1990年9月11日~10月6日
知多秀夫の大きな作品は「構築絵画」と言える。麻布を土台にして、緑と赤を塗り重ねてゆく。まるで知多の人生を積み重ねてゆくように、行為を持続しながら、絵画の実体を追究する。
知多の平面は、色面の相互関係が明白に出ている。緑が下地に、それとある種の距離感のある赤が、色彩の関係を浮かびあがらせる。その関係によて、恣意的な線で、色彩を乗り越える線である。
この色面と線は、絵作りからきているのではなく、知多自身の内面の表出にほかならない。知識からは決して現出する平面ではない。知多自身の存在感のある重みを感じる。
物質感のある平面に、知多の意識下の動態が表現主義的に顕わに表出される。行為の可能性と手の思考を裏付けるものがある。それは、知多の時代を洞察する眼ではないかとも思われる。
一方、青木允の作品は「合成される面」と言えよう。綿布にアクリルという素材だが、特徴的なことがひとつある。綿布という素材意識が、合成される面を規定している。青木は十年以上もこの素材と闘ってきたが、伸縮自在のこの布を張り直し、伸ばして張るという行為を持続しながら、布との関係性を追究する。
形態的には、表面の”へこみ”と”ふくらみ”を重要視する。このふたつの行為は、技術的精緻さに裏打ちされ、不思議な歓喜を呼び起こす合成された面に昇華されている。不思議な歓喜と言ったが、これは<平面として絵画、絵画としての平面>のひとつの要素であるアミューズメント性と言い換えてもよい。これは布への意識が色彩を必然的に決めていることによる。染料的な色彩が浸透し、拡散し、凝縮している。青木の素材意識が確固として定まっている証左にほかならない。分割され、面としてつなげることによって、青木の素材意識が発展、増殖してゆく。面としての拡がりは、イメージを増殖させてゆく。
そして、出口道吉の作品は「構成絵画」と呼べるだろう。大きな額縁のなかに、いわゆる構成主義とは異なる彼のコンセプトによって、全面へ全面へと作品が構成されてゆく。
出口は、絵画はまずふたつの要素で成り立つと考えているようだ。つまり「物質とイリュージョンの関係そのもの」である。彼によれば、セザンヌは、イリュージョンを圧縮して絵具とタッチといった物質に接近し、フランク・ステラは、絵画からイリュージョンを剥がし取ってしまい、物質だけを残した。絵画において、物質をイリュージョンが正常な状態で共存する例を見出せないと言う。そこで、出口は両者の間に入り込む、第三要素を検索する。以前は、それを非物質的なるものと考え、「影」や「しみ」を平面に出していた。
今回の巨大な作品は、これを一歩進めている。額縁という古典的な概念を逆用して(台座のない現代彫刻となんと対象的なことか)、壁面の見えるすき間を作ったり、概念の充実図っている。出口の場合は、描くというと積極性がヴィジュアルな豊かさを生み出し、全面志向の全体という空間をつくりあげている。確固とした骨組みによる絵画性が、絵画が獲得して物質性を回避することなく、少しずつ豊かに展開してゆく気配がある。
<平面としての絵画、絵画としての平面>という永遠の命題を三者の表現行為によって見てきたが、つまるところ自己の表現を問うことが、絵画性、平面性という美術の根源を把えることになる。いま、ここにあるという同時代の意識がどう表現されるかは、自分そのものへの問いと破壊にほかならない。
三人は、時代の造形精神を絵画性と平面性という両軸で模索しつづける。三者とも自立した絵画、存在する平面に昇華している。