1991年1月8日~2月2日
撮影:小松信夫
二村卓児は1986年に日本国際美術展で大賞を獲得したあと、約二年間スペインに留学した。今回の新作は、その帰国展だが、平面の作品性にスペイン体験が凝縮しているようだ。「スペインで自己を再確認した」と彼は述懐しているが、スペインの原風景に圧倒されたらしい。とくに、強烈な光と影にいろどられた<夕日>に感銘した。
二村は「NIGHT-BISHOPⅢ――制作過程において、ある考察を強いられた絵画的構成」で授賞したが、それは合板にアクリルラッカーで描いた光が射し込む室内光景だった。閉ざされていて、なお奥行きのある空間に左から光を導入することで、その空間の明暗と抽象性が強調されていた。さらに平面を分割している直線が、空間性を際立たせ、抽象的な空間構成を現出させていた。胡粉を用いた緊密なマチエールも鮮烈に記憶している。
二村は授賞で自己の領域を深め、今回のスペイン留学でさらに平面の知的体系を進展させた。今回展示されるアクリル系油彩で描かれた「夜の司祭」などは、廃屋の閉ざされた部屋の空間構成で、光の効果の追究である。この主題は彼の意識の深層から出てくるものであるが、普遍的な色彩中心絵画の表現を理解したうえで豊かな絵画性を現出させている。意識は過去へ過去へと侵入し、精妙でないイメージを喚起させる。
帰国展の圧巻は、300号の「時の重奏」である。大画面を三分割し、荒廃のスペイン風景が描かれる。誰ひとり住む者のいない荒れた城とも見える。廃屋イメージを、彼がスペインで実際に見た光景と重なり合わせているのだが、それは石の文化の持つ時間の重層性をも示している。時の重層は、歴史の重みであり、時間の経過である。この大画面は三分割されていると言ったが、画面の上段から過去、現在、未来を象徴しているように思われる。その廃屋イメージは中段の現在に描かれる。
微妙な色彩と緊密な構成によって現出するスペイン光景を土台にした「時の重層」は、世紀末の夕暮れの残照をとらえているように思われる。二村自身「夜が昼に勝れているどこかの星が、この地球だ」とかつて話していた。朝は限りなく空間が広がり、逆に夜は空間がしまってくることを私たちは体験的に知っている。彼は朝や夜の状況を描くのではない。夜に突入する前の夕暮れの微妙な一時期を描く。彼がスペインで感激した最大のものはスペインの夕日だと書いたが、この大作にその体験が凝縮している。
<夕暮れにときは限りなくやさしいとき>と詩人は詠むが、二村のスペイン体験に根ざした光と影の夕暮れは、残酷な郷愁さえ感じさせる。荒廃した城と見られるイメージには、豪華で乱熟した時代もあったと思わせる<腐乱の郷愁>さえうかがわせる。滅びる過程の一瞬の美の光芒を二村は意識している。それが世紀末の夕暮れの残照と見える。
こうしたさまざまなイメージを喚起する二村の平面には、裏付けとなる技術の確証がある。形式にとらわれる支持体の加工ではない。自己を確認しつつ、原色を何度も塗り込め、そして削り取り、重層的で透明感のある色彩を生み出す。彼はアカデミズムを学んでいない。上から与えられた技法ではなく、自己の体験から技法を生み出す。大作の下段の緊張感あふれる線は律動的な想像の豊かな糸で操られたように見える。二村のなにものにもとらわれない根源的な行為は、色彩、明暗、マチエールにおけるゲッシュタルト効果など、あくまで自己の確認行為に昇華される。この確認行為は、空間処理に最重点が置かれるが、二村自身、空間を見ているだけでなく、大いなる推理をしているように思われる。
二村の作品のモチーフ<世紀末の残照>はいよいよ密度を増した。スペイン留学中の落日光景の体験が裏付けとなり、光と影が重層的に、しかも多義的に表現されている。二村の目指す絵画性が凝縮度を増したとも言えよう。
「平面のスペイン体験」は、二村の持続して待つ確固としたコンセプトのみを拡大し、凝縮したのだった。スペインは己が持つものの分量だけ、あるいは範囲だけを体験させるのであろう。