1993年4月13日~5月8日
ポール・ヴァレリーは、絵画について<絵画の目的は漠然としている>と語った。この問題性は今日の絵画についても符合する事柄ではなかろうか。たとえば、オール・オーヴァー(全面を覆う)や、マチエール主義、ストロークの勢いなどによる平面性が一つのパターン化している現在-つまりヴァレリーの言うように、目的に合った(定まった要求を満足している)作品は多くなるが、<汲んでも汲んでも汲みきれない美しい作品>はなくなるのである。それこそ今、私たちは判然(はっきり)しない意識を<遅延>させるべきであろう。
そうしたなかで山本まり子の絵画は、何らかの強い目的意識を持って全体を演繹的に描いているか、というとそうでもない。だからといって楽天的に描いているというのでもない。何か発生せんとする状態にある<感覚>を、画面のなかから見出そうとしているようにさえ思えるのだ。初期の作品(1985)を見ると、キュビスムのパピエ・コレ(貼り紙)に似た技法を使用しているが、それも<色の面としての価値>を与えるためであると同時に、多角的なパースペクティヴを点在させるためでもあった。このことによって、絵画を正面性のみで捉えるのではなく、画面の周縁、あるいは側面から随意に全体を構成するに至った。しかも千切られた和紙や色紙・印刷紙は、紙の微妙な厚さと、切り取られたシャープな線が周囲の空間に対し緊張と調和状態を醸し出した。
つい最近の新作では、画面上に中間色の紙がある部分部分しか貼られておらず、その上に同系色のアクリル絵の具を幾重にも塗ることによって色紙の退色を避け、色の階層をつくり出している。
山本の絵画は、一見するとある種の<構成>が成されているかのように思われるが、それは諸部分の緊密な関係によるプランの進み方ではなく決定が自動的であるような-つまり絵のなかで逐次的に場を獲得するような状態によって生成する空間ができあがる。もちろん、つくり手の視覚も無意識のうちに構成する働きをしているのだが、それは、眼が貼った色紙や描かれた色面の間を往き来することによって辿っているのである。だからこそ、つくることと見ることは両義的にならざるをえないし、それを抜きにしては絵画を語ることはできないだろう。
山本は、<自分の呼吸で、姿勢で、態度で、現実と願望で、それからそんなものを超えた、他にないものが確かにそこにあるように>と吐露する。山本の言う<呼吸>とは、画家と作品の呼応関係を指している。それは、絵画が生成する手前の状態を<呼吸>という言葉、あるいは<皮膚>に譬えてもいいのだが、絵のなかで彷徨=模索しているのである。時に、山本の絵画が詩学的な意味を帯びるのはそのためである。山本の絵画は、見る者の視線を画面に吸収させる働きと開放する働きの両面を持っているが、それは表面をマット状にしているからではない。拡がりのある水色の色層と、隣接する色層とが境界の彼方で融け合っている。言い換えるなら、色と形が互いに蚕食しつつ、ある時点で留まって振幅しているといえよう。ちょうど、作品の資料(素材)と形相(形式)との分割不可能性を実現するかのようである。
ある時、画家も彫刻家も制作のなかで懐疑することがある。それは、ふと、作品をつくっているのは自分ではなく、作品につくらされているのではないかと・・・・・・。山本の空間の総体を決定するのも色同士であったりするのだ。それは色が<感官的な感受性>に訴える働きがあり、つまり、画面のほうから行為の果断さを求められるように、今なお描き続けているのだ。
山本まり子 やまもと・まりこ
1958年東京都生まれ。1980年武蔵野美術短期大学専攻科美術科修了。91年「ACRYLART展」、95年「インナータイド展」に出品。85年〜95年藍画廊、88年ギャラリーQ、89年Laboratory、93・94年ギャラリーポエム、95年かわさきIBM市民文化ギャラリーで個展ほか。
(※略歴は1993年当時)