αMプロジェクト1992-1993 vol.15 稲吉稔

1994年1月11日~2月5日




空間のビカミング7「停留の様態」

高木修

横浜市関内駅の近くにあるビルの一角に、アート・ラボ・ウーというギャラリーがあるというので、そこを訪ねてみると、そこは無人のギャラリーであるらしく誰もいない。分厚い鉄板のドアを押し入ると、歩ける程度の幅を残して部屋の床に液体状のものがある。一見すると、水なのかと思って触れてみると多少の粘りがある。そこには、1センチほどの流動パラフィンが張られていたのである。もちろん、床をFRPで被いロウで作られた箱状のもので仕切られている。ロウの箱の中には3本の螢光燈が水平に並べられ白光を放っている。
部屋の正面には、二重の壁が取り付けられ、一部が窓のように四角く切り取られ、その奥は暗く、部屋が続いているようにも見えるし、あるいは閉じているようにも見えるが定かではない(後で聞いた話だが、奥の壁に黒のヴェルヴェット布地が掛けてあったらしい)。
こうして、全体を見渡してみると、ギャラリーというよりも<特異な部屋>をつくり上げているようだ。周囲の壁やFRPの床、それに流動パラフィンが同色(薄い緑)で統一されているので、壁と床との境界、床の液状の高さ、正面の黒い窓との距離が曖昧化される。それは、見る者に視覚的な錯覚を与えるためではない。むしろ<部屋>にいて空間に包み込まれながら、その<場>を身体全体で知覚しなければならぬように仕組まれているのだが、余分なものは一切省かれている。そして、そこに対峙していると数々の謬見が霧散してしまうのだ。言い換えれば、ものへの<判断中止>あるいは<停留の様態>といった感じなのだ。つまり、見る者の読解しようとする解決能力がそこでは不必要な<場>であることを知り―そこで茫然と佇んでしまうのである。ちょうどあのタルコフスキイの映画『ストーカー』(1979)のワンシーンのようだ。この場所は稲吉稔が、1993年3月から’94年2月5日まで、1年近く常設している作品=部屋である。
稲吉の独特な感性は、上述したごとく奇妙な空間を現出させている。作品によって人を引き込むというよりも、はっきりと作品を見ているのだが見ていない感覚におそわれる。様々な臆見にもとづいて解釈しようとする意識の流れがふと中断され無意味なようにさえ思えるのだ。しかしこのことは、稲吉が戦略的に罠(装置)をつくっているということではない。むしろそうした概念的なものから遠く隔たっているといえる。とはいえ、稲吉の場所への欲望は、特に表現するうえでおおきな契機になっていることは確かである。
また稲吉は、空間にものを直截に表出させているように見えるがそうではない。ものは、稲吉の行為の過程の中で何度となく反芻される。頻繁に使用されるロウの素材は、色彩やスケールを変えながら場と呼応するようにつくられる。しかもこのことは、稲吉のものに対する手わざのうまさにあるのではない。もしそうであるならば、稲吉の作品は工芸的なものになってしまうだろう。あくまでも、ものの特性を生かしつつ<場>を生成するためのものとして選ばれている。それゆえ、ものを自己に引きよせて練り上げるということではなく、ものをそこに停留させ、つくる主体ともの、場、他者とがある連繁ないし相関関係に結びつけられ準拠しているのだ。
稲吉の表現を見る時、ある一点の作品に収斂することはないだろう。もしそうであったとしても、それは他の作品、あるいはその場との関係においてしか読み取ることはできないだろう。稲吉にとって重要なのは<行為>と<場>との対話なのだ。稲吉が、横浜に長期的な発表の<場>を求めたのは、行為としての<場>であると同時に<場>としての行為を欲望したからにほかならないのである。

稲吉稔 いなよし・みのる
1960年神奈川県生まれ。1989年Bゼミ選修過程修了。89・92年「白州・夏・フェスティバル」に出品。92年自主ギャラリー「Art Lab Woo」を設立し作品を発表。92・93年は作家グループとして「Art Lab Woo」を展開し、NICAF’93、MARS GALLERYで発表。95年「水の波紋’95」に出品。

(※略歴は1994年当時) http://nitehi.jp/