1994年5月17日~6月11日
かつて、吉川陽一郎が個展を行なった際のパンフレットが手元にある。その最終ページに、肖像写真というか、いわゆる顔写真が掲載される場所にフシギな<肖像>がはめこまれている。それは吉川本人が縄とびをしているような図なのだが、違う。よくみると両手にもったロープは縄とびのように振られているが、足はそのロープの中途を踏み、止められている。その横向きの全身をはさんで、足元を基点に両手でロープが前後に振られ、自在な軌跡を描いているのだ。
ボンヤリ写っている吉川の横顔は少しうつむきかげんで、なにか記憶を辿るような、思考する風情がある。露光の関係で両手はブレており、ロープの上端も同じように共振している。しかし驚くべきことに、柱となった体の首元から、肩へ、そして、手を貫いてロープと一体となった、その瞬間の形状は、吉川がこのかん生みだしてきた、独自の形態と同じくしているのである。
これまで吉川が使用してきた素材のほとんどは鉄材であり―それが薄い鉄板であったにせよ―<鉄>という歴史的に意味付与されてきた、重い表情をもつものからは想像しがたい、<創造>の秘密をのぞきみたような気がしたのだった。その秘密とは、作品が立体化する以前に自らの身体があることであり、またそこに備わっている四肢、とりわけ手の機能と不可分であることである。
吉川は、同世代の作家と同様に、立体作品としてある形象を結実させる際、その原イメージをもっていない。もっていない、というのは誤解を生じせしめるが、具象的な形態、あるいは幾何的抽象形態をあらかじめ設定していない。ではどのようにして、最初の動機を求めるのか。まず、紙に向ってドゥローイングを試みるのだが、そこで、下部から上部へ向かって無意識に振り降ろされる一筆が走る。それはいうまでもなく、腕と手によるフリーハンドの一ストロークにほかならない。
その一本の筆跡からイメージを立ち上げるのだ。それは<線>にすぎないのだが、そのゆるやかなカーブをもつ不定形の線をひとつの境界線とみなし、そこで切りとられる内側、あるいは外側の面に着目する。ともあれ身体を元とし、腕の付け根から手の指の先までのコンパスから生みだされる、それに準じたもうひとつの線が表われでる。その境界線こそが空間を押し広げる契機になっており、それがちょうど、腕を作動させる<関節>の役目を負っている。分節(Articulation)とは、音声学では子音のような有節音を指すが、むしろここでは身体の関節のような、切れ目でもあり、かつ接合部分でもあるような、そういった意味で考えてみよう。
ひとつの面に引かれる線は、それを境とする二つの面を切断しつつ接合する関係に置かれる。したがって、いずれも主―従の関係にはない。だが結果的に切りとられた何ものかのパーツが選びとられるだろう。しかし、それをポジ(正性)とネガ(負性)とに分別していないので、切り落とされたパーツを拾い上げ、交換する場合もある。そうやって切断面を同じくする、よく似た形象が反転・反復されたり、また複合・折哀されていく。
それはちょど生物の<耳>のようなあり方を思わせる。耳の複雑な構造よりも、頭に付いた耳は、はたしてどちらが表でどちらが裏なのか。その機能からすれば、脳とつながる耳穴が<表>であり<裏>が、いわゆる耳であるのか・・・・・・。そういった、+と-を分別しない制作手法が、吉川のオリジナリティである。
このような、自らの身体あるいは手の動きを重視する方向は、かっての作品にみるような、ハサミの握り手の部分、ワラ積み用フォークの先端部、そして<耳>の構造性、それぞれを想わすものを生みだしてきた。これは手の機能の延長として示唆をうけたものだといっていい。
今回はこの傾向に変更はないが、鉄材のもつ独特の<重厚さ>のイメージを払拭するため段ボール材を折衷させている。ここでは素材同志の<境界>すら分節化しようとしている。これらもまた、自ら身体の記憶を切断・接合しながら、現象化しようとする欲望の現われであるに違いない。