパーフラットの村上さんの作品に対する関心というのはどういう関心ですか。ある種の文化現象的なというか……。

[東]…僕は村上さんの作品はいいと思いますよ、平面としてね。スーパーフラットの話ばかりしてもしょうがないんですが、浅田彰氏がスーパーフラットには「アイロニー」がないと言っている。これは村上隆氏の90年代前半の作品を見ていれば当然出てくる批判で、浅田さんの批判は適切だと思うんです。それを擁護するロジックが僕としても手元にあまりないので、なんとも言いがたいのですが、村上隆氏の作品を社会現象として読んでいる限りは、90年代前半のほうが村上氏は、日本のシミュレーショニズム以降の状況に対する悪意あるアイロニーとして作品を作っていた。それに対して今はそれを無条件に肯定しているように見える。しかもそれが90年代後半のJ回帰的なイデオロギーに則っている以上、これは肯定できないだろうという理屈は極めてよくわかるんですが、村上氏の仕事はもはやそういう圏域を逸脱していて、新しい平面性みたいなもののアートへの落とし込みというところだったとしたら、どうなんだろうということなんですね。
僕としてはむしろそっちのほうの可能性で見ているわけですよ。社会現象として見る限り、今のスーパーフラットというのはあまり面白いものではない。社会に対するアイロニカルな関係として村上氏の作品を見るんだったら90年代前半のほうが面白いと思いますよ。ただ、そういうことをやっているのではないんじゃないかと僕は思っているわけです。
それと絡んで、線と色彩の二分法的な近代の平面概念というものがあったとして、その区別が維持できないでごちゃごちゃになったあと、どういうものがきているのかについてはちゃんと言えないと先ほど言ったんですが、一つ思っていることがあります。唐突に聞こえるかもしれませんが、3Dステレオグラムというのがあって、あれは70年代に開発されたんですよ。
90年代、日本では単に子どもの遊びとして流通しましたが、認知科学に関する革命的な転換と結びついています。どういうことかと言うと、ランダム・ドットステレオグラム--RDSというんですが--RDSが開発される前は、人間の目というのはまず右側で輪郭線を見て、左側で輪郭線を見て、その輪郭線と輪郭線を頭の中で処理することで奥行きを探すんだということだったんですよ。
それに対して、右目だけで見ても左目だけで見ても輪郭線は一切ない。にもかかわらず点と点の照合だけで立体視ができるということがRDSで証明されたんですね。輪郭線なしの立体視というのがあるんだということなわけですよ。これは大脳生理学的な機構の解明であると同時に、視覚というものに対するパラダイム・チェンジのメルクマールではないかと僕は思っているわけです。われわれが世界を認識する時に輪郭と色彩というふうに見ているのではなくて、まずドットがあって、無数のドットのさまざまな組み合わせによって形が生まれてくるという考え方です。
70年代を考えると、コンピュータのインターフェイスという考え方が出てくるのが同じ時期です。これは認知科学と密接に結びついてる開発なんですが。先ほどフラット・ベッドと言った時にコンピュータのデスクトップの話が出たと思うんですが、そのアナロジーも僕はそれほど唐突ではないと思っていて、比較的厳密こ推し進めることができるのではないか。線と色彩が対立していた近代の平面概念が70年代に大きな変容を迫られたとして、その次に平面概念があるとしたら、それはドットと形の対立みたいなもので作られているのかなと思っているんですね。それでランダム・ドット・ステレオグラムとかはなかなかいいのではないかと。

[林]…ドットと形、ドットと奥行きという問題は逆説的にというか、遡って印象派は線を消して筆触でやろうとしたことをサポートするようなことになりますけど、そういうことですか。

[東]…そうだと思います。突然70年代に線が引かれているわけではないと思うので、もっと遡っていけば写真技術が登場した時にすでにその兆しは現われているんだと思います。

[松浦]…一番最初の写真として残されているニエプスの撮った写真が2枚あります。1枚は自分の家の2階の窓から見下ろした風景で、もう1枚は食卓の光景です。いずれも粒子が非常に粗くて、手で描いたドットでも似たような効果が作れるのではないかと思えるような状態です。その意味では、この局面で19世紀の画家を比較の対象として取り上げるとなると、おそらくスーラの名前が想起されるでしょう。実際、スーラの点描はドットのシステムに依拠しています。スーラの場合、油彩画の場合もそうですが、より明瞭にドットのシステムを示してくれるのはやはり、デッサンだと思います。なぜかというと、ドットによる立体視を考えた時に最大の問題は、先ほど言った二者択一的な視線の問題とも関わるのですが、ドットが見えている時は立体が見えないというか。

[東]…そうではないんじゃないですか。僕は専門家ではないので、それについてクリアな発言がここでできないのでもどかしいのですが、ゲシュタルト心理学が出していたいくつかの例があって、アヒルに見えるんだけどウサギにも見える絵というのが一つありますよね。もう一つ、壷が横顔になるというのもありますね。最新の認知科学的な知見によると、あの二つは位置が全然違うらしいんですよ。どういうことかというと、人間の目というのは奥行きを処理する部分は形を処埋する部分よりも処理段階が前にあるわけです。まず奥行きが見えて、あとで形が見えるという発想らしいんですね。
おばあさんと少女とか、アヒルとウサギというのは形を処理する部分に関わっているので、かなり高度なレヴェルでの入れ替えなんですよ。それに対して壷か横顔かというのは、どっちが前かどっちが後ろかという問題なので、もっと根底的なレヴェルでの錯視なんですね。その二つはレヴェルが違うということらしいんです。

[松浦]…ただスーラの油彩画の場合でいうと、確かに個別のドットに注目している時は、視線に対して画像は結集しにくいと言えると思います。もちろん、それは程度問題にすぎないのかもしれないけれど。

[東]…ドットに注目している時というのは、ランダム・ドット・ステレオグラムでいえば片目を閉じている状態ですよね。両目で見てしまったら、否応なく入ってきてしまう。それは意識の集中とは関係ないというところがランダム・ドットステレオグラムの……。

[松浦]…ただ、それは画像との距離というか、奥行きがあらかじめ設定されているからじゃないの。

[東]…50年代、60年代ぐらいまでの現象学的な視覚論だと、見る主体があって、それがどこに集中しているかという話なんですよ。それに対して認知科学のパラダイム・チェンジは、見る主体以前に計算過程があるというんですね。この計算過程が否応なく決定している部分がある。そこの部分が自明性を作っているわけで、そこの部分がかなりのことを決定している。われわれが気の持ちようによって、これはウサギに見えるとか言ってやっても、そうは見えない。
ランダム・ドット・ステレオグラムだと右と左を入れ替えることによって簡単に奥行きが変わるので、ブラインドの向こう側に人の顔があるというステレオグラムを作ったとしますと、ブラインドの向こう側に人がいる状態の写真というのは簡単に顔がわかるわけです。ところがひっくり返すと、ブラインド上に人の顔が断片的に浮かび上がる状態になるんですね。そうすると顔を認知できない。奥行きがあるという入力がすごく初期の段階で処理されていて、それが輪郭を生み出すんたということらしいんですね。輪郭が先にあって立体視が可能になっているのではなくて。

[林]…メルロ=ポンティのセザンヌ論はかなり正鵠を得ているということかな。メルロ=ポンティのセザンヌ諭は奥行きということが一つのポイントになっている。

[東]…そうですね。目というのは奥行き、距離を保ってということですよね。

[松浦]…今、壷/横顔の反転画像の話題が出たのですが、壷/横顔の画像はリキテンシュタインと同時代を共有したあるアメリカの画家にとって非常に重要なモティーフの一つでした。それはジャスパー・ジョーンズです。ジャスパー・ジョーンズの絵画作品には壷/横顔の画像が近代絵画が抱え込んだ視線の二者択一性という難題のイラストレーションのように頻繁に現われます。
もう一つ、壷/横顔の画像の話題と関わり得るものとして、スーザン・ソンターグの「反解釈」というテクストを挙げることができると思います。このテクストの一番最後のところで著者は、作品の表層の透明性という概念を提示しています。作品はいかにして解釈の欲望から逃れ得るかという文脈で、1960年代の美術作品が提示した二つの可能な方策が検討されています。一つは抽象絵画で、もう一つはポップ・アートです。より正確に書き直せば、ミニマル・アートとポップ・アートと言ったほうがよいかもしれません。ソンターグによれば、前者はイメージからの完全な逃走を目指すのに対して、後者の場合はイメージがあまりにも直接的であるがゆえに解釈の欲望を機能不全状態に導くことになるとされています。ただ、いずれの方策も作品の外見的な様相は対極的でありながら、解釈の欲望からの逃走という文脈では同等性を帯びているのですが、ソンターグが提起する課題は、解釈からの素朴な逃走ではなく、むしろ、作品の表面をいかに速い速度で組織するかという課題でした。
この高速度で組織された表面のイメージとして、今の認知科学の話は予想していなかったのですが、ともあれ、先ほどの壷/横顔の画像を取りあげてみることもできるような気がします。というのも、ソンターグが言うような新しい速度によって組織された平面とは、壷と横顔をほとんど同時に見る可能性というか、壷を見て、それから横顔を見て、壷を見てという間欠的で二者択一的な像の転換を可能な限り速度を上げることにによって、この二者択一性を凌駕するというか、非連続的な接合状態を作り出す可能性の提示だったのではないかなという気がしたからです。

