1988年4月26日~5月21日
この二人(伊藤誠、山口奉宏)の作品は、相互に遠く離れたポジションから発する。おそらく、二人のポジションとは、表現者においては元来“同根”と見なされ考えられてきたものだが、現在という時点に立つと、それらは相互に、他を自らとは異なるものとして特殊化する機能のように思える。
贅肉をそぎとられた骨格(伊藤)と、塑像のような肉感的な肌あいを残す作品(山口)との、決して切り結ぶことのない遭遇。いいかえれば、反マッスとマッスそのものの時ならぬ出会いは、かの同根の時代を両者あいまって追想しているかのようである。
しかし、彼らの作品がさし示している現実はこの視点を離脱する。
伊藤の骨格は簡単にいうとフォルムといいかえられるが、このフォルムは型取るというよりは“存在”を志向し、山口の肉感的な肌あいはマッスという観点をむしろ 反古 ほごするように、身体の純粋な感覚に結びついている。
伊藤誠は、優れてディメンショナル(次元的)な作家だ。扱う素材は合板、鉄板、金属、パイプ、金属のネットなど、線、面の造形要素が多いが、これらは組み合わされて立体となる過程において、特有な次元変換を経験する。
初期から一貫して変わらないポイントがあるとすれば、この次元返還の特異性だろう。彼の作品にとっては、壁も床も場合によっては“同質”の展示対象として志向される。
その次元変換を成す最大のポイントは<角度>である。たとえば面と面、パイプとパイプが接合される時の角度でこの特異性は発現する。絵画(壁・二次元)、彫刻(床・三次元)という整数で割れる次元を避けるようにこれらの立体が設置されるとすれば、それは角度に由来する抽象の意識なのである。
初期においては、その意識は“美しい接合”を生もうという傾向が強い。しかし、主として1984年以降の作品では、反マッスの方法を遵守しつつ、逆に作品は存在感を高める。それは、フォルム(そしてそれが視覚化させるもの)の形成にたいし、妥協を許さない姿勢があるからである。
山口奉宏の作品は、現在ふたつのモチベーション(動機づけ)によって成りたっている。ひとつは内発的なもので、たとえば『水の行方』(1987年)のように「湧き水の水が吹き出ている部分に指を突っ込んだ時の体験」がもとになっている作品。もう一方は『風の記憶』(1987年)のように、風景として感じられるような彫刻作品である。
私は前者の内発的モチベーションの作品系列を重視したい。これらの作品では、とってつけたモードに流されることなく、身体の色説的感覚が質量のある物体になりかわっても十分に活きている。
フォルムはたしかに外的に規制されていくものではあるが、山口の良質の作品系列においてはフォルムはむしろ後付け的であって、まず身体の直接的感覚がイメージの全容(ほぼ完璧な姿)を得るのである。
視覚《外部》によって鋭ぎすまされていくフォルム(伊藤)と、直観《内部》がイメージあるいはフォルムの全容を得る方向(山口)――これらは表現における世代間の相違であるとともに、奇しくも今日の立体表現の二様の指標たりえている。