1993年6月22日~7月17日
私は、丸田恭子の絵画を見ていると-学生時代に読んだエドガー・アラン・ポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』という作品を思い浮かべた。案内人である老人が、メエルシュトレエムの渦巻きに呑み込まれた体験を語っていく小説なのだが、なぜかその渦巻きの精緻な描写が丸田の絵画と重なり合った。おそらく、ポーの作品が<絵画的な設定>や<空間的造形>を構成していると言われているように、丸田の絵画にも宇宙を生成する空間が住みついていたからだといえよう。だからといって、丸田の絵画とポーの知性を重ねて論じるつもりはない。とはいえ、丸田にはポー的な水脈-つまり宇宙観(ミクロコスモスとマクロコスモスの創造の追求)が内在しているように思えた。
ポーによれば、宇宙とは≪考えられうる限り極度の空間の広がりと、その広がりの範囲のなかで存する物質的ならびに精神の、想像しえられるすべての事物≫なのである。要するに丸田の絵画は、宇宙の運動の軌跡を暗示させる円環の渦(想像力)がうごめいている。しかもこの運動が規則正しく描かれているというのではなく、たとえば、人の話を聞きながら一方では手が落書きをしているという状態から生まれ出るような潜在的な線-つまり、渦状を無意識のうちに描いてしまたような形象なのだ。
だからこそ丸田の描く線は、一本一本の線が空間に対して突出していない。線は、明るさと同時に闇を胚胎させながら帯状となって循環をなす。下から上へ、上から下へ、斜めへ、そして横断してうねっていく。それはちょうど海の渦が<生成と消滅>を繰り返すように、<時間的ダイナミニズム>が画面に顕現する。
また丸田は、つねにアンビヴァレントな思想を持っているように思える。≪深遠であるとともに平坦、単純かつ大胆であると同時に繊細、空虚であるが充実している。そんな世界を求めたい。一見矛盾する事柄かもしれないが、それを超越した関係において、同時にひとつのなかに危うく調和共鳴させたい≫と丸田は言う。
こうした丸田の背反的あるいは対庶的な思考が、絵画のなかで図式的に行われているかというと、そうではない。もしそうであるならば、丸田の絵画は解説的なものになってしまうだろう。
周知のように、≪われわれはほんの一時間でも拍子に合わせて呼吸することはできない≫ということを考えれば、丸田の絵画は決められた法則から逸脱しているといえよう。つまり丸田は、なんらかの整合状態を打破するという繰り返しのなかで生成する絵画を出現させたといえる。これはまた、速度をともなって描いているからだともいえる。描く速度は、思考する図式を乗り越え、理性とも感覚ともいい表せない身体の動き(内面的動性)が画面にリズムを与えている。
今回の新作は、以前にも増してドローイングの強さが目立つようになったと同時に色彩が抑制されモノクロームに近づいてきている。その意味では、構成的な画面はなくなり、木炭によるストロークが波動の強弱をつくり画面に振幅を与えている。
このように丸田の絵画の魅力は、混沌と秩序や動と静といったものが融合して<充実した空虚>をつくり出しているところにある。つまりこの絵画は、つねに中間領域で激しくうごめいている瞬間が重要なのだ。しかも見る者はその波動の絵画のなかに引き込まれていくのだ。
丸田恭子 まるた・きょうこ
1955年長野県生まれ。1982年に渡米(〜87年)。82〜84年Students Legue of New Yorkで学ぶ。89年「ACRYLART展」、91年「Womwn’s Art Work」に出品。86年村松画廊、90年ギャラリーQ+1、92年ガレリアキマイラで個展ほか。
(※略歴は1993年当時) http://www.kyokomaruta.com/