[高島]…今、東さんがおっしゃったことは、この間の美学的なパラダイムが崩れる話ですよね。まず奥行きが入力されて、そのあとに形が見えるのであって、最初に輪郭が見えるわけではないということで言うと、輪郭、線描化、色彩、イリュージョン化というところの過去の美学的な問題と抵触すると思うんですが。
松浦さんにお聞きしたいのですが、「絵画の中に一つのイリュージョンを出す時に、一本の線がどこかに引かれた時から出発する」というようなことを、ムサビの機関誌『武蔵野美術』でセザンヌについて書いた時に記されていますね。セザンヌが最初に線を引いた時の感覚と筆触という感覚とは同一なものなのか、それとも違うのか、その辺をお聞きしたいんですけど。

[松浦]…あまりよく憶えていないのですが、ちょっと違うことを書いたのではないかと思います。確かグリーンバーグについて書いた時だったのではないかという気がするのですが、タブロー上にたった一つの表記がもたらされてもそこにはイリュージョンが発生する、というグリーンバーグのテクストの一節についてだったはずです。この議論の論理的帰結として、絵画からイリュージョンを全面的に追放するという路線を仮に設定すると、それは絵画を描く行為と本来的に対立してしまうことになってしまう。あるいは、絵を描く行為が絵画面に介入する作業であるとすれば、必然的にそれはイリュージョンを発生させてしまう。したがって、イリュージョンをまったく欠いた絵画面が理想的な状態であり、絵画の辿り着くべき地点だとすると、そもそも絵画をどういうふうに描き始めていいかさえもわからなくなってしまうという困難に直面せざるを得なくなります。より正確に言えば、絵画制作が必然的にイリュージョンの発生以外の何ものでもないにもかかわらず、この描く行為それ自体によって、イリュージョンを消去するというほとんど不可能な作業それ自体こそが、絵画の課題ということになります。もちろん、グリーンバーグは、どうしても消去し得ないイリュージョンとして「絵画的イリュージョン」という場を留保していますけれども。
ともあれ、素朴な解決策は二つあって、一つは何も描いてない画面の提示です。もう一つは、何も描いてない画面と構造的にまったく同等になるのですが、モノクロームの絵画です。そんなことを書いたのではないでしょうか。

[林]…モノクロームといっても、たとえばイヴ・クラインのモノクロームって奥行きがないですか。フランク・ステラのモノクロームとイヴ・クラインのモノクロームを並べるとまったく違うものだと感じますよね。

[松浦]…林さんのおっしゃるとおりで、ここでは理念的な意味でのモノクローム絵画と言ったほうがよかったかもしれませんね。すみません。ただ、この問題を考えると、色彩/デッサンという対立はタッチ/線描の対立でもあったのですが、近代絵画史に大きく作用したもう一つの対立があります。それは、画面の単一性/筆触の多数性という対立です。これはとても大きな問題で、モノクロームの絵画とは単一の平面上に単一の筆触を置くというか、筆触と絵画面とを重ね合わせることによって、この対立を消去しようとしたのではないかという気がします。あくまでも理念的な意味でのモノクローム絵画ということですけれども。いずれにせよ、絵を描く行為、絵画面に介入する行為は否応なくイリュージョンを作り出す。言い換えれば、画面に対する分割作用として機能するがゆえに、画面の単一性と筆触の複数性とが対立する事態が生じ、セザンヌが言うような意味での表面の組織化が不可避的な難題の様相を呈さざるを得なくなります。

[高島]…先はどスーラの点描というところでドットと形の対立ということが出てきましたが、以前にスーラの木炭デッサンをたくさん見たことがあるけど、木炭の粒子が一つの単位になっているように見えるんですね。

[松浦]…そうですね。先ほど言おうと思ったことは、スーラの油彩作品の場合、筆触と画像との対立という点で、筆触をいかに筆触として見えないものにするかという作業が必要不可欠でした。どれほど細い筆で描いても筆触を無化することはできないわけで、物理的な限界があります。それゆえ、筆触を無化し得ないとしても、限りなく極小化するためには、画面の巨大化によって筆触の大きさを相対的に小さくするという作業がとられたと思います。そのためにスーラの数少ない完成作と見なされている作品は多くの場合、巨大な画面になっています。ところが、デッサンの場合はテクノロジーの問題なのですが、紙の均質な目にクレヨンないしコンテを乗せていくことによって均質な粒子の配分を獲得することに成功できたと思います。この意味で、絵画面の組織化という点で、スーラのデッサンは極めて興味深い例を与えてくれます。そして、リキテンシュタインが自らの反復の対象としては、スーラを回避している点は、単なる偶然かどうか問い直してもよいと思います。

[高島]…東さん、先ほど楽屋で村上さんに関することで日本画の線の話をされてましたよね。村上さんが日本画を学んだことと、スーパーフラットに至る筋道みたいなものを重ねていらっしゃるのかな。

[東]…村上さんが参照している辻惟雄さんの『奇想の系譜』という本を読むと、村上さんのネタはすべてここにあったということがすごくわかって、辻さんの書いてる文章そのままに作ってる絵などもいくつかあることがわかるんですね。それは事実としてそうだと思うんですが、僕はスーパーフラットの話を日本性に落としたくないんですよ。モダニズムが定着しなかった日本でもっともポストモダンが盛んであったというタイプの簡単な話と変わらなくなってしまうので、そこにあまりコミットしたくないというのと、僕は全然別のレヴェルでポップ・アートとか、あまり平面として語られないアートが好きだという問題があるわけです。
それはアニメーションなどに対する僕の関心とも関わってくるのですが、アニメーションにおいてもキャラクターの造形というものは、お互いすごく多種多様な相互引用によって成立していて、それについて語ろうとするとキャラクターの平面についてではなくて接点について語ることになるわけです。
それが相互引用で組み合わさっているので、その引用のレヴェルについて語ることになってしまう。引用のレヴェル自体が畳み込まれたようなデザインについてのしゃべり方をしないと、アニメーション系のデザインについては語ることができないという問題があって、そういう問題との接触でスーパーフラットについても考えているので、日本性についてはあまり考えてないんですよ。

[高島]…J回帰と言われたくない。

[東]…J回帰なのかもしれませんがね。J回帰の人たちもいるとは思いますよ。80年代のポストモダニズムが本当にJ回帰してなかったのかというと、「ここ300年ぐらいで日本主義が一番トレンディなのは今だよね」とか、坂本龍一と村上龍がEVカフェでしゃべってたりするんですよ。そういうことはいつの時代でもあるだろうという程度にしか僕は思っていないので、そこから何が出てくるかということぐらいなんです。この話はあまり発展性がない。

[高島]…今、一つの概念としてポストモダニズムという言い方をされたわけだけど、オリジナルはもうないのだとか、起源を批判する意識によってポストモダニズムの議論が推し進められた側面が強いですよね。その辺はいかがでしょうか。多少、一般論になりますけど。スーパーフラットというのがいろんな意味で使われているのはわかりますけど、起源がなくなって、コピーがコピーをしていくうちにオリジナルの深みがなくなっていくんだというと、ボードリヤールの意見と変わらないのですが……。

[東]…僕は、「スーパーフラット」という言葉は僕の言葉ではないと思っていて、カギカッコつきでしゃべっていますが、村上さんは「スーパーフラット」というのはオリジナルなコンセプトだと思っているわけです。そう思えるというあたりに、すでにその対立ではない何かが進入しているということがわかりますけどね。そこの部分を浅田さんとかは、あまりにナイーヴではないかとおっしゃっているんだと思うんですよ。
椹木野衣氏が『シミュレーショニズム』でハウスミュージックについて書いてますよね。椹木さんも微妙な書き方をしていますが、つまりハウスミュージックというのは相互引用の戯れ、反復、カットアップ、リミックス、そういう特徴でできているわけです。しかし、そこに行ってるクラバーたちは、ここで何が引用されたということで聞いているのではなくて、それそのものが所与の条件である音楽として聞くわけです。
あそこではアート・オブ・ノイズとKLFの対立で言っていたのではないかと思うんですが、いずれにせよハウスミュージックの初期の段階では、どこからサンプルされていたかということがわかるし、そこにある種の技がきく、サンプルされたものにノイズを侵入させるようなかたちでハウスミュージックというのは展開していた。しかし90年代になってからはそうでなくなってきた。89年あたりかな。あの本が出たのが91年なんで、これはすごく早い指摘なんですけど、そうではなくなってきた。もはやノイズなどないような、すごく均一なハウスミュージックが出てきていて、これは一見、面白くなくなってきたかのように見えるが、ハウスミュージックそのものが、それが所与の条件になってしまったことの表れだと考えられるということを指摘されていて、これは僕は正しいと思うわけです。
引用とかリミックス、サンプリングという状態が飽和していった場合、それがコピーであるかどうかもほとんどわからない状態になる。もともとオリジナルとコピーという対立は自然と人工という対立なわけですよね。風景がオリジナルで、その風景のコピーとして風景画を描く。そもそもランドスケープという言葉は風景画なので、風景という概念自体がシミュラークルであった。そういうふうにロジックを展開していくのがポストモダンの一つの作法ですよね。
けれどもハウスミュージックのある種の隆盛というか、ハウスミュージックに限らず。村上さんだったらオタク文化ということになるんですが、その隆盛が示しているものは、そういう形で出てきた人工物そのものがアーカイブ化されて一つの所与の条件になってしまっている場合、それ自体を自然として作ってしまうわけだから、関係性が変わるだろうということだと思うわけです。それを椹木さんがハウスミュージックというかたちで指摘されていて、村上さんはスーパーフラットという言葉で呼ばれているのだろうと僕は理解していますけどね。

