αMプロジェクト1992-1993 vol.10 杣木浩一

1993年5月18日~6月12日




空間のビカミング 2 「表層のエロティシズム」

高木修

私は、杣木の作品と対峙した時、その表層の輝きに独特のエロティックな感覚を経験した。しかもその感覚は、その表層の上で漂っているが、私の視線は固定せずその周りの空間を手探りするかのように滑っていく。たとえば、ある対象を<舐めるように見る>ということがあるが、しかし杣木の作品の場合、作品をポジティヴに見るといった視線の優位性はなく、いつのまにか作品が見る者の視線を誘い、その表層において戯れさせている。言い換えるならば、作品が見ることを静かに導き出していたといえよう。
そしてその作品の輝きは、金属やガラスなどのケバケバした輝きではない。むしろ抑圧された漆黒のような、あるいは含羞の輝きというべきものである。もしも言葉が足りないというのなら、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』に出てくる漆器の肌を想い浮かべるがよい。≪それは幾重もの<闇>が堆積した色≫に相似しているからだ。しかしこのことは、杣木が日本的土着性に基づいて工芸的美を現代美術の中で追求しているなどといった楽天さはない。
今回の新作は、合板で立方体をつくり、その上にシナベニヤを張り付けて黒のウレタン樹脂塗料をガン吹きし、その表面を耐水ペーパーで研磨する。しかも重層しやすいウレタン樹脂塗料をガン吹きするたびにペーパーの目を変えながら研ぎ出す。これらの、幾度もの工程によって透明性と独特の質感がその表現する。
杣木のこの作業は、一見すると職人の業に似ているが決してそうではない。もしも職人の業ならば、そのものに思い込み(感情移入)が多分に入っているが杣木にはそれはない。むしろ手のイメージを消し去ることによる自立する客体を目論んでいるからだ。
かつて藤枝晃雄は、≪作品が客体として存在するとは、作者と作品の乖離を意味する。しかし多くの人びとは誤解しているようだが、かかる作品は作者によって、人間によって、できるかぎり自律的に制作されねばならず、この意味からして既製品によるオブジェとは峻別されるものである≫と述べている。
杣木の営為は、この<つくる>ことを通じて<つくる>ことの饒舌さを彼方へと放つことにある。がゆえに<つくる>ことへの拘りと同時に、<つくる>ことの作業を不可視にするような逆説的な働きを持つ<質>のあるものにしている。つまり<つくる>という範疇から超えでた表層のエロティシズムが現出するのだ。また、杣木の作品がプライマリー・ストラクチュアズやミニマル・アートの文脈で捉えられるかもしれないが、もしそうであるならば執拗に繰り返す表面への研磨は、さほど重要ではなかろう。つまり、杣木が言うところの<研ぎ出す>感覚によって表出する表層=空間の変容は、知覚的構造によって認識するのである。だからこそ杣木は限りなく鏡面へと近づけることによって周囲の空間と溶け合うことを意図している。しかしこのことは、像を映し出そうとしているのではない。もしそうであるならば既製の鏡を使用することで済むのである。杣木は70センチの正方形を展示空間から割り出し連結し空間の組織化を計っている。10個の黒い立方体が画廊の中央に「門」型の形態をつくっているが、見る者はその構造体の周りを迂回しながら-ときには表面に触れたくなるような衝動におそわれる。柔らかく、そして硬質である黒い立方体は、見る者の感応性を揺さぶるのである。

杣木浩一 そまき・こういち
1952年新潟県生まれ。1979年東京造形大学絵画科卒業。80年「第13回日本国際伊美術展」、84年「第4回試行する作家展」、85年「第3回釜山ビエンナーレ」、88年「自在の現場」展、91年「色相の詩学」展に出品。90年ギャラリーホワイトアート、92年J2ギャラリーで個展ほか。
(※略歴は1993年当時) http://www.abst-art.com/new/somaki_koichi/somaki_top.html