TEXT - ・ギャラリートーク 福田尚代×木村幸恵×山本豊津×鷹見明彦

2007年11月10日(土)


鷹見: 今日は雨模様のなかを御出でいただきありがとうございます。まず、はじめに展覧会の企画者としてお話しさせていただきたいと思います。司会の挨拶にもありましたように、この武蔵野美術大学によるαMプロジェクトは、近年は京橋のASK?というスペースをお借りする形で展覧会をしてきましたが、今年度は、それに加えて東京画廊さんという日本の現代美術にとっては老舗の伝統あるギャラリーと共催する形で、新しいチャンスをいただきました。展覧会は、美術館であるとか、ギャラリーであるとか、街中であるとか、いろいろな場所で開催されていますが、いちがいに場所といっても単に物理的な空間ではなく、それぞれ歴史や社会的な背景を持って育まれてきた場所でもあります。ですから、東京画廊という歴史と個性を持つギャラリーでの企画にあたっては、そのギャラリーの個性自体がひとつの動機と要素になりました。今回の作家は、福田尚代さんと木村幸恵さんにお願いしました。東京画廊の山本豊津さんから、パフォーマンスやイベントをこの展覧会に組み込みたいというご提案をいただいて、それも踏まえて複数の作家による企画を考えました。2人の作家の共通点としては、言葉を個性的なアプローチから表現の要素にしていることがあげられます。言葉を媒介にしたイベントが、詩や演劇とはまたちがった形できるのではないかとも思ったのです。

それから、今日は2人の作家から見てもさらに若い人たちも多いので少し説明しますが、東京画廊は、日本の現代美術史の中で重要な役割をはたしてきた画廊です。1950年代の終わりから60年代、70年代を通して日本の現代美術の一番コアな部分を発信する場所でした。現在のこの場所ではなく以前は銀座の並木通りにあったわけですけれども、その東京画廊を舞台に、60年代以降に限っても斎藤義重や高松次郎、その後の関根伸夫、菅木志雄、李禹煥、榎倉康二などの「もの派」の作家たちが日本の現代美術のもっともラディカルな流れをつくっていった歴史がありました。榎倉康二さんは、東京藝術大学で教えられて、榎倉さんのまわりからは伝統にとらわれた藝大の停滞を打ち破って、川俣正や宮島達男など世界的に活躍する次世代の現代美術家たちが育ちました。

こにいる福田尚代さんも、榎倉教室で学んだ学生の一人ですけれども、榎倉先生は1995年に、まだ50歳と少しで急逝されました。大学の改革と作家活動の両輪を進めようと革新の先頭に立たれていた姿をありありと思い出します。榎倉さんが亡くなられた時、福田さんはアメリカにいて、残念ながらお葬式やその後に続いた榎倉教室の追悼展などに参加できませんでした。そういう経緯があって、今回ぜひ榎倉先生ゆかりの東京画廊で自分が表現者として歩いてきた現在までの道を作品によって見せることで、少し師からいただいた教えに感謝の意を表したいという動機がありました。リーフレットのテキストにも書きましたけれども、大きな歴史はいつも記録が残りますが、しかし本当に時代や歴史をつくりあげているのは個人個人であり、それがつながりあった人間の関係であり、そこに生まれてくる社会の実態です。そうした側面にある個人史の、個人と個人とのつながりの中にあった時間が歴史の本当の姿であると。芸術もまた、個人の表現が正面に立つように見えながら、形だけではない人間の精神というか、そういうものを通じて受け継がれてきている流れが時々に開花していく。流れていくばかりに映る川面の下には、そうした連鎖の環がある…。そういうことに少しこの機会に触れられたらと思ったのです。
それから、もう一人は木村幸恵さん。若いアーティストですが、本人もまだ得体の知れない力に呼び寄せられているような表現のなかに、可能性と底力を感じたということがあって、それは何か10年前20年前自分たちが通り過ぎた時間の中にあった姿を思い出させてくれるところがありました。そして、キャリアも世代も2人は違うわけですけれども、その奥に流れている表現へ向かう気持ちや姿勢の中に存在の本質から謡うような表現の根に、共通項を見るわけです。