[高島]…東さんのお考えの一つの視点をお聞きしたわけですが、モダンとポストモダンの対立項について林さんはどんなことを考えておられますか。セザンヌを研究されたりした方として、ポストモダン的議論にはあくまでも抵抗していきたいんだとか。

[林]…そんなつもりはまったくないですね。そういうふうに問題を設定しないというところがあるかな。長くアメリカにいたので、考えることはあるんですけど、グリーンバーグとの関連で言うと、グリーンバークの理論がモダニズムの軸だと言われてきて、モダニズムというとアメリカではグリーンバークという感じの理解が共有されているわけです。グリーンバーグのモダニズム理論の中でキーになる概念は自己批判--セルフ・クリティシズムです。
僕はグリーンバーグの中に2人のグリーンバーグがいると思っていて、ずれつつ重なっているというか、1人は「前衛とキッチュ」のグリーンバーグ、もう1人は「より新しいラオコーンに向けて」という42年の論文以降のグリーンバーグで、60年代になって絵画の内在的条件の自己批判に根ざしたモダニズムが完成されるわけです。
「前衛とキッチュ」でも「より新しいラオコーンに向けて」でも自己批判ということを言うわけだけど、最初の「前衛とキッチュ」では揺れ動いているところがあるんですね。自己批判が絵画というカテゴリーを存立させている条件に関する内在的な批判であるという部分と、そうではなくて、キッチュと前衛という対立項の中で資本主義が広まっていく中で、前衛が自己の存立条件として歴史の状況を見直すという、つまり前衛とキッチュはイタチごっこしているようなイメージで語られているわけです。昨日の前衛は今日のキッチュというかたちで、前衛がキッチュに吸収されていくという歴史認識がある。内在的な自己批判の部分と、そういう前衛が成立するための外在的な歴史的条件を問題にする自己批判の間を揺れ動きながら語っているところがあるんですね。
60年代になるとその外在的な歴史状況認識がまったく抜け落ちてしまって、超越論的なというか、絵画というカテゴリーが先験的に存在するものだとして、その内在的な条件を問うという格好になっていく。それに多くの画家が従うわけです。そういう内在的な批判が可能になる条件として、さっきの画廊の話に戻るんですが、画廊というスペースが自立したものとして社会の中に存在して、画廊の壁によって守られているという状況があったからだという感じもするんです。それだけではないですけど。
面白いのは、60年代にそういうグリーンバーグの理論に影響を受けて作品を作っていたオリツキーとかノーランドとか、そういう作家は僕から見るとまったく前衛的ではないんですね。グリーンバーグの理論が60年代に完成されて、それとともに制作活動をしている画家たちの絵はもはや「モダン」ではないという状況が60年代にあった。というのは現在から見直して僕らはそう語っているわけですからアンフェアかもしれないけど、60年代にミニマリズムとかコンセプチュアル・アートとかいろんなものが出てきて乱立しているような状況ですけど、その時に何が起こっているかというと、画廊というスペースは、高島さんがおっしゃった芸術を日常に引きつけるという考え方に引きつけて言うと、まさにファッションのスペースになっている。画廊というスペースが商品化のセットアップの中に先端的なアイテムとして完全に組み込まれている。実際にファッション雑誌の撮影が行なわれたりとか、そんなことが40年代半ばぐらいから起こってきますが、60年代になると作品そのものがトレンド化していくし、画廊を巡る人びと、環境そのものが完全に文化産業の中に組み込まれていく。
そういう状況において、画廊というスペースの中でぬくぬくとモダニストペインティングの内在的な批判をやっていたのでは立ち行かないなという感じが共有されてたと思うんですね。そういう中でミニマリストとかコンセプチュアル・アーティストたちがグリーンバーグのパラダイムを引き継ぎながら、さらに新しい理論を必要としていたと思うし、彼ら自身、ジャッドにしてもモリスにしても、新しい美術を巡る理論を書き始めるわけです。60年代半ばの状況の面白いところは、作家自身が批評文を書いたり、批評家出身の作家が出てきたりすることです。
それはグリーンバーグから次のパラダイムへの転換なんだけど、さっき2人のグリーンバーグかいると言ったことに関連して、外在的な歴史状況に対するまなざしというのがミニマリストとかコンセプチュアル・アーティストたちにむしろ引き継がれていく。60年代半ばの状況を見ていると、グリーンバーグはグリーンバーグによって復讐されているような感じがします。何が言いたいかというと、モダニズムの中にある自己批判という考え方をあっさり片づけられちゃうところがあるんだけど、ポストモダニズムになったって自己批判的なまなざし、とくに歴史意識を伴ったまなざしというのは連綿とアメリカの文脈の中では受け継がれている。その中で理論と実践との対立というか、理論の挑発に対して実践はどう応えていくのか、あるいは埋諭のイラストレーションとして実践があるだけなのかということが何度も繰り返されるわけです。
80年代のシミュレーショニズムはいい例ですけど、ボードリヤールなんかが読まれて、それに対してピーター・ハリーとかああいう作家たちがボードリヤールを援用しながら自分の作画活動を続けていくわけです。本当につまらないものだと思いますけど。それに対して、それを超え出ていくような実践がそれに応えて起こっていくというような、わりと日本から見ると幸福な弁証法的な運動が、アメリカの現代美術の戦後の状況をずっと貫いているような感じがします。

[高島]…アメリカのモダン・アートの流れと理論生産は、僕が最初に言ったような資本主義の出発とアメリカに関してはほぼ同時なんですよね、時間的な流れとしては。前衛とキッチュがイタチごっこしているというのは、アメリカ型資本主義経済のサイクルとかなり相同的ですよね。

[林]…今またアメリカは景気がいい。日本のバブルのような状況になっていて、ニューヨークに行くと、あちこちで建築工事をやってるし、道行く人はいいものを着てるし、目に見えるんですね。それがすぐ現代美術の世界に反映されて、ここ1、2年、物が売れてたり、あちこちでホテルなんかを借りて作家やディーラーたちがパーティをやってたりという状況になっているわけです。その辺の結びつきは本当に直接的だと思います。

[高島]…同じような問いで、モダンとポストモダンという対立的な考え方というのはシラケていながらも笑い飛ばすことができないようなかたちであるとすると、松浦さんはどんなふうに考えますか。

[松浦]…あまり大それた話はできないので、今、林さんがおっしゃったことに連なるような仕方で述べると、「前衛とキッチュ」のグリーンバーグと、もう1人のグリーンバーグがいるという指摘は、まさにそのとおりだと思います。「前衛/キッチュ」というグリーンバーグのテクストに書き込まれた対立は、「より新しいラオコーンに向けて」以降の、もう一つ別のグリーンバーグの中でも維持されたのだろうとは思いますが、この対立を示す用語が明らかに変わったと思います。そして、言うまでもなく、この用語の変更は、グリーンバーグの思考の体系の変異を露呈させています。この用語の変更とは、つまり前衛の代わりに芸術という語が使われ、キッチュの代わりに趣味という語が使われたということです。前衛/キッチュという対立から芸術/趣味という対立への変換に、いわば2人のグリーンバーグの分裂が露呈していると思います。
1951年の「シンポジウムへの寄与」というテクストで、グリーンバーグが芸術と趣味という問題に関して書いていますが、大芸術が現われて、グリーンバーグは30年後ぐらいにそれがスタンダードな趣味として形成され、また一般的に流通するようになる。そうすると、この趣味が凡庸化してしまい、この一般化した趣味の地平が、また新たな芸術的価値を持った作品によって超出され、それがまた30年後に新たな趣味として流通することになる。30年というサイクルをとりあえず設定していましたが、今まさに林さんがおっしゃったように芸術と趣味の弁証法らしきものが構想されています。そういう意味で、林さんが言及されたオリツキーの作品などはよき趣味を体現する作品なのかもしれませんが、芸術の指標を付与されるような作品ではないのかもしれません。

[林]…それは僕の個人的意見ですが。

[松浦]…よくわかっています。ただ、今指摘されたような弁証法的な思考の構図はアメリカに限らず、モダニズムという思考の体系を作動させる枠組みであると同時に、今でもモダニズム/ポストモダンという対立項を使って話をしようとすると、どうしても現われてこざるを得ない思考の枠組みであると思います。リオタールの言い方を借りれば、ポストモダンでなければモダンであり得ない、ということでしょうか。モダンであるということが、現在の趣味の状況から超え出ることであると規定されるのだとすると、ポストモダンでなければモダンではあり得ないという奇妙な命題が説得力を持つことになります。ポストモダンという語は、日本でも1980年代頃から美術の世界でも広く流通した語ですが、僕は個人的にはこのようなかたちで流通した、モダニズム/ポストモダニズムという対立は、そもそも対立なのかどうかも怪しいと思います。むしろ、偽の対立なのではないかと思えてならないし、むしろ、このモダニズム/ポストモダニズムという語を借りてはあまり思考したくないという気持ちがあるのですが。もっと違った語ないし、もっと違った対立を巡って思考を組織すべきではないかと考えています。

