αMプロジェクト1988-1989 vol.12 袴田京太朗+前田哲明


1989年5月23日~6月17日

撮影:小松信夫



表層構築 袴田京太朗と前田哲明の作品について





たにあらた

十分すぎる内実をともなった存在(対象物)は、時に人の視覚を鈍重なものにする。
形態の内部の厚みに支えられすぎているためであろうか。ことに一定の距離をおいて眺めるこうした対象物は、視覚的安定という条件の代償として、人に対して存在を感じとる切り口をあいまいなままに放置する。

もとより、このようなケースがすべてであるわけではない。逆にいえば、内部の厚みに支えられているからこそ、存在はその意味を人の視覚に対して、より強く働きかけるのだ、ということも同様にいえるからである。

しかし、その場合でも、人はその対象物の表層のざわめきにより多くの何かを感じとっていよう。表層が、内部の充実を反映するのではなく、あるいは内部の厚みに補償されるのではないあり方において出現うる時、視覚への影響はより豊かで継起的なものになるとはいえないだろうか。この二人の作家(袴田京太朗、前田哲明)の作品はいつもそのようなことを感じさせる。
袴田京太朗の作品は、合板(表層的素材)をつなぎ合わせて全体の形状を得る。合板は平面的にしてスクエアな素材だが、それらをゆるやかに、時には曲がりの大きいカーヴをつくるようにして変化をつけ、さらにそれらを連続もしくは屈折させてつなぐことにより全体の形状を生んでいる。

遠くから見ると軟体動物のようなバイオ・フォルム(とくに近作において)が印象的だが、すべてが有機体のイメージに支えられているわけではなく、逆に光学的に計算されたフォルムというイメージを与えることもある。
それは多分に、マットでスクエアで、しかも可彫性のない合板というマテリアルの条件から生みだされるものであろう。
そのため、彼の作品は表現主義的なイリュージョニズムには似ても似つかないニュートラルで、純視覚的に対象化されたフォルム、というイメージに近づく。加えて、彼の作品は、その不規則なメビウスの輪のような形態の必然として、人の視覚を表面の流れに接近させる。
前田哲明の作品は、鉄板(表象的素材)や鉄筋を溶接していって全体の形状を得る。鉄というマテリアルの特性から充実した内部を予感させるが、彼の作品は充実した内部に支えられる“外皮”という構造を示しているわけではない。“外皮”がすなわち充実した存在の形態であろうとしているのである。
見方によっては、それは存在のトレースであり、彼がイメージさせている形象がアルカイックであることから、何かのミメーシスであるという印象もよみがえってくるが、容易にイメージの問題だけに収束されにくいのは、無数の鉄板や鉄筋を集積させていくことでできあがる表層の密度が、何らかの視覚的異変をかたちづくるからである。
だから、前田の作品にあっては、人は、構築的なフォルムに離反する表層の半懐疑的イメージによっても多くの意味を読もうとするのである。