福田さんは今回、直接言葉を使った作品と本による作品との2種類を出品しています。言葉を使った作品は、プレパラートの中に言葉を封じ込めた作品も(『水滴』)そうなんですが、すべて回文という形式の文章、自作の回文詩によるものです。前から読んでも後から読んでも同じ文章になるという回文を、福田さんはずっと作り続けています。壁に立てかけてあるパネルの作品(『1990-2007』)は、榎倉先生の下で学んだ東京藝術大学の卒業制作ですが、近くによって見るとびっしり言葉が書いてあって、ずっと日記というか身辺の出来事、考えたことを書き連ねています。福田さんは、言葉や文字を媒介にして表現を行ってきました。

木村さんの作品は、いま小さなモニターに映っているヴィデオ(『リハーサル』)で見られるように、パフォーマンスを主にしています。ヴィデオの映像はこの場所で昼間に撮影したもので、窓の向こうから光が入ってくるんですけど、ひとつの舞台のようになっていて、〈ゆうれい〉といわれる存在(透明なビニール製で天井に吊られてモビールのように可動する)がうすい布のベールの中に入っています。この映像は、パフォーマンスのリハーサルとして本人が昼間の光の中で〈ゆうれい〉と踊っている様子です。今夜は、この話のあとに木村さんと〈ゆうれい〉がワルツを踊ります。福田さんには、回文を朗読していただきます。福田さんがはじめて回文を朗読するので、前座でわたしも詩を朗読しようかと思いました。秋の武蔵野を謳った詩なので、ちょうど季節もいし、そして自分も武蔵野の中で育ち、武蔵野美術大学もあり、その周りには学生たちも多く住んでいます。木村さんもそこに自分のスペースを持っていて、打ち合わせに訪ねて最初に〈ゆうれい〉に会ったのも、その武蔵野の小平にある小さな家の中でした。

むさし野に秋が来ると 雑木林は恋人の幽霊の音がする
檪がふしくれだつた枝をまげて 淋しい

古さびた黄金色に色づき あの大きなギザギザのある 
長い葉がかさかさ音を出す…

これは僕が少年時代から一番好きな詩人、西脇順三郎の詩(『旅人かへらず』より)です。西脇順三郎は大詩人ですが、美術との交流もよくあった人です。瀧口修造とほぼ同世代で、2人とも慶應大学の出身なので、直接付き合いもあったはずですが。〈ゆうれい〉、そして武蔵野ということでこの詩を思い出しました。西脇順三郎は、武蔵美の隣の津田塾でも英文学を教えていたことがあったので、武蔵野の詩はとても多いのです。それでは作家から、自分の作品のことをお話していただきたいと思います。福田さんからお願いします。

福田: まず榎倉さんのことで機会を作っていただき、東京画廊さんと鷹見さんにお礼を申し上げたいと思います。作品について語ってほしいと言われましたが、作品について語るということは、語っているうちに自分が話している言葉に対してどんどん疑いの気持ちが出てしまうので、なかなか喋るのが難しいんですね。それは、作品を作る時に皆、何かを思って作るわけですが、実際出来るものには個人の考えとはまた別のものが現れるということにもつながっていて、こにある言葉の作品は、特にそうでした。それは常に無意識の世界と追いかけっこをしているようなものです。追いついて振り返ると、またさらに奥の無意識が、今度は後ろから追いかけて来る、回文もそうですけれど、ぐるぐると回っているような、始まりも終りもない世界です。回文について話すと、それは私にとっては偶然や直観を確かにしてくれるものだといえます。わたしの最初の回文集は、『無言寺の僧』というタイトルなんですけど、それは「嘘のラテン語無言寺の僧」という回文から付けたもので、これは回文という目的がなかったら、絶対にわたしには書くことが出来なかった言葉の組み合わせなわけです。そこには偶然であったり、直観的なものが関わっているのですが、そういう偶然を必然にしてくれるのが回文で、そういう意味で、わたしにとって信じられたり確かなものが回文くらいなんです。それぐらいしかないということです。それともうひとつ、わたしたちがものを作るときにいつも触れなければならない場所があると思うのですが、それは人によって呼び方もそれぞれでしょうけれど、ものを創造する源というかそういう場所があると思います。それをわたしは「向こう側の世界」と呼ぶことがあって、そういう場所に行ったり、触れたり、その場所の景色を見たりするための手段が、回文なんです。人それぞれ、みなさん違う手段を持っていると思いますが、わたしの場合は、それが回文ではないかと思っています。