[高島]…東さんは何か付け加えておきたいことはありますか。

[東]…あります(笑)。簡潔に言いますが、モダンという言葉をどういう意味で使うのか。ポストモダニストでなければモダニストであり得ない、もしくはモダニズムであるということはつねにモダニズムを超えていくことなので、それはイコール、ポストモダニズムであるというタイプの言葉というのはあるわけです。これは単なる用語の混乱だとしか僕は思わないので、ポストモダンなどという言葉は使わないほうがいい。近代というのは自己批判の精神であるというのも極めていい加減な規定だと思うんです。これだとソクラテスとかもモダニストになってしまう。そういうふうに読むこともできるわけです。この手の思考をすると、あらゆる歴史的考察がすっ飛んでしまう。歴史的考察のレヴェルに足をとどめる場合は、自己批判の精神が近代的にはどのようなかたちをとったのかというふうに考えなければいけない。その場合の近代というのも、いつからいつまでなのか。デカルトは近代なのか。ルネサンス以降が近代なのか。僕の考えでは、ミシェル・フーコーに規範をとって、19世紀と20世紀半ばぐらいまでの150年ないし200年間を近代と呼ぶ。つまりカント以降ですね。
近代の自己批判はどのようなかたちで出たのか。それは深さの探求です。より深いところに潜るというかたちでの自己批判なわけです。これは確かにカントから出てきた。ミシェル・フーコーの考えではそれは深さの発見なわけですが、近代型の自己批判というのがあって、これはある歴史的な誕生の時点を持っている。と同時に、それはある時点で歴史的役割を終える自己批判の仕方だと思うわけです。そういうふうに単純な時代区分として近代という言葉を使った場合、ミシェル・フーコーがカント以降と言った、そのカント以降と同じ地平にわれわれは立っているのかどうかということを疑ってもいいと思うんですね。これが最初はポストモダンという言葉の意味だったと思うんですよ。
つまり1960年代から70年代にかけてパリでフランス現代思想と言われるものが出てきて、それがアメリカに移り、高度消費社会の分析と結びつき、それと同時に、その頃は左翼運動の挫折とカウンター・カルチャーの勃興その他もろもろ、さまざまに複雑な条件があった時に、われわれは本当にカント以降の地平に立っているのだろうかという極めて素朴な問いがポストモダンという言葉の爆発的流行と結びついたと思うんですね。ただ、それが誕生と同時に極めて厄介に抽象化されてしまったと僕は感じているわけです。ポストモダニストであることはモダニストであるとか、その逆のバージョンもあるわけですが、そういうことのせいで問題がねじれてしまった。
ポストモダンと言われるボードリヤールの「シミュラークル」にしても、リオタールの「大きな物語の崩壊」にしても、もっと前のドゥルーズの「差異」とかデリダの「グラマトロジー」というところまで戻ってもいいんですが、そこで提起されていた問題はもっと素朴な問題だったと思うわけです。その限りでのみ僕は「ポストモダン」という言葉は使うべきだと思っているんですね。そうでないと、19世紀の頭に起きた問題も19世紀末に起きた問題も20世紀の頭に起きた問題も今の問題も全部同じに見てしまう。
たとえば1990年代におけるコンピュータ・カルチャーを考えている時にベンヤミンを参照してしまうようなことが起きるわけです。ベンヤミンは1936年の段階で非常に重要なことを書いているけど、あれをそのまま使うということは極めて歴史的感覚を欠いた乱暴な行為だと思うんですよ。思想とか人文科学といわれるところでは過去のテクストにすべてがあるというタイプの乱暴な読みが流通する。そのほうがかっこいいですしね、「ベンヤミンはこう言っている」と言えるので。そういうことを阻むためにも、われわれは60年代か70年代以降、ちょっと違った空間にいるんだ、ベンヤミンも複製技術について考えたが、われわれが複製技術について考える時は違った視点が必要なんだと言うためにもポストモダンという言葉を使うべきだというのが僕の考えです。

[高島]…うまく整理していただいてありがとうございます。ベンヤミンの36年の「複製技術時代の芸術作品」の冒頭にヴァレリーの言葉が引用されていて、本論と繋げて読むと、その共通するテクノロジーに対する構えは、90年代には使えないだろうなということを私もずっと思っていたものですから、今はっきりと指摘されて、また考えるところが出てきました。それでは質疑応答の時間にしたいと思います。ご質問のある方は遠慮なくお出しいただきたいと思います。

[会場1]…一般的な印象ですけど、「20世紀美術と現在」というタイトルのわりには19世紀のお話が多かったなという気がします。セザンヌにしろスーラにしろ。それとスーパーフラットを巡る現在的な問題が併置されているような感じで、僕にとっては歴史的なパースぺクテイヴがあまり感じられなかったんです。最後の東さんのお話も含めて。
理論的な枠組みとしても、ヴェルフリン的な二項対立が提示されて、その枠内で動いていたという印象がありました。二項対立的な枠組みについていうと、リーグルが触視覚的というわけです。松浦さんがどこかで書いていらっしゃると思いますが、触視覚性というものは芸術作品の像に関わる。現実と表象との一致を目指したのがデュシャンで、この名前もなぜかほとんど聞かれなかった。
現実と表象との一致という話も、これまたここでほとんど論じられませんでしたが、20年代、30年代の政治的なアヴァンギャルドとの交錯といった現象と深く関わっていると思うんですね。ボリス・グロイスが『ゲザムトクンストヴェルク・スターリン』(邦訳『全体芸術様式スターリン』)で書いたような政治性の問題です。現実と表象との一致の問題。
とくにというと松浦さんに質問したいのですが、美術のポリティークあるいは絵画のポリティークにおいて現在というのはどのように規定されるのか。デュシャンが現実と表象との一致というかたちで出してきた問題は明らかにポリティークに関わる問題だと思うんですが、そのような視点から現在というものをどのように定義できるのか。われわれはセザンヌを抜け出せないのか。それでもいいんですが。
東さんが「ポストモダン」という言葉を使うべきだとおっしゃったけど、それを言うなら、ベンヤミンの時代に「モダン」ではない言葉を使ったっていいわけですし、先ほどの話はあまりにも一般論的すぎると思います。どんな言葉を使っても構いませんが、現在というものを絵画的なポリティークあるいは美術的なポリティークという視点から松浦さんに定義していただきたいと思います。

[松浦]…現在というのは今の時代という意味でしょうか。それとも現在という概念ということでしょうか。

[会場1]…定義にお任せします。セザンヌから現在であるということでもいいです。

[松浦]…うまくお答えできるかどうかわかりませんが、ごく端的に言って、僕にとっては印象主義やセザンヌの提起した問題は、現在に至るまで地続きに繋がっているように感じられます。もちろん、ご質問にあったように、歴史的な枠組みの提示なしに19世紀的な話題に終始してしまったというご批判に対しては責任を感じていますが、今申し上げたように、僕は、たとえばセザンヌを現在の問題と考えています。また、今日言及できなかったマルセル・デュシャンは、近代絵画の諸対立ないし、諸矛盾の明晰な定式化の作業を行なった芸術家と考えています。いずれにせよ、ここでは現在という言葉そのものについて考えてみたいと思います。先ほど東さんがフーコー的視点に立てば、モダンな時代はカント以降の時代と整理されたのですが、美術史の文脈においてモダニティという概念をもっとも明瞭に定義したのはボードレールだと思います。そして、このボードレールのテクストの中で僕が興味を持っている点は何かというと、現在というものを把握しようとする時に画家は絶対的に現在に遅れるという指摘、言い換えれば、いかに現在をその十全性において捉えようとしても現在を記憶としてしか、あるいは痕跡としてしか経験できないという主題が書き込まれていた点です。
その意味で言うと、近代芸術というか、モダンなアートが<いま・ここ>という現在性の場の芸術、現代生活の芸術と規定されているにもかかわらず、この芸術を根底的に支えている現在というものがすでに失われているもの、あるいは痕跡化されたものであるということになります。この逆説的な場に近代芸術は、この逆説的なものを自らの存在論的な条件として打ち立て
られたのではないかと思います。
確かに、現実と表象との一致への欲望に関しては、20世紀の芸術の一つの欲望の形態として何度か記述しようと試みたことがあります。これまでこの問題に関して僕はもっぱら空間的なメタファーの次元で、現実の内のりと表象の内のりとがどう重なり合うのか、あるいは重なり合えない場所はどこに露呈するのかということを分析する作業をしてきました。ところが、他方で、今僕にとって気がかりな問題は、現実と表象との一致の問題に、痕跡としての現在と現在そのものというか、記憶と現在と言ってもいいですけど、ともあれ現在と痕跡との関係が、書き込まれているということです。
もう一つ付け加えておきますと、これはグリーンバーグ型の批評の体系でとくに露呈することですが、先ほど林さんが言及された「より新しいラオコーンに向けて」と題されたテクストの<ラオコーン>という語は否応なくレッシングの『ラオコーン』という著作を喚起しますし、このレッシングによる時間の芸術/空間の芸術という、いわばジャンルの分類の、より厳密な適用を企てるグリーンバーグのテクストの中には実際、時間、記憶、痕跡を巡る問いがほとんど現われてきません。印象主義にせよ、近代絵画の諸問題にせよ、時間の次元の編成をめぐるポリティックス、こう言ってよければ、痕跡のポリティックスが作動しています。ところが、この次元の問題がこれまでグリーンバーグの分析においては欠落していたと思います。僕としてはこの欠如、この忘却にとても興味があります。
最後に、今日このシンポジウムに出てきながら戸惑っている理由でもありますが、現在の美術といった時に、今日はスーパーフラットの話も出たのですが、そのような現代美術と呼ばれるものと、今自分にとって深刻に思える問題とがどのように接続しているのか、自分でもよくわからないというのが正直なところです。とりとめもなく、また、わけのわからない答えで申しわけありません。

