1994年9月13日~10月8日
タイトル<絵画的無意識>は、<絵画>そして<無意識>と、それぞれ概念枠が広くて少しおおげさな印象を与えるかもしれない。しかしここでは、そういった哲学的な意味合いとして使っているわけではなく、きわめて世俗的に捉えている。絵画がそれとして成立するのは、主題とマティエールとが合致した瞬間だと思う。むろんそれは画家の意識的理性によって企てられるのだけれども、その制作中に覚醒した意識からはみでた表現にいきつくことがある。それをすぐさま<無意識>とはいえないまでも、意識と無意識との奇妙なズレだということができる。ここではそのズレを無意識と呼んでみたい。
藤村克裕の仕事の流れを辿ってみると、表現内容においても、また作業行為における<手つき>においても、また素材の表われ方においても、そのズレ=無意識を強く感じとれる。ではなぜ<絵画>なのか。藤村が80年代に発表してきた作品は、すべて立体作品である。ある作品においては、彫刻的な表情すらみせたときもあった。しかし、彼が油彩画を学んだからということではなく、素材の扱い方が<絵画的なるもの>を源流としているようにみえる。
近代芸術は本来、絵画なら絵画のもつ二次元性による拠ること、また彫刻はその三次元性を引き受けることで、それぞれ正統性を押し進めてきた。しかし、1920年代のダダと構成主義の時代にクルト・シュヴィッタースは「メルツバウ」という立体作品―現在でいうインスタレーション作品を発表している。
これは、シュヴィッタースが絵画的平面において、さらに絵画の課題を追求していく過程でいきついたものであった。つまり、<絵画/平面>にあきたらなくなって<彫刻/立体>の表現を選びとったのではない。あくまで絵画空間の拡張においての必然であった。
藤村の場合、シュヴィッタースの姿勢と通じるところがあるのだが、しかし作品の現われにおいては差がある。むしろ具体的に絵画的表現を感じさせる。
たとえば、80年代を通じて素材としてきた段ボール材。藤村はその段ボールを細かく切りきざんで、それを何層にも重ね、古代の壺や甕を思わせる形状に仕上げた。またそれから切り落とされた端材を使用して楕円の舟のような形体や、柱や壁のように立ち上がるインスタレーションも試みていった。
この段ボール紙は、知られるように緩衝材としての機能をもつ。波状の粗い紙を二枚の厚紙ではさむ形式で、その機能性においてほぼ完璧な構造を保持している。それは、紙を製造するにあたって、紙を構成する繊維の空気を保存し、断熱や防湿の作用を同時に促す。
藤村は、その繊維の構造を露わにさせながら立体作品を作り続けた。それはちょうど油彩画にみるような、油絵具とメディウムを混合し、何層もの薄い被膜を重ねていき、その絵画の表面に<光>を呼び込んでいく作業を想起させる。具体的には三次元の形状に結びつくのだが、そこに空気や光を透過させることで<絵画的>な視覚を備えている。その同一素材による連綿たる作業の末に、藤村は1990年頃を境に<合板>によってキャビネット家具のような構造体を発表するようになった。またグリッドの連続するスケルトン構造も導入していった。その変化は見るものを驚かせたのだが、実は制作手法は一貫している。合板の、スライスされ圧縮された層のありようは、段ボール材と同じく繊維のような重なりと通じる。いずれも木材という同一の素材から発生しているが、工業化時代の生産部材として作られた。藤村は、他の多くの現代作家と同じく、素材の物質性から生まれでる<かたち>を重視している。しかしそれらを量塊のようなハードな実在性に転化せずに、絵画的視線を吸い込む作業に<無意識>に結びつけていった。今回発表されたインスタレーションに散りばめられた色彩のいくつかは、色彩理論が優先されているわけではなく、合板の生の固有色を中間の基調とし、それを生かしめるための配慮として選択されている。
これもまた、古典的な意味で主題とマティエール(絵肌)との関係といえる。これは近代絵画の無意識をひきずりだし、私たちの現在を示唆する行為のひとつに違いない。