鷹見: では、木村さんお願いします。

木村: わたしは、日本の近代以降の制度に対抗するような作品をやってきたのですが、こ2、3年でそういったものが、〈ゆうれい〉という形に集約されてきています。初めから〈ゆうれい〉を作ろうとしていたわけではなく、美術作家のような実態のない自分の社会的な立場や、自らの身体なんかを模索しているうちに形になったものが〈ゆうれい〉的だったので、いまはとりあえず、それらを〈ゆうれい〉と呼んでいます。その一方で、麗子像をモチーフにした作品を継続的に制作しています。

鷹見: 麗子像というのは、あの岸田劉生の名画の麗子ですね。

木村: はい。劉生の麗子像のモデルになっているのは、娘の麗子です。わたしの麗子のシリーズは、はじめから麗子でいこうと思って、キャラクターというかモチーフを最初に設定しました。

鷹見: 麗子のパフォーマンスでは、1人で、シリトリをしているようですが?

木村: 今回展示した『コッカ、カイガ』という作品では、麗子に扮したわたしが、近代の家族や、美術、絵画などの制度に関わるフレーズをシリトリのように唱えています。「コッカ、カイガ、カイガイ、ガイコク、クニ、ニホン」という具合です。「コッカ(国家)」という覚えたての言葉を麗子ががんばって発音するんですけど。絵描きである父親が麗子に教えているのか、麗子が自発的に言っているのか、とにかく発音しづらそうに。「コッカ!」というと、「カイガ!」がくっついてきちゃって、「カイガ」が「ガイコク」になっちゃって、ひとつ言うと裏側にまたひとつという具合に、ずるずるくっついてきちゃう感じで。そのあたりは、福田さんの回文とも少し構造が似ていると思うのですが…。

鷹見: 2人の話を聞いて補足したいのは、最初にこの2人による展覧会を考えたとき、言葉を表現の要素に使っている共通項があると言いましたが、木村さんの場合には、先に見たのが〈ゆうれい〉よりも麗子像のパフォーマンスだったので、なおさらそこで唱えられていた言葉が気になりました。それから「TokyoWALTZ」という展覧会のタイトル、さっき福田さんが回文でぐるぐるだということを言っていましたが、そういうぐるぐると木村さんの〈ゆうれい〉のワルツが重なったんです。「TokyoWALTZ」を日本語に訳そうとしたときに、ワルツは円舞曲なのか、輪舞曲なのかいろいろ調べたのですが、ワルツの方は円舞曲なんです。輪舞曲はロンドになるらしくて、「TokyoWALTZ 東京円舞曲」にしました。それではお待たせしましたが、東京画廊の山本さんからお話をいただきます。

山本: わたしどもの画廊は父の代から始めて、約57年になります。「Tokyo WALTZ」は、良い題だなと思いました。舞台を提供することが僕らの仕事で、舞台の上で様々に行なわれたことが縁(円)という形でつながってきたと思ったんです。わたしの父が画廊をスタートしたのは洋画からでした。洋画は西洋から来て、国家の近代化とパラレルに発展しました。木村さんのテーマですね。そういう洋画をわたしの父が画商として取り扱って、当然岸田劉生の麗子像も扱っていました。そして今年は東京藝大も120周年を迎え、洋画の時代もほぼ終わりに近づいてきたなと思っています。そういう時期に、このような展覧会を企画できたことを非常に嬉しく思っています。
一方、街とか都市も、大きな舞台であると考えています。現在、わたしの弟が北京でもうひとつの舞台(東京画廊の北京店)を構えています。わたしが東京で舞台を構えて、2つの都市がそれぞれのワルツというのか、東京がワルツだとすると北京がタンゴとかジルバなどの少し回転が速いダンス、画廊でいうと若い40代の小山(登美夫)くんとかがタンゴであれば、東京画廊はもう少しスローテンポなワルツ。歴史が蓄積していくと、少しずつ速度は落ちていくのですが、こういう形で岸田劉生がよみがえり、その間に榎倉先生というつながりがあったりするわけです。劉生と榎倉先生、このお2人も不思議な取り合わせなんですが、少し突っ込んで話をすると、岸田劉生は、白樺派につながっています。わが国には白樺派によってロシア文学が紹介されたのですが、我々の青春時代はロシア文学、ドストエフスキーを読んでいました。