[東]…僕の名前も出たのでお答えしますが、話が大ざっぱなのはシンポジウムという形式だということによるわけです。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術時代の芸術作品』が決定的にアウト・オブ・デートではないかと僕が思っている理由の一つは、端的に言うと、あれは映画がモデルだからなんですね。映画をモデルにして複製技術について語ることがわれわれの時代で有効かどうかというのは極めて疑わしい。これはベンヤミンを引用しなくてもそうなんですね。テレビモデルもやはり映画モデルに結びついている。
松浦寿輝さんの『平面論』という本があって、非常にいい本なのですが、一番最初に群衆のイメージとして、世界中みんなで一緒にサッカーのワールドカップの中継を見ている群衆というのが、20世紀後半の群衆の一つの姿だと松浦さんは書いておられるんですね。僕はこの点には強い違和感を覚えたんです。それは違うだろうと思ったんですね。それはマクルーハンのグローバル・ヴィレッジのイメージなんです。インターネット革命と言われているものは1970年代から始まっているので、70年代以降の情報技術が可能にした群衆というのは、僕の言葉で言えば極めてディスシンクロナイズドであって、あらゆる人があらゆる時間に何を見ていてもいい。
たとえばサッカー中継がインターネット放送されている場合、5分遅らせて隣の人が見ていてもいい。みんなが同時に同じプレーを見ているのではないわけです。にもかかわらず、その総体が一つのインターネットというものに緩やかに属しているような、そういうシステムなんですね。サッカーという世界的なイベントが一つあって、それが中継されることによって全感覚的に世界中が結びつくというか、村になっていくというイメージでは語れない。そういうかたちでのメディア論の一つの起源もまたベンヤミンにあるわけで、この点は修正されなければならないだろうと思うわけです。そういう細部の読みが行なわなければならない。
ベンヤミンの名前を出したのも偶然のことではなくて、ベンヤミンというある種天才的な若くして死んだドイツの評論家には、「翻訳者の使命」という論文がある。これも翻訳諭では頻繁に参照されますが、非常に謎めいたユダヤ神秘主義が入った論文でして、読もうと思えば非常によく読めるんですね。僕自身、ジャック・デリダの非常に見事な「バベルの塔」という翻訳者の使命論を読んだことがあって、それに感銘を受けた口なのでわかるのですが、ベンヤミンというのは読み込もうと思えばどこまでも読み込めるところがあって、素材として危険な著者だと僕は考えているんですね。とくにメディア論をやる時に、どこまで「ベンヤミンも指摘するように」と言っていいものかどうかは疑問に思う。そういう著者だと思っているということを言っておきます。
今日の僕の話は一般的にぼんやりした話のように聞こえたかもしれませんが、色彩と線の対立というのは、僕のほかの仕事を知っている人だったらわかるとおり、ラカンの言葉で言えばイマジネルとサンボリックです。なぜイマジネルとサンボリックの話が出てくるかと言えば、最初のほうでちょっと言いましたが、僕はタイプライターのことを考えていた。筆とペンの対立というよりも筆とタイプライターの対立ですね。「筆とタイプライターの対立というのは、フリードリヒ・キトラーも指摘しているように」というふうに、キトラーを使っていいかどうかも問題なのですが、それは横において、キトラーも指摘しているとおり、ラカンのイマジネルとサンボリックの対立というのは、映画、タイプライター、グラモフォンという19世紀末のメディア環境を反映したメタ・メディア論としてラカンの精神分析は作られている可能性がある。僕はこの指摘も正しいと思います。
それに対するジャック・デリダの批判が70年代に出てきたということをメディア論的に読み直すというふうにして考えてきた場合、色彩と線の対立というのはもはや単なる美術史の問題というよりも、僕にとってはこれもまだラカンとデリダの問題の一つのバリエーションが、ここに現われているのだろうと考えることができるわけです。
というわけで、僕はリキテンシュタインの70年代の試みも当然のようにジャック・デリダの70年代の試みと並行して読んでいまして、その点でも、もう少し厳密な話になり得ると思います。ということをお答えしておきます。

[高島]…よろしいですか。ほかにいらっしゃいますか。

[会場2]…どなたに答えていただいてもよいことなんですけど、先ほどから画廊の問題や、ブラックか誰かの問題で壁に掛けるという話が出たことから、私の経験などを含めてずっと考えてたことなんですけど、日本画の場合だと掛け軸であるとか屏風という形態があります。印象派になると、印象派は外で描くようになったことによって光が画面に導入されたという話もあります。なので、絵画の流れを推し進めるには、それが描かれるとか置かれる環境の設定がすごく重要な問題じゃないかと思うんです。
私が質問したいのは、作品が置かれる設定や環境というものが絵画の流れを推し進めることはないでしょうかというのが一つです。その設定と絵画の発展ということに対してあまり議論されているのを聞いたことがないし、そういう文献などを口にしないのですが、それはどうしてなんでしょうか。あまり重要な問題ではないからでしょうか。

[林]…設定というのは、購入されたあとに設定されるのか、それとも生産の場面での設定ということですか。

[会場2]…どちらかというと、完成されたものが置かれる設定です。

[林]…そういう角度から美術史的な観点で研究されてる方はかなりいると思います。古典ですけど、ゴンブリッチの『手段と日的』という本がありますし、マイヤー・シャピロにも重要な画面形式論(”On Some Problems in the Semiotics of the Visual Arts, Field and Vehicle in image-Sight”)がありますけど、そういう観点で譜かれた美術史的なものはけっこうあると思いますね。

[会場2]…私の勉強不足かなという感が強くなってきたので、教えていただきたいのですが、ホワイトキューブといって、画廊の白い壁というのが…。

[林]…ホワイト・キューブというのは、正確にいうと僕の言葉じゃなくて、ブライアン・オドーハティ(Brian O’Doherty)という批評家が、70年代後半から、画廊空間のイデオロギーを批判するために積極的に使い始めた言某で--もちろん、それまでも俗語的には使われていたと思いますが--、彼のエッセイ集が、”Inside the White Cube”というタイトルで出版されています。
画廊システムで言っておきたいのは、画廊や美術館の壁に今みたいに横並び一線で、しかも、すき間を持って絵画を掛けるようになったのは20世紀になってからのことで、それはすごく重要だと思います。それから画廊というスペースが制度として確立して、それが今日にまでずっとくるわけですが、画廊というスペースが60年代半ば頃から係争の場になるところがあるんですね。絵画の商品化ということに絡んで、それに抵抗するというか、単純化していうと、ミニマリストなんかは画廊空間そのものを作品と化すようなインスタレーション的な仕事を始めるわけです。
それは画廊というフイクショナルな中立の空間があるからできることであるけれども、逆に言うと、そこに入ってきている資本主義的な力に対する抵抗の仕草であったかもしれない。そういう両面性があると思いますけど、画廊という場自体が係争の場になっていくのが60年代半ばぐらいからで、それからさらに画廊から外に出ていくコンセプチュアル・アートにしてもアース・ワークスにしても、そういう仕事があるわけです。作品が置かれる場に対して先鋭的な自意識が出てくるのは60年代の後半ぐらいからと言っていいと思います。

[高島]…もうお1人ぐらい、もしいらっしゃったら。

[会場3]…初めの高島さんのほぼ敗北宣言的なイントロダクションから、このシンポジウムという場ではあまりはっきりしたことは聞けないだろうなと思ってました。これはいっちゃったかなという感じがしたのは、東さんが認知科学みたいなことを話した時に、ウサギとアヒルの問題で、認知の問題と思考の問題を混同しているんじゃないか。たとえば図を知覚するという問題と、それをなんと認識するかという問題は同一視してはいけない問題であって、その図は自分としては見えている状態で、それをウサギと判断するか、アヒルと判断するかという問題は別の問題じゃないかと僕は思うんです。もしかしたら僕がおバカさんなのかもしれないんですけど、どうなんでしょうか。

[東]…なぜそんなにけんか腰の言い方なのか僕には理解できないんですけど(笑)。80年代後半から認知科学ではコネクショニスト・モデルというのが有力になってまして、コネクショニスト・モデルでもいろんな立場の人がいるんですが、その中でも主流派的なチャーチランドという人が人間の天文学的な認識とかも認知だと言ってますね。そういう発想の人もいるわけですよ。思考と認知の区別をつけない人もいる。こういうことをいちいち僕は説明しないとしゃべっちゃいけないわけですか。

[会場3]…そうじゃなくて、途中で切れちゃったわけですね。はっきりいったら専門外の話を持ち出してきちゃったわけですよね。

[東]…誰が?

