1994年10月18日~11月12日
絵画はいつの時代においても<絵画>でしかあり得ない。なぜなら、絵画はそれ特有の道具によって絵画以外のものを目指してはならないからだ。そう、その意味で絵画はつねに<絵画の現在>にすぎない。その自明な制約において、絵画は誇り高い存在にもなり、そしてときに、同時代に遅延した存在としておとしめられもする。
そこではいつも、絵画が存立困難であるといわれ続け、作家が絵画をものすることの難しさが、深い溜め息とともに強調されるのだ。絵画を平面と呼び換え、彫刻を立体と言い直しても、その歴史を塗り替えるわけではないのだから、溜め息が消え去るというものではない。では、絵画よ、オマエはただの”現在”にすぎないのか?
孵化する絵画。孵化、とは卵内で育った胚子が卵膜を破って外に出ることである。そこには、他動詞的な<卵をかえすこと>と、自動詞的な<卵がかえること>、のふたつの意味が潜んでいる。では絵画にとって<胚子>とは何か。<卵膜>とは何なのか。そしてまた<卵>とは何を指すのか。
井上能巳の近作は、かつてより極度に抽象の度合いを増してきている。しばしば特徴的であるのは、キャンヴァス面上部と下部に分化する二層の構造をもちはじめ、浮遊する空気の流れが、色彩のエネルギーに委ねて表われてきている。下層には、それを打ち消すような線的に横切る筆触が強調されてきた。しかし今回の発表作品においては、その構造性も明らかではなくなっている。
抽象化する以前の’93年までの傾向は、もっと具体性をもっていた。画面の一部に人間の顔や手、また人体像を思わせる図が入り込んでいた、それは当時の井上にとって、絵画のコンポジションを強化するための方途であった。コンポジションを作るための、ひとつのイメージ・フィルターであり、一種の”口実”といえるだろう。事実、見る側への導入部としてチャーミングな試みになっていた。
この人体イメージのアプローチは、井上本人によって無意識にとられたはずなのだが、これは、描き手・井上の身体―手―筆勢を、串し差しにする物理的モティーフを表わしていたのではないだろうか。いわば、自覚せずに身体を再現していたといえるだろう。井上がそこからさらに抽象化していくのは、それまでの道具的な肉体性からその内部の神経系に、再現=表象の動機を閉じ込めていったからである。そこで、絵画が絵画としてしか存在しない、その”瞬間”に移行していくことができたのだ。
今度の新作は、その”瞬間”を体現しているだろうし、井上の今後の展開を考えれば、長い道程への過渡期にあたるのかもしれない、まさに孵化期の只中ともいえよう。しかしいったい孵化する絵画とは何だろう。<卵をかえすこと>と<卵がかえること>のあいだに何が横たわっているのか。たぶんここで<卵>とは<イメージ>と同義であるだろう。そして<胚子>とは、映画の本質であり、そのエネルギーである。<卵膜>とは、画家と画家の制作手段をさらに超出し、他へ移行するときの境目であるに違いない。卵を<かえすこと>と卵が<かえること>を統一して引き受けることは、祭時のシャーマンのような立場でしかあり得ない。それは、魔術でもあり真実でもあるような、絵画の本質に従う肉体性が、膜を破って<外に出る>現実そのものである。その技術と事実のみが最終的に画家に与えられよう。
井上の仕事が興味深いのは、画面に表われ出た形象とは、井上自身がいう<筆先の絵具のみが了解している>という断言にみるように、自動性と他動性を合一させて、それをいかに自らのものに引き寄せていくか、というその態度と無縁ではない。むろん上記の言葉に矛盾はある。だけれども、いま、その矛盾を笑いとばすことのできない状況―絵画の時代であることは誰もが認めざるを得まい。
その矛盾が介在しているところに<絵画の現在>があり、絵画の消滅の不可能性がある。いまだ<筆先の絵具>を操るのは、<魔の手先>としかいいようのない現実がある。井上の作品はそれを強く感じさせている。