東京画廊が現代美術を扱うようになった最大のきっかけは、斎藤義重先生とわたしの父が出会ったことでしたが、斎藤先生が新しい絵画を志したのは、先生が中学生ぐらいの年にロシア構成主義の絵画を東京で見たことがきっかけでした。その後、斎藤先生は二科の九室会で、新しい美術に取り組んで、その斎藤先生に一番触発されたのが、榎倉さんたちの世代、「もの派」と呼ばれる人たちでした。その榎倉さんの生徒だった福田さんがここに現れて、一方では白樺派の思想から生まれた劉生の麗子像に対して、木村さんが近代という問題を掲げて〈ゆうれい〉をつくっていく。
このようなことが舞台の上で記憶として積み重なっていくのが、文化であるとするならば、画廊を長く続けてきたことに意味があると思います。今日は、若い人たちがたくさん来ていただいているのですが、最近は銀座に若い人たちがなかなか来なくなったと感じていた矢先、隣の京橋で武蔵野美術大学が、αMというプロジェクトをやっているのを聞きました。武蔵野美術大学のOBとしては、隣でやっているのはなんとも悔しいと思い(笑)、そこで武蔵野美術大学にぜひ銀座にも来ていただいて、若い人たちが舞台として使ってくれるのならば大いにやってほしいなと思いました。

それからもう1つ、わたしは、いま言葉というものに興味を持っていまして、お2人の話を聞いていますと、透明人間に粉をかけるようなことが言葉だと思いました。透明人間に粉をかけると、そこに実体が現れてきますよね。幽霊に関しては、小さい時に聞かされた「耳なし芳一」の話、体にお経を書くことによって姿を消して、それが幽霊には見えないというのも、言葉に関係している。そういうようなことがお2人によって実現すると、いま僕が思っているテーマとも重なります。そういう展覧会を鷹見さんが企画しました。
それと、言葉で感激したものがもう1つあります。スタンリー・キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」です。トム・クルーズとニコール・キッドマンの夫婦がその中で会話しているシーンが好きなんです。それは、存在の一回性を言葉にして表している会話です。木村さんには、「アイズ・ワイド・シャット」をぜひ見てもらいたいなと思いました。みなさんにもぜひ、トム・クルーズの少し不思議な映画なんですけれど、トム・クルーズ、ニコール・キッドマンの夫婦の会話を見て聞いてもらいたいなと思います。今日は、武蔵野美術大学、鷹見先生、お2人の作家の方たちとこの舞台の上でこういう縁ができたというのは、わたしにとって感無量です。

鷹見: ありがとうございました。いまのお話で思い出しましたが、キューブリックのことは今回のリーフレットのテキストでも触れていますが、「アイズ・ワイド・シャット」は、「2001年宇宙の旅」を作ったキューブリックの遺作になったわけですね。「2001年宇宙の旅」では、ヨハン・シュトラウスのワルツがかかります。あれもワルツだったなと思って。サルから進化をして言葉を持ち、高度な意識と道具を使って、文明を築いた果てに宇宙へと飛び出していくわけです。その最果てで出会うのが裸の人間性の原型である赤ん坊…。宇宙にひびくワルツにのせて、存在と時間の円環性をあの映画は語っていたと思います。一回性を生きながら円環する時間を意識する人間…。山本さんから的確に日本の現代美術の流れとそこに引き継がれていく人間の創造の営みの歴史について語っていただきましたが、移り変わりが激しい時代の中にも、受け継がれてゆくもの、形ではなくそれを乗り越え変わっていくことの内側に継承されることがあるはずです。
トレンドの表層を掬うような展覧会とは、何か少し違う側面から光を照らせたらいいなという思いがこの展覧会にはあります。今日はこの後、2人のパフォーマンスがあるので、ここで話は終りにさせていただきますが、それでは、「Tokyo WALTZ」をお楽しみください。