[会場3]…あなたが。

[東]…いや。そんなこといったら、ここに呼ばれてること自体、僕は専門外だし。

[会場3]…そうなんですか。

[東]…そういうけんか腰の質問で人の関心を引こうというのはすごく子どもっぽいから、やめたほうがいいと思います。

[会場3]…ありがとうございました。

[高島]…ぼちぼち時間がきておりますので。今日は線と色彩という問題設定で、会場からの声にもあったように、19世紀末ぐらいからずっと引っぱった話が一つのコアになっていったと思います。また、最初に提起しました「純粋芸術と複製芸術」ないしは「芸術と日常の関係の回復」についても、その認識と実践のステージは「絵画」の画面という、物理的な次元にあって、そこに美術のポリティークの発生現場があることの確認がなされました。しかしまた、その根底を支える<現在>が、近代芸術という枠組みといかに折り合っているのか、また折り合っていないのか。その再現と表象が可能なところと不可能なところとの境界線の論点を、お三方によって掘り出していただいたと私は思っております。
今日はたくさんの方々にお集まりいただきましてありがとうございました。

●パネリストプロフィール
●東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京生よれ。東京大学総合文化研究科・超越文化科学専攻博士課程修了(哲学・表象文化諭)。学術博士。専門はジャック・デリダ研究.ほか文学評諭も手掛ける。著書に『存在論的、郵便的』、「郵便的不安たち』、『不可視なものの世界』がある。

●林道郎(はやし・みちお)
1959年生まれ。コロンビア大学美術史学博士号取得。クーパー・ユニオン講師を経て、現在、武蔵大学助教授。専門は西洋近現代美術史および評論。

●松浦寿夫(まつうら・ひさお)
1954年東京生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。現在、東京外同語大学助教授。近代芸術の歴史/理論専攻。また、画家としても活躍。

●高島直之(たかしま・なおゆき)
1931年仙台市生まれ。武蔵野美術短期大学デザイン科商業デザイン専攻卒業。美術評論家・1970年代半ばより出版編集に携わり、1980年代半ばより美術評論を始める。1994~1996年、ギャラリーαMキュレーター。最近の論文に「戦争のエポック/芸術のメルクマール」(『Inter Communication』32号、2000年)、「よみがえったル・コルビュジュ 国立西洋美術館の改装をめぐって」(月刊『東京人』1999年10月号)。著書に『中井正一とその時代』(青弓社、2000年)。

(※略歴は2000年当時)

イメージは語る ──「資本空間 vol.2 村上華子」展
沢山遼

 

1.
イメージなしの歴史を想定することができるだろうか。とりわけ、人間がイメージ生産の技術とその普及を爆発的に増幅させた20世紀以降の歴史を語るときに。
歴史は、もはやイメージなしには語り得ないものになった。人間の存在様式は、イメージの歴史と深く結託することになり、そのため、イメージの解読が、テクストや証言と同等か、あるいはそれ以上に、歴史や文明についての克明な言辞となりうるような局面を迎えることになる。言い換えれば、写真、映像、印刷媒体などの技術的展開とともに、20世紀において人は、「イメージによる歴史記述」という新たな歴史記述の様式の獲得を模索してきたのである。
ここ十数年来、日本にも積極的に紹介されてきたジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ハンス・ベルディング、ジョナサン・クレーリー、ジェフリー・バッチェンらのイメージに関する学は、まず、なによりも美術史的な抑圧から人類学的・文明論的なものとしてのイメージを開放しようとする企図に支えられたものであり、さらに、イメージこそが、主体を編成し、無意識と意識を縫合し、あるいは主体の安定性の崩壊や危機に関与するものであることを示そうとしてきた。それは、しばしば主体による美学的な静観・観想の対象=客体として伝統的メディウムを記述してきた美術史学的方法論との立場の違いを明示することになるだろう。つまり「イメージの歴史」を記述することは、客体の歴史の記述に終始する「美術史」とは決定的に異なり、人間あるいは主体の編成それ自体の歴史的過程に関与するものになるのである。
上記した者らの研究において、フーコー的な「考古学(アルケオロジー)」がしばしば参照されるのは、フーコーの歴史学が、主体の存在様式をその都度発明し、編成する技術(テクノロジー)の歴史的様態を問うものであったことと無関係ではない。すなわち、人間がテクノロジーを客体的に維持し、あるいはコントロールするのではなく、人間こそがテクノロジーによって編成されるものであったということである。そしてそのような主体の編成はもちろん身体を主要な場として行なわれる。そのためフーコー的な枠組みに従えば、それぞれのイメージの生産技術は、その都度、新たな身体的変容の場を主体に与えてきたということにもなるだろう。
イメージをそのようなテクノロジーとして捉えるならば、イメージそれ自体は決して一枚岩的なものではありえず、その都度、個々の技術的・物理的特性を通して主体の身体と切り結ぶ、それぞれに固有の歴史的過程と特異性を備えた歴史的主体であると言える。イメージは、普遍的で非歴史的な超越性をもつものなのではなく、それぞれに固有の起源と身体的な肌理をもつ。いずれにしてもイメージとは、ある歴史的過程において出現したものであり、イメージこそが、客体あるいは媒体として以上に、主体的に自ら歴史を語りうるものになる。すなわちイメージを客体的な資料体として扱うのではなく、イメージの主体的な語りに賭けること。そこにおいてこそ、イメージに関する学は、人類学的な布置を獲得するだろう。

 

2.
イメージの歴史的過程に随伴する、イメージによる積極的な「語り」の次元を賦活化することにおいて、村上華子の実践は、イメージの人類学、あるいはイメージの考古学の系譜の一端に位置づけられるかもしれない。村上の関心は、個々のイメージの歴史的・考古学的「起源」に向けられている。銀塩写真やダゲレオタイプの発明についての考察とその再現、聖ヴェロニカの聖骸布の神学的イメージの脂取り紙による再演、リンカーンの1セント銅貨のメッキ加工された表面の輝きが暗示する金本位制からの脱却など、どの作品においても、ある特定のイメージの起源が語られることにより、イメージとは一個の出来事であり、ゆえにそれは特定の歴史を生産してきたこと、そして――写真や映画が発明されてきたように――イメージは、その都度、固有の時間と空間を生産してきたものであることが語られる。
しかし、それ以上に村上の作品において問題とされているのは、イメージの起源の探究においてそのイメージを現在時に甦生させるその手続きである。今回の個展では、いずれも村上が、すでに時代遅れになったその技術を再度復活させ、もう一度つくり直すことによって作品が制作されている。作品の傍らに添えられたテクストを引用する。

  銀メッキした銅板の鏡面に現れるイメージ。これが、写真の最初の姿であったらしい。ダゲレオタイプ。いまでは無限に複製し流通できる写真も、その発明当初は一点物であった。その技術を今も保持しているというダゲレオティピストのもとへ、わたしはインターネットで見つけた雲の写真を一枚持って訪れた。(註1)

村上は、いまでは時代遅れになった技術にもう一度手をかけるため、ダゲレオティピストのもとを訪れる。あるいは1920年代に販売されていた写真乾板「ザ・パーフェクト」をレディ・メイドの変種として展示する。それら時代の遺物は、今度は村上華子の「作品」として、再び現在時へと送り込まれることになるだろう。そこで現象するのは、現在時と過去の時制との交錯である。各作品に添えられた、イメージの技術の始源をめぐる逸話的なエピソードとともに、村上自身の経験が語られるテクスト群は、そのような事態を曖昧に指し示している。個々の作品を支えるのは、このような複数に逸脱する時制の交錯である。
そのような事態は、作品それ自体のありようにひとつの亀裂をもたらすことになるだろう。たとえば観者は、展示された写真乾板を見て、それが倉庫に眠っていたレディ・メイドなのか、それとも作家自身によって2000年代に制作されたフェイクなのかを知ることができない。このような複数の時制の錯誤は、時の流れの一義的な方向性を転倒させるという意味での、アナクロニスムに貫かれている。さらに、このようなアナクロニスムは、インターネット上の雲の画像をダゲレオタイプに焼き付けるというプロセスにおいて、複数のイメージの歴史を交配させるという行為に及ぶことにも注意しておきたい。そこでは、過去と現在の複数のイメージ生産の技術が交錯することになるのだ。
村上は、ダゲレオタイプによって映画をつくるという計画を構想したことがあるという。だが、もちろん歴史的には、写真のあとに、映画の発明が行なわれた。複数の写真をつなげたものが動画になるという過程は、歴史的なものであり、通常逆行することができない。その意味で、もしダゲレオタイプによる映画が実現するとすれば、それは時間の関節を外す試みとなるだろう。すなわち、村上の作品は、複数の時間が交錯することによって、それらの時間を支える固有の体制が破壊される、その一瞬に掛けられているのだ。

 

3.
そこでは、起源がすでに終末であり、終わりが始まりであるような複数の時間の共存可能性が探られることになる。たとえば、マヤ暦が言う「終末」のあとに、世界の終末が来なかったことの記念として刷られたポスターは、世界の終末こそがはじまりであるという二重性を語る。

  世界の終わりに関して言えば、マヤ暦は2012年12月22日を最後として、続きがなかった。これを世界の終わりと解釈する者もいれば、新しい時代の幕開けとする者もいた。あるいはよりフレキシブルで非物質的なテクノロジーへの転換を意味するという解釈もあった。私はこの日をマヤ人たちの末裔の国、コロンビアで迎えた。その翌日、世界が滅亡しなかったことを祝福するべく私は木版の印刷屋に行った。印刷工は、踊る男女と二羽のニワトリを私のポスターに選んでくれた。そのニワトリは私のポスターの上で啼いてくれた。「世界の終わりは来なかった」と。

あるいはこのようにも語られる。ダゲレオタイプを発明した、つまりその「起源」に立ち会っていたダゲールは、同時に、水銀による中毒によって、世界の「終末」に立ち会っていた。

  現像に水銀蒸気を用いるこの撮影技術では、危険に曝されているのはむしろ撮影者の方である。水銀の害が知られていなかった当時、ダゲールは大量に蒸気を吸っていたらしい。この発明家をめぐる言説によれば、彼は神経を侵されたあまり世界の滅亡が近いという考えにさえ強迫されていたという。

写真技術の始原は、「終末」への妄想と強迫に苛まれていた。そして、このような、行き違い交錯する時間の感覚は、村上がこれまで追究してきた、イメージそれ自体の真偽の不確かさという問題にも触れるものである。たとえば村上は、過去作において、ある人物になりきり、歴史的な遺物として偽装された写真などを制作してきた。そのようなイメージは、過去の残骸のなかから甦生した「フェイク」としての遺物であった。過去につくられたと思しきものは、実は過去を擬態したものに過ぎず、そのことによって時間のモンタージュが行なわれる。すなわちここでは、時間の複数性を折り畳むという行為が、イメージそれ自体の真偽の問題へと折り返されているのだ。

 

4.
以上のプロセスによって、村上華子の作品空間では、聖ヴェロニカの聖骸布に「見立てた」脂取り紙に顕著に見られるように、それ自体が、「偽=フェイク」であるイメージがそこここに立ち上がることになる。リンカーンの肖像が刻印されたメッキ加工された硬貨もまた、フェイクであること、銀貨に「見立てた」偽のものであることにおいて共通する質をもつ。

  ダゲレオタイプに用いる板を得るには銅板を銀メッキしなければならない。銅板を青酸カリの溶液を満たした水槽に浸し、電流を流しながら銀を化合させるのである。文明の歴史と同じくらいの歴史を持つというその技術を眺めながらわたしは、リンカーンについて考えていた。初めて紙幣というものを政策として導入し、同じ通貨価値の硬貨と同等のものとしたのが彼である。リンカーンは、奴隷を解放するだけでなく、貨幣を金属から解放したのだ。「リバティ」。アメリカの1セント銅貨のリンカーンの肖像の横にはそう銘記されている。わたしはその銅貨に銀メッキを施すことにした。

リンカーンは、金属の実体的な価値に拘束された硬貨から、「信用」という非実体的な価値に担保された紙幣の流通へと貨幣を解放した。紙幣とは、「信」に裏付けられた、いわば「仮の」貨幣である。その行為をなぞるように、村上は、銅貨を銀メッキし、フェイクの銀貨をつくりあげた。翻ってここでは、自己言及的に、村上の活動それ自体もまた、一種の「偽金づくり」にほかならないことが示唆されているのだろう。銀塩写真やダゲレオタイプの始原の再演は、技術と創作、事実とフィクション、過去と現在の境界を溶かす。
『知覚の宙吊り』でジョナサン・クレーリーが報告するように、19世紀末の視覚文化は、催眠やトランスといったファンタスマゴリアに浸食されていた(註2)。その意味で、村上は、イメージの技術的起源の探究において、水銀中毒に冒されたダゲールをはじめとするそれぞれの技術の始原に孕まれていた、いかがわしさやトランス的夢想、オカルト的様相をも正確に捉えている。そして、このようないかがわしさにおいて、イメージの起源の探究と、「偽金づくり」としての村上のこれまでの作品との共存が図られることになるのである。村上が作家としてイメージの「起源」を問うことの正当性もまた、そこにおいてこそ確保されなければならない。
今回の個展でヴェロニカの聖骸布が取り上げられたのは、キリストの「痕跡」である聖骸布が、イメージのもっとも原始的なありようを示す、イメージの初源的なモデルとして参照されてきたことに加え、聖骸布それ自体の真偽が謎に包まれてきたことに関係しているだろう。キリストの染みが痕跡として写し取られたとされるトリノの聖骸布は、科学的検証の結果、実は、表面に特殊な薬剤を塗布した人体を布で包み、その状態のまま屋外にさらし太陽光に当てて「感光」させたものであるという報告がなされている(註3)。つまり、驚くべきことに、トリノの聖骸布をつくりあげた技術者は、写真の発明以前に、写真の原理を知っていたことになるのだ。聖骸布とは、写真以前に写真的技術が用いられた最初期の事例であり、その目的は、フェイクをつくりあげることだったのである。写真の始原は、すでにして「偽金づくり」だったわけである。
そのプロセスは、今回の村上の制作とまったく同じ様相を呈している。イメージは、真偽の別をなし崩しにする幻視によって捉えられた、逸話的空間において生起するだろう。そのような逸話的空間における思弁こそ、ほかでもない、イメージの語るところのものなのだ。イメージの歴史とは、イメージが自ら語るところのものの歴史なのである。

 

(註1)本稿の引用は、すべて村上の個展で展示されたテクストによる。
(註2)ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り―注意、スペクタクル、近代文化』岡田温司監訳、平凡社、2005年、第3章参照。
(註3)リン・ピクネット、クライブ・プリンス『トリノ聖骸布の謎』新井雅代訳、白水社、1995年参照。

瞬きと瞬き──「トランス/リアル — 非実体的美術の可能性vol.4 相川勝・小沢裕子」展

中尾拓哉

 


相川勝・小沢裕子 ≪rhythm≫ 2016 |写真:木奥恵三

 

1.
rhythm──と入口に書かれている。柱が並ぶ広がりのある空間には、何もない。ただ照明がスイッチ音を鳴らし、ショートしたかのように、一斉に点滅している。しかし、周期的な律動を表すrhythmという言葉に対して、その点滅は余りに不規則である。
鑑賞者は何らかの規則性があると推測したはずである。身体の動きがセンサーに反応しているのではないか、というように。確かに、まずセンサーが想像された。けれどもなぜ、ランダムな値でプログラミングされていると考えるより先に、センサーを探したのであろうか。前者ならば受動的に、後者ならば能動的に振舞うことにもなりうるのだが判然としない。鑑賞者は、何らかの規則性があるはずのrhythmの中で、擬似乱数列と乱数列の間へと迷い込んでいく。
rhythmとは何か。奥の壁には文章が映し出されている。白い壁に白い字でプロジェクションされ、照明が消えている間しか読むことはできない。消灯は(逆説的に)フラッシュのように一瞬である。点滅の規則が説明される。

   それはここにいるひとりの人物の瞼の開閉と同期しているのです(註1)

「ここにいるひとりの人物」とは「(常に)ここにいるひとりの人物」、すなわち監視員である。監視員のかける眼鏡に、瞼の開閉を検出するセンサーがセットされている。
通常、点灯している展示空間の照明は、瞼を閉じるという動作のたびに消灯する。見ているときに点灯し、見ていないときに消灯するのだから、瞼の開閉を行う人物にとっての視界は照明が点灯している状態であり続ける。ゆえに異質なのは、鑑賞者にとっての消灯している=見られていない瞬間であり、そこから反転する、点灯している=見られている(可能性のある)時間が生じることだ、とまずは言える。
このときジョン・ケージによる作曲で、デヴィッド・テュードアがコンサートにおいては開かれたままのピアノの鍵盤の蓋を閉じ、鑑賞者に意識されていなかった音を聞かせた4分33秒間が想起されるであろうか。そしてマーティン・クリードが展覧会においては点けられたままの天井の照明を消し、鑑賞者に意識されていなかった空間を見せた5秒間も。しかし、留意すべきは、ケージの音を出さない楽曲が、感覚遮断するために入った無響室での体験、すなわち鳴り止むことなく聞こえてくる神経系統が働いている高い音、血液が循環している低い音によって導かれたことである。言うまでもなく、瞼の開閉は、聞くことに対する心音、動くことに対する呼吸のように、見ることを前提とする視覚芸術にとって最も至近な生体反応に他ならない。その開閉にかかる時間はおよそ0.1秒間である。
鑑賞者は瞼の開閉と照明の点滅、すなわち視界と空間が直接的に同期させられていると知り、他者が見ている領域そのものに入り込んでしまったように感じるかもしれない。瞬き(またたき)と瞬き(まばたき)が、相川勝と小沢裕子によって、クリードの暗闇を引き入れながら、ケージの楽曲の契機となった身体の生み出すrhythmの方へと近づけられていく。

 

2.
人間は目を開けて覚醒している間に平均して一分間に十数回、両目を閉じる。この動作は、開閉を意識的に行う随意性瞬目、目を保護する、あるいは驚くなど外的な刺激によって開閉が反射的に行われる反射性瞬目、そしてこれら二つの瞬目を引き起こす要因が特定されないにもかかわらず開閉する自発性瞬目の三つに分類される。自発性瞬目は、眼球の湿潤に必要な頻度を大きく上回ることもあり、心理状態にいっそう深く関わると考えられている。
なぜ人間は自発性瞬目をするのかと問いたくもなるが、しかしここでのrhythmが、これら三種類の瞬目の組み合わせ(センサーが片方のレンズにしかつけられていないため、片方の瞼を閉じ、密かに合図を伝達しようとするウィンクを含む)によってのみ不規則だということではない。そのrhythmは偶然に向かって投げられているのだ。奥の壁に書かれた文章には続きがある。

  あなたがやってくる
私はあなたが来たのを意識する
あなたの存在は私のリズムを狂わせる
あなたは私がいるのを見つける
あなたは私がいることを意識する
あなたの存在は私のリズムを狂わせる
そうやって、私たちは独自のリズムを作り出す(註2)

この空間内で振舞う鑑賞者の、意識的、反射的、心理的な「動作」および「瞬目」を通じ、監視員の何気ない瞼の開閉が引き起こされている可能性がある。われわれは、私/あなた/彼・彼女……という人称とともに、相互に反応し合い、断続的に関係を結んでいる。けれども、ここでのrhythmは、むしろ自己/他者を含め、誰にも気づかれずに行われている動作の掛け合いによって、そうした関係以前にある連鎖の中でとられているのである。
ギャラリーに入り、まず照明の点滅の不規則性にセンサーを探したのは、そのrhythmの向こうに、自分自身を含む、人間という非機械的なセンサー同士の伝播が、能動的でも受動的でもあるような中間的な在り方で連鎖している、とすでに感知されていたからであろうか。少なくとも、それはコンピュータの規則的な演算によって不規則であるかのように生成された擬似乱数列でも、規則性をまったくもたない乱数列でもない。瞬き(まばたき)と瞬き(まばたき)が、複数の人間の行う直接的/間接的なコミュニケーションの流れに任せ、意識的、反射的、心理的な領域から無作為に抽出される値を、いたるところで回路へと侵入する電波のように飛び回らせ、連動させているのである。

 

3.
なぜ、このような現象が生起させられているのであろうか。その一端は、オープニング・パフォーマンスにおいて表されている。マイクに向かい話をする一人の役者にイヤホンが付けられ、そこへ相川と小沢が携帯電話を使用し遠隔から話の内容を伝達する。このパフォーマンスは2014年に小沢がアバターで自己を移し替えるように、遠隔から役者に言葉を代弁させたアーティスト・トークと同じ方法がとられている。ただし一対一であった関係は二対一へ、すなわちメッセージは二つの主体から一つの主体へと送り込まれるという点で変更がなされた。複数の人間から一人の人間へとシグナルが送り込まれる。このことは鑑賞者とセンサーをセットされた監視員の関係に重なり合う。そして、二人の作家性をもって一人の作家であるかのように制作することにも。
こうした接続を、正確にとらえるための手がかりとなるのは、二人の制作に垣間見られる二つの共通点である。まず相川には、既存のCDアルバム(ジャケット、帯、歌詞カード、アンケートハガキ、CD本体)を丁寧に描き写した「CDs」(2010-)のシリーズがある。受動している音楽媒体に対し、可能な限り精緻に複写する方法でフェードインしながら、自身の痕跡を馴染ませていくかのようなフェードアウトをみせている。一方、小沢には、インターネット上にアップロードされている既存の動画に字幕を入れた映像作品(2010-)のシリーズがある。受動している映像媒体に対し、あたかも初めから付けられていたかのように字幕を上書きする方法でフェードインしながら、やはり自身の痕跡を馴染ませていくかのようなフェードアウトをみせている。さらに、そのフェードアウトに対し、相川が複写したパッケージの中に、元になるミュージシャンの楽曲を、音と記憶を頼りに没入するアカペラで歌い直し録音したCDを入れる方法、小沢もまた上書きした字幕そのものが、次第に登場人物を超えて誰のものとも判別できない人格を宿し語り出す方法で、それぞれ自己と他者の境を曖昧にする、痕跡を滲み出させていくようなフェードインをみせているのである。
二人の制作には「既存のメディアに介入しながら自身の痕跡を馴染ませていく/自身の痕跡を馴染ませながらも滲み出させていく」というなだらかな二つのクロスフェードを見つけることができる。CDや動画という他者の作品に依拠しつつ、あくまでも気づかれない程度に介入しようとする点、そして歌い直したアカペラ、上書きしたセリフという二人が残した痕跡に気づいたならば、(つい笑いがこぼれてしまうほどに)隠しきれない存在感が溢れ出す点において通じているのである。
相川と小沢による、自身の痕跡(=複写/上書き)を馴染ませながら、声(=アカペラ/セリフ)を滲み出させていくことで生まれる作品は、誰も意識していない監視員の瞼の開閉という小さな動作から、誰もが意識してしまう照明の点滅という大げさな事態を引き出している在り方に等しい。言い換えれば、二人の制作における二つのクロスフェードこそが、センサーとスイッチへと置き換えられているのだ。
センサーは監視員の眼鏡に、スイッチはギャラリーの照明に隠されている。その装置の中で、赤外線センサーによって瞼の開閉のおよそ0.1秒間にあるグラデーションがシグナルへと変換され、変換されたシグナルは点灯速度が最短であるLEDライトのスイッチとなって音を鳴り響かせながら照明を点滅させる。瞬き(またたき)と瞬き(またたき)が、二人の制作において、なだらかであった二つのクロスフェードを、一つの装置の回路の中で直結させているのである。

 

4.
介入しながら消えていき、消えていきながら現れるという二つのクロスフェードが、瞼の開閉をシグナルへと変換するセンサー、およびシグナルを照明の点滅へと変換するスイッチにあるそれぞれのインプット/アウトプットに置換される。この回路の中で引き起こされる変換を考察するにあたり、オープニング・パフォーマンスと対をなし、クロージング・パフォーマンスはきわめて重要である。パフォーマンスの内容は、相川が「CDs」のシリーズにおいて録音したアカペラのように、インターネット上にアップロードされているミュージック・ビデオをセレクトし歌い直し(相川は映像を見ずにヘッドセットから流れる音楽に集中している)、その声を自動音声認識が文字へと機械的に変換しモニターへと映し、そこで変換され続ける文字を小沢が読み上げる(小沢は読み込まずに文字を追いかけ淡々と発声している)というものである。このパフォーマンスは2015年に相川と小沢自身が別々の変換装置となるように行われたものと同じ方法がとられている。ただしその際に小沢は相川と同じくオリジナル音源をヘッドホンで聞いていたが、音源/相川/文字/小沢と一つの変換装置となるようダイレクトに入出力されるという点で変更がなされた。作家たち自らがそれぞれにインプット/アウトプットの変換装置となってシグナルが送り込まれる。このことは再び瞼の開閉を検出するセンサーと照明を点滅させるスイッチとの関係に重なり合う。
オープニング・パフォーマンスとクロージング・パフォーマンスで行われていることを素直に受け取れば、端的に一つのことが表されていよう。前者では二人の声がマイクを通し別の人物のイヤホンへと伝わり、それからマイクで発話される。後者ではミュージック・ビデオが歌によって、歌が自動音声認識によって、文字が声によって変換される。こうして人間と装置は補完し合い、入れ替えが可能であるかのように重なり合う。しかし、その過程で、いくつかの情報(言葉/意味/速度/調子/感情……)は、抜け落ちていくままに変換される他ない。ならば、二つのパフォーマンスはコミュニケーションの連続にある不和のボリュームを上げることによって、相互不理解(ディスコミュニケーション)を強調していることにもなろう。
ここにきて、ようやく両目を閉ざすという生体反応が選ばれている核心へとたどり着く。ある一定のrhythmの中で連続性を保持しようとする、心音や呼吸とは異なり、「瞬き(まばたき)」は意識的、反射的、心理的に、視覚的な世界をそのつど文字通り完全にシャットアウトしている。
すると「瞬き(まばたき)」の連続とは、切断の「瞬き(またたき)」であることがわかってくる。「瞬き(またたき)」と「瞬き(まばたき)」が同期され、「瞬き(まばたき)」と「瞬き(まばたき)」が連鎖し、そして「瞬き(またたき)」と「瞬き(またたき)」の変換によって、循環させられる。このように送り込まれていくすべての結び目において、そのつどごく微細な不和が生じていることになるのだ。
ゆえに、ここでのrhythmとは、本来的に流動しているものに対する、あらゆる「瞬きと瞬き」を変換する領域にこそ刻まれている。それは二つの要素間にある接続を断絶の不和へと反転させるという意味での、変換でもある。このねじれたrhythmは、瞼が閉じる暗闇と、照明が消灯する暗闇の間、すなわち二人の作家が感知し、他者へと表わされた二つのなだらかなクロスフェードの中心から生起してさえいる。心音や呼吸のようにゆるやかに循環する規則的なrhythmではなく、瞬目のように瞬間的に遮断する不規則的なrhythmによって、自己から他者へ/他者から自己へと同化/異化され続けるグラデーションの中にある、有機体/無機物を通過するシグナルをとらえ、そうしたサーキットにおけるあらゆる非対称性に対し一瞬のうちに拍を合わせるのだ。
相川と小沢は、音と沈黙、光と闇を反転させるのではなく、変換可能性と変換不可能性を反転させる。ならば、鑑賞者が迷い込んでいたのは、時空間的に連続する視界を遮断する瞼の開閉と空間を遮断する照明の点滅を循環させる一拍の中にある、無数の変換不可能な「瞬き」の間であったのだろう。この空間での体験、すなわちフラッシュのような暗闇によって深く呼び覚まされるのは、すべての接続を断絶へと反転させるbeat、そして変換不可能なままに今も刻み続けられているrhythmである。

 

(註1)この文章は会期中に変更された。「この点滅は、受付カウンターの中にいる監視員の瞼の開閉とリアルタイムに同期しているのです。その監視員が瞼を開いているあいだは蛍光灯が点灯し、瞼を閉じているあいだは蛍光灯が消灯します。」
(註2)この文章は会期中に変更された。「まばたきの周期は、生体的にも、心理的にも、その時の状況を反映しています。これはあなたの存在と互いに影響をし合いながら変動しているのです。このようにして見る/見られるがせめぎあったスリリングな『リズム』がここでは形成され続けているのです。」

 

 

●中尾拓哉(なかお・たくや)
美術評論家。1981年東京生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士(芸術)。2014年に論考「造形、その消失において――マルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で『美術手帖』通巻1000号記念第15回芸術評論募集佳作入選。https://nakaotakuya.com/

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